応仁元年5月20日
応仁の乱:山名持豊(宗全)、畠山義就らが挙兵。
1467年、山名持豊(宗全)らが京都で挙兵し、応仁の乱の火ぶたが切られました。
応仁の乱は室町幕府の権力争いから発生した大規模な内乱です。山名持豊(宗全)と細川勝元の対立が表面化し、両陣営が京都周辺で衝突しました。この乱は約10年間続き、各地の大名が参戦して戦国時代の混乱を深刻化させました。結果的に幕府の統制力は著しく弱体化し、戦国大名の台頭を許す契機となりました。日本史上、最初期の大規模内戦として重要視されています。
1467年
応仁
5月20日
応仁の乱
山名持豊(宗全)
畠山義就
元文元年5月13日
江戸幕府が金銀吹き替え(改鋳)を布告(元文改鋳)。
1736年、江戸幕府が金銀貨の改鋳を命じる元文改鋳を布告しました。
元文改鋳は幕府が貨幣価値を調整するために実施した通貨改革です。金銀の含有量を変更し、貨幣の実質的価値を下げる目的がありました。物価の高騰や財政難への対策として行われましたが、信用不安を招いて流通混乱を引き起こしました。幕府は改鋳後に再度補填策を講じる必要に迫られ、経済政策の難しさが浮き彫りになりました。この出来事は江戸時代の財政史を考察する上で重要です。
1736年
元文
5月13日
江戸幕府
元文改鋳
1788年
ニューハンプシャー邦がアメリカ合衆国憲法を批准。所定の9邦の批准により、アメリカ合衆国憲法が発効。
1788年、ニューハンプシャー邦が憲法を批准し、アメリカ合衆国憲法が発効しました。
アメリカ合衆国憲法は1787年に制定された連邦政府の枠組みを定める基本法です。ニューハンプシャー邦は9番目に憲法を批准し、必要条件を満たして憲法は同年発効しました。この発効により合衆国は正式に連邦国家として機能を開始しました。制定当初から権力分立や連邦主義の仕組みが導入され、現代に至るまで法の基盤となっています。この歴史的瞬間はアメリカ政治の礎を築いた出来事です。
1788年
ニューハンプシャー邦
アメリカ合衆国憲法
1807年
ナポレオン戦争:フランス・ドイツ・プロイセンの3か国間で休戦協定が締結。
ナポレオン戦争中の1807年6月21日、フランス・プロイセン・ドイツ(諸邦)間で一時的な休戦が成立した。戦線の膠着状態を一時緩和する役割を果たした。
ナポレオン戦争の進行中、主要戦線での戦闘が一時的に休戦された協定です。
当時のフランス政府とプロイセン王国、複数のドイツ諸邦が合意に至りました。
協定は戦術的な再編と補給線の立て直しを目的として締結されました。
これにより両陣営は大規模な戦闘を回避し、兵力を再編成する猶予を得ました。
休戦期間中には捕虜交換や補給活動が行われ、戦線に変化が生じました。
しかし最終的にはナポレオンのさらなる進撃に伴い休戦は破棄され、戦闘が再開されました。
ヨーロッパ各地の勢力均衡に一時的な変化をもたらした出来事です。
1807年
ナポレオン戦争
フランス
ドイツ
プロイセン
休戦協定
明治元年5月2日
明治政府が大阪府を設置。
明治維新直後の1868年6月21日(明治元年5月2日)、新政府が大阪府を設置し、府県制改革を進めた。
廃藩置県の先駆けとして、大阪府は1868年6月21日に設置されました。
それまで大坂裁判所が管轄していた地域を府として組織し、中央集権的行政体制を導入しました。
初代知事には大久保利通ら新政府の中心人物が任命され、近代的統治の実践が始まりました。
これにより、旧来の幕府直轄領や藩領を統合する政策が加速しました。
大阪は商工業の中心地として経済振興が期待され、新政府は治安維持やインフラ整備を進めました。
府の設置はその後の全国的な府県制度確立のモデルとなり、行政改革の礎となりました。
同時に地方財政や司法制度の近代化も並行して行われました。
1868年
明治
5月2日
明治政府
大阪府
1892年
鉄道敷設法公布。
1892年6月21日、国産鉄道網拡大の基礎を築く鉄道敷設法が公布された。
政府による民間資本活用型の鉄道敷設方針を定めた重要法令。
明治25年に公布されたこの法律は、国策として鉄道敷設を促進するための枠組みを示しました。
政府は鉄道建設の基本方針を設定し、私鉄会社による路線建設を奨励しました。
路線網の構想や距離、補助金制度、用地買収の手続きなどが詳細に規定されていました。
これにより全国各地で鉄道敷設計画が加速し、地方経済の発展と交通網整備に大きく寄与しました。
鉄道敷設法は後の鉄道国有化や大規模路線拡張の礎となり、日本の近代化を後押ししました。
同法の制定は民間資本と政府連携による社会資本整備のモデルケースと評価されています。
その後の日本の物流・旅客交通の発展に欠かせない基盤を築きました。
1892年
鉄道敷設法
1898年
パリ条約により、グアムがスペインからアメリカに割譲される。1668年から、230年に及ぶスペインの支配に終止符。
米西戦争終結のパリ条約により、グアム島がスペインからアメリカへ割譲されました。
