1179年

ノルウェー内戦時代:ノルウェーのトロンハイム近郊(旧称Kalvskinnet)で戦闘が起こり、アーリン・スカッケ(Erling Skakke)が戦死。

ノルウェー内戦時代にトロンハイム近郊で発生した戦闘で、アーリン・スカッケが戦死した。
1179年6月19日、ノルウェー内戦時代の一環として、トロンハイム(旧称Kalvskinnet)近郊で激しい戦闘が勃発した。この戦闘では有力貴族アーリン・スカッケ(Erling Skakke)が指揮を執り戦ったが、討死している。彼の死は王位継承を巡る勢力争いに大きな影響を与え、内戦のさらなる混乱を招いた。内戦は以来数十年にわたり継続し、ノルウェーの政情不安定化を深刻化させた。
1179年 ノルウェー内戦時代 英語版 ノルウェー トロンハイム Kalvskinnet アーリン・スカッケ Erling Skakke
1306年

メスヴェンの戦い。ペンブルック伯の軍がスコットランド王のロバート・ブルースを破る。

スコットランド王ロバート・ブルース率いる軍がメスヴェンで英軍に敗北した戦い。
1306年6月19日、スコットランド王位をめぐる争いの一環として、メスヴェンの戦いが起きた。ペンブルック伯爵率いるイングランド軍がロバート・ブルースの軍勢を奇襲し、スコットランド軍を打ち破った。ブルースは一時的に追い詰められたものの、その後復活し最終的にスコットランド王に即位した。戦闘はスコットランド独立戦争の歴史的転換点となった。
1306年 メスヴェンの戦い 英語版 ペンブルック伯 スコットランド王 ロバート・ブルース
元弘3年/正慶2年5月7日

倒幕に転じた足利高氏らの攻撃により六波羅探題が陥落。

足利尊氏らが京都の六波羅探題を攻略し、鎌倉幕府の主要拠点が陥落した。
1333年6月19日(元弘3年/正慶2年5月7日)、倒幕運動を展開していた足利高氏(後の足利尊氏)らの軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した。六波羅探題は鎌倉幕府の京都支配拠点であり、その陥落は幕府権威の瓦解を象徴する出来事となった。この勝利により尊氏は朝廷と協調し、建武新政の実現へ大きく前進した。鎌倉幕府は数ヶ月後に滅亡し、日本の政治は新たな時代へと移行した。
1333年 元弘 正慶 5月7日 足利高氏 六波羅探題
1419年

応永の外寇。李氏朝鮮軍が対馬に上陸。

朝鮮王朝軍が対馬に上陸し、日本と朝鮮の国境を巡る衝突が発生した。
1419年6月19日、応永の外寇と呼ばれる李氏朝鮮(朝鮮王朝)の遠征軍が対馬に上陸した。対馬守護の宗氏は迎撃に向かったが、数日の戦闘の末に兵力差で押され撤退を余儀なくされた。この遠征は朝鮮側が朝貢国としての忠誠を確認する目的だったが、両国間の緊張を一層高める結果となった。日本側では防備強化や外交交渉が進められ、後の貿易や交流の形態にも影響を与えた。
1419年 応永の外寇 李氏朝鮮 対馬
1800年

フランス革命戦争(第二次対仏大同盟):ヘヒシュテットの戦い

フランス革命戦争中、バイエルン地方でオーストリア軍とフランス軍が衝突した。
1800年6月19日、第2次対仏大同盟戦役の一環として、バイエルン地方のヘヒシュテット付近でオーストリア軍とフランス軍が衝突した。両軍はドナウ川流域の制圧を巡り攻防を展開し、戦役全体の戦線における緊張を高めた。詳細な戦闘展開は限定的な記録しか残っていないものの、後の主戦場への橋頭堡形成に一定の役割を果たした。この衝突はモリュンやホーエンリンデンの戦いへと続く一連の戦いの前哨戦と位置付けられている。
1800年 フランス革命戦争 第二次対仏大同盟 ヘヒシュテットの戦い 英語版
1816年

セブン・オークスの戦い。カナダで、毛皮交易をめぐり交易会社2社が戦闘。

毛皮交易を巡りハドソン湾会社とノースウェスト会社の勢力が衝突した戦闘。
1816年6月19日、現在のカナダ・マニトバ州ウィニペグ近郊で、毛皮交易を巡るハドソン湾会社とノースウェスト会社(メティ軍勢含む)の対立が激化し、セブン・オークスの戦いが起きた。ハドソン湾会社側の指揮官ロバート・センプル総督らがメティとノースウェスト会社の勢力に襲撃され、多数の死傷者が発生した。戦闘の結果、ハドソン湾会社の交易拠点は一時的に制圧され、毛皮交易を巡る勢力均衡に大きな影響を与えた。この出来事は西部開拓史の重要な一幕として知られている。
1816年 セブン・オークスの戦い
1821年

ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリアがオスマン帝国に敗れ壊滅。

1821年のギリシャ独立戦争で行われたドラガシャニの戦いにより、フィリキ・エテリアがオスマン帝国軍に敗北し組織が壊滅しました。独立運動に大きな衝撃を与えた戦闘です。
1821年6月19日に行われたドラガシャニの戦いは、ギリシャ独立戦争初期の重要な衝突でした。フィリキ・エテリアと呼ばれる革命結社の部隊がオスマン帝国軍と正面から衝突し、組織の指導者や兵士の多くが戦死・捕虜となりました。その結果、フィリキ・エテリアは事実上壊滅状態に陥り、独立運動は一時的に後退を余儀なくされました。この敗北は同時に国際的な注目を集め、やがてギリシャ民族意識の高揚と支援拡大の契機ともなりました。最終的に1830年にはギリシャの独立が承認され、近代ギリシャ国家の誕生に結びつきました。
1821年 ギリシャ独立戦争 ドラガシャニの戦い フィリキ・エテリア オスマン帝国
1867年

メキシコの自由主義勢力がケレタロでメキシコ皇帝マクシミリアンを処刑。

1867年6月19日、メキシコの自由主義勢力がケレタロでメキシミリアン1世を処刑しました。
1867年6月19日、メキシコ第二帝政を支持したフランス軍の撤退を受け、自由主義軍が皇帝マクシミリアン1世をケレタロで捕らえました。裁判の末に死刑判決が下され、同日早朝に銃殺刑が執行されました。この処刑により第二帝政は終焉を迎え、ベニート・フアレス率いる共和制の復活が確定しました。事件はメキシコ国内の政治体制を大きく変えただけでなく、欧州列強の内政干渉に対する警鐘ともなりました。現在もメキシミリアンの最期は歴史的な転換点として語り継がれています。
1867年 メキシコ 自由主義 ケレタロ メキシコ皇帝マクシミリアン
1875年

反オスマン帝国を掲げたヘルツェゴヴィナ蜂起が勃発。

1875年6月19日、オスマン帝国支配に対する反乱としてヘルツェゴヴィナ蜂起が勃発しました。
1875年6月19日、現地のキリスト教徒住民や自由主義者らがオスマン帝国に対して反乱を起こし、ヘルツェゴヴィナ蜂起が始まりました。農民や都市の住民が協力して帝国軍に立ち向かい、各地でゲリラ戦が展開されました。この蜂起はボスニア・ヘルツェゴヴィナ全域に広がり、セルビアやモンテネグロの支援を得てオスマン勢力を消耗させました。最終的に1877-78年の露土戦争へと連鎖し、ベルリン会議でバルカン半島の勢力図が再編されるきっかけとなりました。蜂起は民族自決運動の火種となり、近代バルカン史における重要な転換点です。
1875年 オスマン帝国 ヘルツェゴヴィナ蜂起
1937年

黒河下流の乾岔子島と金阿穆河島でソビエト連邦・満州国両軍が衝突(乾岔子島事件)。

1937年、黒河下流の島々でソ連軍と満州国軍が衝突し、乾岔子島事件が発生しました。
満州国とソ連の国境を巡る緊張が高まる中、黒河下流域の乾岔子島と金阿穆河島で両軍が小規模な武力衝突。 死傷者が出るなど事態は深刻化し、国際的な注目を集めました。 この事件は後のノモンハン事件へと続く一連の国境紛争の一つとして位置づけられています。 満州国側は日本の関東軍とも協力しており、事件は日ソ関係にも影響を及ぼしました。 地域情勢の不安定化を象徴する出来事でした。
1937年 黒河 ソビエト連邦 満州国 乾岔子島事件
1944年

第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。

1944年6月19日、マリアナ沖海戦が勃発。米海軍が日本海軍を壊滅的に打撃した海戦。
1944年6月19日、マリアナ・パラオ諸島の戦いの一環として「マリアナ沖海戦」が始まりました。 アメリカ海軍と日本海軍の機動部隊が対峙し、大規模な空母同士の戦いとなりました。 米艦載機は最新鋭機を多数投入し、日本側の防空網を突破しました。 戦いは連合軍側で「マリアナ沖の七面鳥狩り」とも称され、一方的な展開となりました。 日本海軍は多くの航空母艦と搭載機を喪失し、航空戦力が著しく低下しました。 この結果、太平洋戦局に決定的な影響を与えました。
1944年 第二次世界大戦 マリアナ・パラオ諸島の戦い マリアナ沖海戦
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。

1945年6月19日、日本本土空襲で静岡市と福岡市が米軍機の攻撃を受けた。
第二次世界大戦末期の1945年6月19日、米軍は日本本土に対する大規模空襲を実施しました。 この日に静岡大空襲では市街中心部が焼夷弾によって大きな被害を受け、多数の建物が焼失しました。 福岡大空襲では工業地帯や市街地が標的となり、多くの民間人が犠牲となりました。 いずれの空襲も夜間に行われ、火災旋風が発生して被害を一層拡大させました。 これらの攻撃は戦局を早期に終結させる狙いがありましたが、多くの犠牲と都市破壊をもたらしました。 空襲後、復興には長い時間と膨大な資源が必要となりました。
1945年 日本本土空襲 静岡大空襲 福岡大空襲