紀元前217年

第4次シリア戦争: ラフィアの戦い。プトレマイオス4世がセレウコス朝のアンティオコス3世を打ち破る。

プトレマイオス4世率いるエジプト軍とアンティオコス3世率いるセレウコス朝軍との大規模な戦闘。エジプトが勝利し、コイレ・シリア(シリア地方)における支配権を確固たるものとした。
第4次シリア戦争中の主要な会戦の一つで、紀元前217年6月22日にパレスチナ南部のラフィア平原で戦われた。 史料によれば、両軍合わせて数万人規模の兵力が動員されたとされ、古代世界でも最大級の戦闘のひとつに数えられる。 プトレマイオス4世は大量の象兵とファランクス歩兵を投入し、アンティオコス3世率いるセレウコス朝軍を破った。 この勝利により、プトレマイオス朝はコイレ・シリア地方の領有を維持するとともに、地中海東部における勢力均衡を優位に導いた。 戦闘はヘレニズム時代の象兵戦術の有効性を示した象徴的な事例として知られ、大規模な動員と戦術運用が注目される。
紀元前217年 ラフィアの戦い プトレマイオス4世 セレウコス朝 アンティオコス3世
紀元前168年

第三次マケドニア戦争: ピュドナの戦い。

ローマ軍とマケドニア王国が衝突した決定的な戦い。ローマが勝利し、マケドニア王国の独立が終焉を迎えた。
第三次マケドニア戦争のクライマックスとなる戦闘で、紀元前168年6月22日に北マケドニアのピュドナで行われた。 ローマ軍はルキウス・エミリウス・パウルス率いる歩兵と騎兵を巧みに運用し、ペルセウス王率いるマケドニアのファランクスを撃破した。 この勝利により、マケドニア王国はローマ共和政の属州として組み込まれ、ヘレニズム時代の終焉を象徴した。 戦術的にはファランクスの密集隊形が機動性に劣り、ローマの柔軟な戦闘隊形に敗れたことが分析されている。 また、この敗北を契機にローマは東地中海における政治的・軍事的支配力を一段と強化した。
紀元前168年 第三次マケドニア戦争 ピュドナの戦い
延文5年/正平15年5月9日

北朝方の畠山国清により楠木正儀の赤坂城が落城。

南北朝時代の抗争で、北朝勢の攻撃により楠木正儀率いる赤坂城が陥落した。
1360年(延文5年/正平15年)5月9日、南朝方の楠木正儀が守る赤坂城が北朝方の畠山国清の軍勢に包囲され落城した。 赤坂城は楠木氏が南朝への補給路確保の拠点として築いた要衝であった。 城の陥落により南朝勢は河内・和泉地方での勢力を大きく後退させ、北朝による近畿制圧が進展した。 史書には白兵戦や夜襲の激しさが記され、戦術的な研究対象にもなっている。 この出来事は南北朝時代の勢力バランスに影響を与えた重要な戦いの一つである。
1360年 延文 正平 5月9日 畠山国清 楠木正儀 赤坂城
天正10年6月3日

魚津城の戦い: 魚津城にこもっていた中条景泰らが切腹して魚津城を開城し、戦いが終結。柴田勝家ら織田軍・北陸担当部門が北陸を制圧。

魚津城包囲戦が終結し、中条景泰らが城を開いて自刃。織田軍が北陸地方の制圧に成功した。
1582年6月3日(天正10年6月3日)、織田信長の北陸方面軍を率いる柴田勝家らは魚津城を包囲した。 城主の中条景泰は籠城を続けたが、戦況が悪化し切腹の上で開城し、織田軍に降伏した。 魚津城の戦いは、織田家による山岳地帯制圧の端緒となり、後の上杉氏との抗争にも影響を及ぼした。 これにより織田家は越中・能登など北陸地方全域の支配を確立し、本能寺の変までの短期間で支配地域を大幅に拡大した。 戦術面では、包囲網の厳しさと城兵の士気が注目される事例となっている。
1582年 天正 6月3日 魚津城の戦い 魚津城 中条景泰 開城 柴田勝家
天正10年6月3日