230年にわたるスペインの支配に終止符が打たれました。
1898年に締結されたパリ条約は米西戦争を公式に終結させました。
この条約によりフィリピン、プエルトリコ、グアムがスペインからアメリカ領となりました。
グアムは1668年にスペインの植民地となって以来約230年間支配下にありました。
アメリカは戦略的拠点として太平洋の通商路確保を意図して割譲を受けました。
現地では先住民族チャモロ文化とスペイン文化、アメリカ文化が混在する歴史が始まりました。
1940年代の第二次世界大戦中には日本軍の占領も経験し、複雑な歴史を形作りました。
パリ条約
グアム
スペイン
アメリカ
1668年
スペイン
1901年
元衆議院議長・逓信大臣で東京市会議長の星亨が、伊庭想太郎に刺殺される。
元衆議院議長で逓信大臣の星亨が、東京市会で暗殺されました。
星亨(ほし とおる)は明治期の政治家で、衆議院議長や逓信大臣、東京市会議長を歴任しました。
1901年6月21日、東京市会の会議中に伊庭想太郎(いば そうたろう)に襲われ、刃物で致命傷を負いました。
伊庭は市会の決定に不満を抱いていたとされ、その動機には政治的恨みがあったと伝えられます。
事件は当時大きな衝撃を呼び、国内の政治情勢にも不安を与えました。
星の死後、国会や市政の安全対策強化が議論され、政治家の警護体制が見直されました。
後世では、政治的対立が暴力に発展した象徴的事件として語り継がれています。
1901年
衆議院議長
逓信大臣
東京市会
星亨
伊庭想太郎
刺殺
1915年
無線電信法公布。
日本で無線電信法が公布され、無線通信の規制と振興の枠組みが整備されました。
1915年6月21日、日本政府は無線電信法を公布し、国家による無線通信の許可制を導入しました。
この法律は周波数の割り当て、免許制度、通信の監督権限などを定め、混信や無秩序な使用を防止しました。
当時、無線技術は軍事や海運、国際通信での重要性が増しており、統制強化が求められていました。
法律の施行により、官営無線局だけでなく民間への運用許可も認められ、技術開発が促進されました。
後に電気通信事業法などへと発展し、放送や携帯通信など近代通信インフラの基礎となりました。
日本の近代的な通信制度確立に大きく貢献した画期的な法整備です。
1915年
無線電信法
1951年
日本が国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) の加盟が承認される。なお、加盟日は同年7月2日。
1951年6月21日、日本のUNESCO加盟が承認され、国際的な教育・文化交流の道が開かれました。
第二次世界大戦後の国際復帰を図る日本は1951年6月21日にUNESCO(国際連合教育科学文化機関)への加盟申請が承認されました。
正式加盟は同年7月2日ですが、承認により日本の教育・科学・文化交流が活発化する道が開かれました。
UNESCOは平和構築を目的とした国際機関として、日本の知的・文化的発展に貢献する重要なプラットフォームとなりました。
加盟後は国内外での学術協力や文化交流プログラムへの参加が進み、戦後復興の一翼を担いました。
また、UNESCO条約の遵守を通じて国際社会との信頼関係を強めました。
1951年
国際連合教育科学文化機関
1951年
日本の国際労働機関 (ILO) 第34回総会で、日本の再加盟が承認された。
1951年6月21日、日本のILO再加盟が正式に承認されました。
国際労働機関(ILO)は1951年6月21日、休会中だった日本の再加盟を承認しました。
加盟により日本は戦後復興期の労働基準や社会保障制度の改善に国際的な指針を取り入れることが可能となりました。
ILOの条約や勧告を通じて労働者の権利保護や雇用条件の整備が進展し、経済成長の基盤が強化されました。
また、ILO加盟は国際社会への復帰を象徴し、日本の民主的な労働運動の発展にも寄与しました。
その後、日本はILOの重要な締約国として人権・労働条件向上に貢献しています。
国際労働機関
1957年
ソ連のスパイ、ルドルフ・アベルがFBIに逮捕される。
1957年6月21日、ソ連のスパイ、ルドルフ・アベルがニューヨークでFBIに逮捕されました。
ルドルフ・アベル(本名ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・アレクサンドロフ)は冷戦期に米国内で諜報活動を行っていたソ連KGBの工作員でした。彼は暗号通信やアメリカ人スパイの勧誘などに関与し、FBIによる長期にわたる潜入捜査の末、1957年6月21日にニューヨークで逮捕されました。この事件は米ソ間の緊張を一層高め、世論の関心を集めました。逮捕から5年後の1962年には、アベルはアメリカ人パイロット・フランシス・ゲーリー・パワーズとのスパイ交換で釈放されました。以降、冷戦下の情報戦の象徴的出来事として語り継がれています。
1957年
ソ連
スパイ
ルドルフ・アベル
FBI