天武天皇15年5月24日
天武天皇重態。川原寺で薬師経を説かせ、僧を宮中に安居。
天武天皇が重態に陥り、薬師経を講じさせて延命を願った出来事。
686年6月20日(天武天皇15年5月24日)、天武天皇が川原寺で体調を崩し重態とされた。延命と国家安泰を祈請するため、薬師経が読経され、僧侶が宮中に安居して修行を続けた。川原寺は天皇の帰依が深かった寺院であり、仏教の影響力を朝廷に示す重要な場でもあった。この一連の儀礼は仏教と国家の結びつきを象徴し、天皇権威の宗教的正当化にも寄与した。これにより朝廷内での仏教的慣習が強化される一因となった。
686年
天武天皇
慶長7年5月1日
徳川家康が諸大名に二条城造営を命じる。
徳川家康が京都の新たな拠点として二条城の造営を諸大名に命じた。
慶長7年(1602年)6月20日、江戸幕府初代将軍・徳川家康は京都に城郭を築き、統治権威を示すため諸大名に二条城の造営を指示した。二条城は政治儀式や接遇の場として機能し、幕府の権勢を象徴する建築物となった。豪壮な石垣や天守台、書院造りの本丸御殿など、当時の建築技術と美学を反映している。完成後は将軍上洛時の宿泊所としても利用され、江戸期の政務・文化交流の中心地となった。今日でも世界遺産に登録され、歴史的建造物として多くの観光客を魅了している。
1602年
慶長
5月1日
徳川家康
大名
二条城
1782年
アメリカ合衆国議会がグレートシール(国璽)を決定。
アメリカ合衆国議会が新政府の公式印章となるグレートシールを制定した。
1782年6月20日、アメリカ合衆国初代議会は大陸会議で公式印章としてグレートシールを採択した。グレートシールには鷲の紋章やラテン語の標語が盛り込まれ、新国家の威信と理念を象徴するデザインが選定された。印章は文書の公式認証や外交文書への押印に使用される重要な国家象徴となった。この決定は独立戦争勝利後の新政権確立を印象づけ、アメリカ国民の連帯感を高める役割を果たした。デザインは後に何度も改変されたが、基本構成は現在でも連邦政府の公式印として引き継がれている。
1782年
アメリカ合衆国議会
グレートシール
国璽
1789年
球戯場の誓い(テニスコートの誓い)。フランスで、第三身分議員らが議事堂内のテニスコートで憲法制定までの不解散を誓う。
フランス革命初期に第三身分議員がテニスコートで憲法制定まで解散しないと誓約した。
1789年6月20日、フランス革命の決定的瞬間として知られる球戯場の誓いが行われた。第三身分に属する議員たちは議事堂入口が封鎖されたことを受け、ルイ16世の命で撤回されない限り議会を解散しないとテニスコートで誓った。この行動は専制的旧体制への反発を象徴し、国民議会の結束を強固にした。以後、憲法制定を目指す政治運動が加速し、革命の勢いを決定的に高めた。誓いは革命の象徴的イメージとして後世の美術作品や文学にも頻繁に描かれるテーマとなった。
1789年
球戯場の誓い
1791年
フランス革命: ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てる。(ヴァレンヌ事件)
ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を図るも失敗し、国民の信頼を失墜させた。
1791年6月20日未明、フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットら一家はヴァレンヌへの脱出を開始した。護衛を装った軍隊列を率いて王宮を脱出したものの、ヴァレンヌで身分を疑われ身柄を拘束された。逃亡計画の失敗は王権への支持を決定的に失わせ、立憲君主制から共和制へ移行する契機となった。事件後にルイ16世は国民公会に送還され、最終的には処刑に至る道を歩むこととなった。このヴァレンヌ事件は革命期の緊張感と国王の信頼喪失を象徴する重要な出来事とされる。
1791年
フランス革命
ルイ16世
オーストリア
ヴァレンヌ事件
1837年
イギリスでヴィクトリアが国王に即位。
1837年、ヴィクトリアがイギリス女王に即位し、ヴィクトリア朝時代が始まりました。
1837年6月20日、ヴィクトリアが若干18歳でイギリスの女王として即位し、ヴィクトリア朝の幕開けとなりました。
彼女は1819年5月24日に生まれ、王位継承権を持つ存在でした。