夜、備中高松城の戦いで備中在陣中の羽柴秀吉のもとに本能寺の変の知らせが届く。

備中高松城包囲中の羽柴秀吉が、織田信長討たれる本能寺の変を知った。
1582年6月3日夜、羽柴秀吉は備中高松城包囲の最中に本能寺で起こった信長暗殺(本能寺の変)の報を受け取った。 備中高松城の戦い終結から転進までのスピードと交渉手腕は、『中国大返し』の名で語り継がれる。 この知らせを受け秀吉は直ちに包囲戦を終結させる策を講じ、城兵との和睦を成立させた。 その後急ぎ京に向かい、明智光秀討伐のための軍議を指揮するなど、戦国時代の流れを大きく左右した。 秀吉の迅速な対応は天下人への道筋を築く転機となった。
備中高松城の戦い 備中 羽柴秀吉 本能寺の変
1593年

シサクの戦い。クロアチア軍がオスマン帝国に勝利。不敗とされたオスマン陸軍の初の敗退。

クロアチア・ハプスブルク連合軍がオスマン帝国軍を破り、オスマン陸軍初の地上戦敗北を喫した。
1593年6月22日、クロアチア王国およびハプスブルク家の連合軍がシサク要塞付近でオスマン帝国の大軍を迎え撃った。 司令官トーマス・エルデーディ率いる西側勢力は堅固な陣地防御と機動的な攻撃を組み合わせ、オスマン軍を撃退した。 この勝利はハプスブルク帝国内外で大きく祝され、オスマンとの長期抗争における重要な転換点とされた。 これまで“不敗”とされたオスマン陸軍が初めて大規模な地上戦で敗北し、ヨーロッパにおけるオスマン勢力の拡大に歯止めをかける契機となった。 クロアチア側では戦勝を記念する行事が行われ、歴史的な英雄譚として語り継がれている。
1593年 シサクの戦い 英語版 クロアチア オスマン帝国
1815年

ワーテルローの戦いで敗れたナポレオン1世がセントヘレナに流されフランス皇帝を退位。百日天下が終了。

ワーテルローの戦い敗北後、ナポレオン1世がセントヘレナへ流刑され、百日天下が終焉。
1815年6月18日のワーテルローの戦いでナポレオン1世率いるフランス軍はプロイセン・イギリス連合軍に敗北しました。 その結果、6月22日にナポレオンはセントヘレナ島への流刑が決定され、フランス皇帝の退位を正式に発表しました。 これにより百日天下と呼ばれた復政期間は終わりを迎え、ナポレオンは生涯を英国管理下で過ごすことになります。 セントヘレナでの隔離生活は厳しく、体調を崩しながらも1815年から1821年まで滞在しました。 彼の退位と流刑はヨーロッパの国際秩序を再構築するウィーン体制の成立を促し、欧州政治に長期的な安定をもたらしました。
1815年 ワーテルローの戦い ナポレオン1世 セントヘレナ 退位 英語版 百日天下
慶応4年5月3日

戊辰戦争: 奥羽列藩同盟が成立。

戊辰戦争中、奥羽列藩同盟が成立し、幕府側諸藩が東北地方で結束。
慶応4年5月3日(1868年6月22日)に戊辰戦争の北陸・東北戦線で奥羽列藩同盟が結成されました。 会津藩を中心に、仙台・山形・庄内など東北諸藩が幕府軍への協力を決議し、藩政維持と新政府軍への対抗を図りました。 この同盟は徳川慶喜の徳川家存続を支持し、旧幕府勢力の反撃拠点として機能しました。 しかし、同盟軍は米沢藩以外が次々と離脱し、新政府軍の強力な攻勢により短期間で瓦解しました。 最終的に仙台城や会津若松城の攻防戦を経て奥羽列藩同盟は崩壊し、戊辰戦争は東北戦線でも新政府軍の勝利で終結へ向かいました。
1868年 慶応 5月3日 戊辰戦争 奥羽列藩同盟
1940年

