1846年

公式な記録に残る史上初の野球の試合がニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン球場で行われる。ニューヨークベースボールクラブがニッカーボッカーズを23–1で勝利。

1846年6月19日にニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン球場で公式記録に残る史上初の野球試合が行われました。ニューヨークベースボールクラブがニッカーボッカーズを23–1で破りました。
この試合は1846年6月19日にニューヨークベースボールクラブとニッカーボッカーズの間で行われ、会場となったエリシアン球場には多くの観客が詰めかけました。試合は現在のルールに近い形で進行し、攻守の基本が確立されていたことが示されました。結果はニューヨークベースボールクラブの23–1大勝となり、野球の娯楽性と競技性を広く知らしめました。この出来事は近代野球の公式化と普及の契機となり、その後のリーグ化や統一ルール策定へとつながりました。以降、野球はアメリカで急速に人気を博し、やがて世界的なスポーツとなりました。
1846年 野球 ニュージャージー州 ホーボーケン
1932年

廣野ゴルフ倶楽部開場。

1932年、兵庫県に日本を代表するゴルフコースの一つ、廣野ゴルフ倶楽部が開場しました。
廣野ゴルフ倶楽部はイギリス人設計者C.H.アリソンの設計により1932年に誕生しました。 戦前から英国チャンピオンシップスタイルを取り入れたコースレイアウトは高い評価を受けました。 コース設計は戦略性と自然美を両立させ、日本のゴルフコース設計にも多大な影響を与えました。 多くの国内外トーナメントを開催し、日本ゴルフ界の発展に寄与しました。 現在も「日本のベストコース」と評され続けています。
1932年 廣野ゴルフ倶楽部
1943年

第二次世界大戦による選手不足のため、NFLのフィラデルフィア・イーグルスとピッツバーグ・スティーラーズが1シーズン合併し「スティーグルス(Steagles)」を結成。

1943年、戦時中の選手不足を受けてNFLの2チームが一時合併し「スティーグルス」を結成しました。
第二次世界大戦で多くの選手が兵役に就いたため、フィラデルフィア・イーグルスとピッツバーグ・スティーラーズは一時的に合同しました。 通称「スティーグルス」はシーズンを通して5勝4敗1分の成績を収めました。 監督はイーグルスのグリージー・ニールとスティーラーズのウォルト・キースリングが共同で務め、ユニークなチーム名は両チーム名の合成です。 チームカラーは両チームのユニフォームを組み合わせたデザインが採用されました。 戦後、2チームは元の編成に戻り、NFLの歴史に刻まれる一幕となりました。
1943年 第二次世界大戦 NFL フィラデルフィア・イーグルス ピッツバーグ・スティーラーズ Steagles
1951年

読売ジャイアンツが米マイナーリーグからスカウトしたハワイ移民2世の与那嶺要(ウォーリー与那嶺)が公式戦初登場。戦後初の外国人選手。

1951年6月19日、読売ジャイアンツの与那嶺要が戦後初の外国人選手として公式戦に初登場した。
読売ジャイアンツは1951年6月19日、米マイナーリーグ出身のハワイ移民二世・与那嶺要(ウォーリー与那嶺)を起用し、公式戦に登場させました。 これは戦後日本プロ野球史上初の外国人選手の公式戦出場となりました。 与那嶺は打撃と走塁に優れた選手で、チームに新風を吹き込みました。 当時の日本野球は外国人選手を起用する慣例がほとんどなく、大きな話題となりました。 彼の存在はプロ野球の国際化の先駆けとなり、多くのファンに強い印象を残しました。 その後も与那嶺は長きにわたり活躍し、後続の外国人選手の道を開きました。
1951年 読売ジャイアンツ マイナーリーグ スカウト ハワイ移民 2世 与那嶺要
1955年

近鉄パールスの武智文雄がパ・リーグでは初、日本プロ野球史上2人目の完全試合を達成。

1955年6月19日、近鉄パールスの武智文雄が日本プロ野球史上2人目の完全試合を達成した。
1955年6月19日、近鉄パールスの投手・武智文雄はパシフィック・リーグ史上初の完全試合を達成しました。 相手チームを一人の走者も出さずに抑え込み、27人斬りという快挙を成し遂げました。 これにより日本プロ野球全体でも通算2人目の完全試合となりました。 当時の野球は投手有利の時代でも、完全試合には極めて高い難易度がありました。 武智の投球は制球力と変化球のキレが見事に融合し、後世に語り継がれる名投となりました。 この出来事はパリーグの歴史に残る偉業として今も語り草です。
1955年 近鉄パールス 武智文雄 パ・リーグ プロ野球 完全試合
1960年

初となるNASCARのレース第1回ワールド600がシャーロットモータースピードウェイで開催。

1960年6月19日、NASCAR初のワールド600レースがシャーロットモータースピードウェイで開催されました。
1960年6月19日、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロットのモータースピードウェイで第1回ワールド600が開催されました。 このレースはNASCARシーズンのハイライトとして位置づけられ、1000マイルにわたる長距離耐久レースです。 ドライバーたちはサーキットを400周以上走行し、厳しいコンディションで技術と体力を競いました。 ワールド600は後に「コカ・コーラ600」として知られるようになり、NASCARの伝統的な名物レースとして定着します。 モータースポーツファンの間で夏の風物詩となり、多くの観客を集めました。
NASCAR ワールド600 英語版 シャーロットモータースピードウェイ
2005年

この年のアメリカグランプリにて出走したカートのうち、安全性に懸念のあるミシュランタイヤを装着した14台がフォーメーションラップを終えた時点でリタイアし、ブリヂストンタイヤの3チーム6台だけがレースに出場することに。

アメリカグランプリでミシュラン装着車がフォーメーションラップ後に一斉リタイアしたレース。
2005年6月19日に開催されたF1アメリカグランプリで、ミシュランタイヤを装着した14台のマシンが安全性を理由にフォーメーションラップ後にピットへ戻りリタイアしました。これによりブリヂストンタイヤを装着した3チーム6台のみが決勝レースを走行し、異例のレース展開となりました。ミシュランは特定コーナーでのタイヤバーストリスクを抱えており、チームとメーカー間で安全性を巡る対立が生じました。観客からは抗議や不満の声が上がり、大会は大きな論争を呼びました。この一件はF1におけるタイヤ規定や安全基準の見直しの契機となりました。
アメリカグランプリ ブリヂストン