先代ウィリアム4世の崩御に伴い、女性君主として国政を担う責務を負いました。
ヴィクトリア朝は産業革命の最盛期と重なり、帝国主義的拡大や社会改革が進んだ時代を特徴とします。
文学や美術、建築などにおいても「ヴィクトリア朝様式」が確立し、後世に強い影響を残しました。
1837年
ヴィクトリア
1862年
ルーマニアのラスカル・カタルジュ首相が暗殺される。
1862年
ルーマニア
ラスカル・カタルジュ
1863年
バージニア州から分離したウェストバージニアが州に昇格し、アメリカ合衆国35番目の州となる。
1863年、ウェストバージニアがアメリカ合衆国の35番目の州として正式に承認されました。
南北戦争中の1861年、バージニア州西部の住民は北部に残留を望む声をあげ、分離運動が起こりました。
1863年6月20日、ウェストバージニア州として正式に合衆国に加盟し、35番目の州として認められました。
新州成立には連邦政府の承認と住民投票が重要な役割を果たしました。
山岳地帯を中心とした地域は石炭や木材など豊富な資源を有し、独自の経済基盤を築いていました。
この州の誕生は南北戦争下での国家統一と多様性の象徴的な出来事とされています。
1863年
バージニア州
ウェストバージニア
アメリカ合衆国
州
1927年
日本・アメリカ合衆国・イギリスの3か国によるジュネーブ海軍軍縮会議が始まる。8月4日まで。
1927年、主要三国が参加するジュネーブ海軍軍縮会議が開幕し、海軍兵力の制限を協議しました。
第一次世界大戦後、軍備制限の流れを受けて1927年6月20日にジュネーブで海軍軍縮会議が始まりました。
日本、アメリカ、イギリスが中心となり、戦艦・巡洋艦の保有比率や補助艦艇の制限が議題となりました。
会議にはフランスやイタリアなども参加し、国際的な軍縮努力が進められました。
条約締結には至らなかったものの、後のロンドン海軍軍縮会議への道を開いた重要な会合です。
会議は同年8月4日まで開催されました。
1927年
日本
アメリカ合衆国
ジュネーブ海軍軍縮会議
8月4日
1931年
ハーバート・フーヴァー米大統領が、ドイツの第一次大戦賠償金の支払いを1年間猶予することを宣言。(フーヴァーモラトリアム)
1931年、フーヴァーモラトリアムでドイツの戦後賠償金支払いが1年間猶予されました。
世界恐慌の影響で国際金融は混乱し、米大統領ハーバート・フーヴァーは1931年6月20日に賠償金支払いの1年猶予を発表しました。
この措置はドイツ経済の崩壊を防ぎ、ヨーロッパの金融安定を図る狙いがありました。
猶予期間中、ドイツは賠償金支払いを凍結できたものの、根本的な債務問題は解決しませんでした。
ヨーロッパ諸国間の緊張緩和には一定の効果をもたらした一方、政策の効果を巡って賛否が分かれました。
この発表は「フーヴァーモラトリアム」と呼ばれ、国際経済政策の転換点となりました。
1931年
ハーバート・フーヴァー
ドイツ
フーヴァーモラトリアム
1954年
三重県尾鷲市が市制施行。
1954年6月20日、三重県尾鷲市が市制を施行し、自治体として発足しました。
1954年6月20日、尾鷲町と隣接地域が合併し、尾鷲市が誕生。
リアス海岸で知られる漁業と林業のまちで、市制施行により行政組織が強化されました。
新市は地域振興やインフラ整備を推進し、住民サービスの向上を図りました。
以後、観光や水産業の振興策が実施され、地域経済の発展に寄与しています。
現在も幹線道路や港湾整備に力を入れ、海洋資源活用を進めています。
1954年
尾鷲市
1956年
遺骨収集及び現地追悼のための政府派遣団がニューギニア島、ボルネオ島方面へ出発。同年8月23日に戦没者追悼式が挙行。
1956年6月20日、日本政府が戦没者遺骨収集と現地追悼のためニューギニア・ボルネオ方面へ派遣団を出発しました。
太平洋戦争で戦没した日本兵の遺骨収集と現地追悼を目的に、政府派遣団が海外へ出発。
同年8月23日には現地で戦没者追悼式が挙行され、関係者が献花や黙祷を捧げました。
派遣団には遺族代表や防衛庁職員らが参加し、遺骨の発見・収容に従事。
これにより戦後の国民感情の整理と平和への願いが込められた公的行事となりました。
現在も不断の遺骨収集事業として引き継がれ、遺族への供養活動が継続しています。
1956年
遺骨収集及び現地追悼
ニューギニア島
ボルネオ島
8月23日