第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: フランス首相のフィリップ・ペタンがドイツと独仏休戦協定に調印。フランスがドイツに降伏。

On June 22, 1940, Marshal Philippe Pétain signed the Franco-German Armistice, leading to France’s surrender in World War II.
On June 22, 1940, Marshal Philippe Pétain signed the Armistice of Compiègne aboard the same train carriage where Germany had surrendered in 1918. The agreement ended the Battle of France and divided the country, placing the north under German occupation. Pétain justified collaboration as necessary to preserve a measure of French sovereignty in the unoccupied zone. Harsh terms included disarmament, deportations, and reparations, deepening national humiliation. The Vichy regime was established, aligning with Nazi Germany’s strategic interests. The armistice shocked the Allies and galvanized the French Resistance. This event marked a pivotal moment in Europe’s wartime history.
1940年 第二次世界大戦 ナチス・ドイツのフランス侵攻 フィリップ・ペタン 独仏休戦協定 降伏
1941年

第二次世界大戦・独ソ戦: ドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦・バルバロッサ作戦が開始。

On June 22, 1941, Nazi Germany launched Operation Barbarossa, its massive invasion of the Soviet Union during World War II.
At dawn on June 22, 1941, over three million Axis troops crossed the Soviet border under Operation Barbarossa. The offensive stretched along a 1,800-mile front from the Baltic Sea to the Black Sea. Hitler aimed for a quick victory to secure resources and Lebensraum in the east. The surprise attack unleashed some of the largest and most brutal battles in history. Despite early successes, logistical issues and fierce Soviet resistance stalled the advance. The failure to defeat the Red Army swiftly turned Operation Barbarossa into a costly stalemate. It ultimately became a turning point, sealing the fate of Nazi Germany on the Eastern Front.
1941年 独ソ戦 ドイツ軍 ソビエト連邦 バルバロッサ作戦
1944年

第二次世界大戦・独ソ戦: ソ連赤軍のドイツ軍に対する反撃作戦・バグラチオン作戦が開始。

On June 22, 1944, the Soviet Red Army launched Operation Bagration, a devastating counteroffensive against German forces in Belarus.
Exactly three years after Operation Barbarossa, on June 22, 1944, the Red Army opened Operation Bagration. Named after Russian General Pyotr Bagration, the campaign targeted Germany’s Army Group Centre. Soviet forces executed deep encirclement tactics, overwhelming German defensive lines. Key cities, including Minsk, were liberated as German units suffered catastrophic losses. Operation Bagration decimated German forces and shifted the balance on the Eastern Front. The success paved the way for Soviet advances into Eastern Europe and ultimately Germany. Historians regard it as one of World War II’s most successful and decisive offensives.
1944年 赤軍 バグラチオン作戦
1945年

第二次世界大戦: 昭和天皇が最高戦争指導会議で初めて終戦の意図を示す。

On June 22, 1945, Emperor Hirohito signaled Japan’s intent to end World War II during his first Supreme War Council meeting.
On June 22, 1945, Emperor Hirohito attended the Supreme War Council and subtly indicated a desire to seek peace. His remarks broke with the military’s hardline stance, hinting at acceptance of Allied terms. The imperial message aimed to preserve the Emperor’s dignity while influencing the government. Military leaders debated the feasibility of continued resistance versus surrender. This moment set the stage for Japan’s eventual acceptance of the Potsdam Declaration. It represented a turning point in Japan’s decision-making process near the war’s end. Scholars view it as the Emperor’s first direct intervention in wartime policy.
1945年 昭和天皇 最高戦争指導会議