451年

カタラウヌムの戦い。アッティラ率いるフン族と西欧諸民族連合軍の会戦。

451年6月20日、フン族と西欧諸民族連合軍がカタラウヌム(現フランス)で激突した会戦。ヨーロッパ防衛の転機となった。
カタラウヌムの戦いは、アッティラ率いるフン族が西ローマ帝国へ侵攻した際に行われた会戦である。451年6月20日、現フランス・シャロン付近で西ローマ帝国とゲルマン諸王国などの連合軍が結集し、フン軍を迎え撃った。戦闘は双方に大きな損害をもたらし、激戦となったが、最終的に連合軍がフン族の西進を食い止めた。この戦いはヨーロッパにおける蛮族侵入防止の象徴とされ、後世における防衛戦の教訓として高く評価されている。
451年 カタラウヌムの戦い アッティラ フン族
天武天皇15年5月24日

天武天皇重態。川原寺で薬師経を説かせ、僧を宮中に安居。

天武天皇が重態に陥り、薬師経を講じさせて延命を願った出来事。
686年6月20日(天武天皇15年5月24日)、天武天皇が川原寺で体調を崩し重態とされた。延命と国家安泰を祈請するため、薬師経が読経され、僧侶が宮中に安居して修行を続けた。川原寺は天皇の帰依が深かった寺院であり、仏教の影響力を朝廷に示す重要な場でもあった。この一連の儀礼は仏教と国家の結びつきを象徴し、天皇権威の宗教的正当化にも寄与した。これにより朝廷内での仏教的慣習が強化される一因となった。
686年 天武天皇
治承4年5月26日

以仁王の挙兵: 宇治平等院の戦いで源頼政と以仁王が敗死。

以仁王が平家打倒を目指して挙兵し、宇治平等院で源頼政とともに敗北・戦死した。
治承4年(1180年)6月20日、以仁王は父・後白河法皇の命を受けて平家討伐の旗を掲げ、反平家連合を呼びかけた。挙兵軍は源頼政をはじめとする武士団とともに宇治平等院に立て籠もったが、平家軍の機先を制した奇襲により壊滅的敗北を喫した。以仁王と源頼政は戦場で討ち死にし、その訃報は全国へ広まり武士階級の反平家運動を加速させた。結果として、源氏の台頭と鎌倉幕府成立への道筋を開いた歴史的転機となった。この挙兵は日本の中世政治史に大きな影響を及ぼし、武士政権の礎を築いた。
1180年 治承 5月26日 以仁王の挙兵 源頼政 以仁王
元弘3年/正慶2年5月8日

新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げ。

新田義貞が鎌倉幕府打倒を掲げ、上野国で挙兵した。
1333年6月20日(元弘3年/正慶2年5月8日)、新田義貞は北条氏支配に対抗するため上野国(現在の群馬県)で旗揚げした。義貞は鎌倉幕府の要衝を次々と制圧し、その名声を高めながら東国武士の支持を集めた。後に鎌倉攻めを成功させ、幕府滅亡の契機を作った。この挙兵は後醍醐天皇による建武の新政成立にもつながり、南北朝時代を迎える大きな端緒となった。義貞の活躍は物語や軍記物にも描かれ、後世に英雄視された。
1333年 元弘 正慶 5月8日 新田義貞 上野国
慶長7年5月1日

徳川家康が諸大名に二条城造営を命じる。

徳川家康が京都の新たな拠点として二条城の造営を諸大名に命じた。
慶長7年(1602年)6月20日、江戸幕府初代将軍・徳川家康は京都に城郭を築き、統治権威を示すため諸大名に二条城の造営を指示した。二条城は政治儀式や接遇の場として機能し、幕府の権勢を象徴する建築物となった。豪壮な石垣や天守台、書院造りの本丸御殿など、当時の建築技術と美学を反映している。完成後は将軍上洛時の宿泊所としても利用され、江戸期の政務・文化交流の中心地となった。今日でも世界遺産に登録され、歴史的建造物として多くの観光客を魅了している。
1602年 慶長 5月1日 徳川家康 大名 二条城
元禄16年5月7日

大坂・竹本座で近松門左衛門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演。

近松門左衛門の名作『曽根崎心中』が人形浄瑠璃として初めて上演された。
1703年6月20日(元禄16年5月7日)、大坂の竹本座で近松門左衛門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演された。本作は恋愛悲劇を描いた世話物で、当時の庶民感情を色濃く反映している。公徳心と個人の情念が衝突する物語構成は観客の共感を呼び、以後の浄瑠璃・歌舞伎文学に大きな影響を与えた。竹本座を拠点とする人形浄瑠璃は大坂の文化を象徴し、後世に名作として語り継がれることとなった。曽根崎心中は人形浄瑠璃の技術的見所も多く、当時の演出や人形遣いの巧みさも評価された。
1703年 元禄 5月7日 近松門左衛門 曽根崎心中
1782年

アメリカ合衆国議会がグレートシール(国璽)を決定。

アメリカ合衆国議会が新政府の公式印章となるグレートシールを制定した。
1782年6月20日、アメリカ合衆国初代議会は大陸会議で公式印章としてグレートシールを採択した。グレートシールには鷲の紋章やラテン語の標語が盛り込まれ、新国家の威信と理念を象徴するデザインが選定された。印章は文書の公式認証や外交文書への押印に使用される重要な国家象徴となった。この決定は独立戦争勝利後の新政権確立を印象づけ、アメリカ国民の連帯感を高める役割を果たした。デザインは後に何度も改変されたが、基本構成は現在でも連邦政府の公式印として引き継がれている。
1782年 アメリカ合衆国議会 グレートシール 国璽
1789年

球戯場の誓い(テニスコートの誓い)。フランスで、第三身分議員らが議事堂内のテニスコートで憲法制定までの不解散を誓う。

フランス革命初期に第三身分議員がテニスコートで憲法制定まで解散しないと誓約した。
1789年6月20日、フランス革命の決定的瞬間として知られる球戯場の誓いが行われた。第三身分に属する議員たちは議事堂入口が封鎖されたことを受け、ルイ16世の命で撤回されない限り議会を解散しないとテニスコートで誓った。この行動は専制的旧体制への反発を象徴し、国民議会の結束を強固にした。以後、憲法制定を目指す政治運動が加速し、革命の勢いを決定的に高めた。誓いは革命の象徴的イメージとして後世の美術作品や文学にも頻繁に描かれるテーマとなった。
1789年 球戯場の誓い
1791年

フランス革命: ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てる。(ヴァレンヌ事件)

ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を図るも失敗し、国民の信頼を失墜させた。
1791年6月20日未明、フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットら一家はヴァレンヌへの脱出を開始した。護衛を装った軍隊列を率いて王宮を脱出したものの、ヴァレンヌで身分を疑われ身柄を拘束された。逃亡計画の失敗は王権への支持を決定的に失わせ、立憲君主制から共和制へ移行する契機となった。事件後にルイ16世は国民公会に送還され、最終的には処刑に至る道を歩むこととなった。このヴァレンヌ事件は革命期の緊張感と国王の信頼喪失を象徴する重要な出来事とされる。
1791年 フランス革命 ルイ16世 オーストリア ヴァレンヌ事件
1810年

スウェーデン貴族で、マリー・アントワネットの愛人であったフェルセンが民衆により惨殺される。

マリー・アントワネットの旧愛人フェルセンがスウェーデンで民衆に暴行され死亡した。
1810年6月20日、スウェーデンの貴族でかつてマリー・アントワネットの愛人とされたアクセル・フォン・フェルセンがストックホルムの街中で群衆に襲われた。当時、フェルセンは王妃シャルロッテの信頼も厚く政治的影響力を持っていたが、民衆の反感を買っていた。暴行を受けたフェルセンは重傷を負い、間もなく死亡した。この事件はスウェーデン宮廷の権力闘争と民衆感情の不安定さを示す象徴的事例とされる。彼の死はヨーロッパ各地にも衝撃を与え、当時の政治的動揺の一端を浮き彫りにした。
1810年 スウェーデン マリー・アントワネット フェルセン
1819年

アメリカの蒸気船「サヴァンナ」が、世界初の蒸気船による大西洋横断を経てイギリス・リバプールに到着。

アメリカの蒸気船「サヴァンナ号」が世界初の蒸気船による大西洋横断を達成し、リバプールに到着しました。
1819年、アメリカの蒸気船「サヴァンナ号」が当時主流の帆船ではなく蒸気機関を動力源とする初の船として大西洋横断を試みました。 同年6月20日、リバプールに到着し、蒸気船による横断航海の成功を世界に示しました。 全行程は約29日間で、途中で蒸気機関の燃料が尽きたため、帆走に頼った区間もありました。 この航海は長距離海上輸送の可能性を切り開き、後の海運業に大きな影響を与えました。 技術革新としての蒸気船が商業航路に導入される先駆けとなった歴史的事件です。
1819年 蒸気船 サヴァンナ 大西洋 イギリス リバプール
1837年

イギリスでヴィクトリアが国王に即位。

1837年、ヴィクトリアがイギリス女王に即位し、ヴィクトリア朝時代が始まりました。
1837年6月20日、ヴィクトリアが若干18歳でイギリスの女王として即位し、ヴィクトリア朝の幕開けとなりました。 彼女は1819年5月24日に生まれ、王位継承権を持つ存在でした。 先代ウィリアム4世の崩御に伴い、女性君主として国政を担う責務を負いました。 ヴィクトリア朝は産業革命の最盛期と重なり、帝国主義的拡大や社会改革が進んだ時代を特徴とします。 文学や美術、建築などにおいても「ヴィクトリア朝様式」が確立し、後世に強い影響を残しました。
1837年 ヴィクトリア