325年
第1ニカイア公会議でニカイア信条が採択される。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。
キリスト教会初の公会議である第1ニカイア公会議において、教義統一のニカイア信条が採択された。
325年6月19日、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が召集した第1ニカイア公会議が開催され、教義統一を図るためのニカイア信条が採択された。この信条はアリウス派を異端と定義し、三位一体論を正統と認定する内容であった。公会議には東西から約300人の司教が出席し、キリスト教会の教義基盤を固める重要な節目となった。以降、381年の第1コンスタンティノポリス公会議などで信条に補足が加えられ、正統信仰の基礎として維持された。
325年
第1ニカイア公会議
ニカイア信条
第1コンスタンティノポリス公会議
381年
1179年
ノルウェー内戦時代:ノルウェーのトロンハイム近郊(旧称Kalvskinnet)で戦闘が起こり、アーリン・スカッケ(Erling Skakke)が戦死。
ノルウェー内戦時代にトロンハイム近郊で発生した戦闘で、アーリン・スカッケが戦死した。
1179年6月19日、ノルウェー内戦時代の一環として、トロンハイム(旧称Kalvskinnet)近郊で激しい戦闘が勃発した。この戦闘では有力貴族アーリン・スカッケ(Erling Skakke)が指揮を執り戦ったが、討死している。彼の死は王位継承を巡る勢力争いに大きな影響を与え、内戦のさらなる混乱を招いた。内戦は以来数十年にわたり継続し、ノルウェーの政情不安定化を深刻化させた。
1179年
ノルウェー内戦時代
英語版
ノルウェー
トロンハイム
Kalvskinnet
アーリン・スカッケ
Erling Skakke
1306年
メスヴェンの戦い。ペンブルック伯の軍がスコットランド王のロバート・ブルースを破る。
スコットランド王ロバート・ブルース率いる軍がメスヴェンで英軍に敗北した戦い。
1306年6月19日、スコットランド王位をめぐる争いの一環として、メスヴェンの戦いが起きた。ペンブルック伯爵率いるイングランド軍がロバート・ブルースの軍勢を奇襲し、スコットランド軍を打ち破った。ブルースは一時的に追い詰められたものの、その後復活し最終的にスコットランド王に即位した。戦闘はスコットランド独立戦争の歴史的転換点となった。
1306年
メスヴェンの戦い
英語版
ペンブルック伯
スコットランド王
ロバート・ブルース
元弘3年/正慶2年5月7日
倒幕に転じた足利高氏らの攻撃により六波羅探題が陥落。
足利尊氏らが京都の六波羅探題を攻略し、鎌倉幕府の主要拠点が陥落した。
1333年6月19日(元弘3年/正慶2年5月7日)、倒幕運動を展開していた足利高氏(後の足利尊氏)らの軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した。六波羅探題は鎌倉幕府の京都支配拠点であり、その陥落は幕府権威の瓦解を象徴する出来事となった。この勝利により尊氏は朝廷と協調し、建武新政の実現へ大きく前進した。鎌倉幕府は数ヶ月後に滅亡し、日本の政治は新たな時代へと移行した。
1333年
元弘
正慶
5月7日
足利高氏
六波羅探題
1419年
応永の外寇。李氏朝鮮軍が対馬に上陸。
朝鮮王朝軍が対馬に上陸し、日本と朝鮮の国境を巡る衝突が発生した。
1419年6月19日、応永の外寇と呼ばれる李氏朝鮮(朝鮮王朝)の遠征軍が対馬に上陸した。対馬守護の宗氏は迎撃に向かったが、数日の戦闘の末に兵力差で押され撤退を余儀なくされた。この遠征は朝鮮側が朝貢国としての忠誠を確認する目的だったが、両国間の緊張を一層高める結果となった。日本側では防備強化や外交交渉が進められ、後の貿易や交流の形態にも影響を与えた。
1419年
応永の外寇
李氏朝鮮
対馬
1586年
ロアノーク植民地の確立に失敗したイングランド人たちがロアノーク島を去る。
「失われた植民地」と呼ばれるロアノーク植民地の入植者が島を離れ消息不明となった。
1586年6月19日、イングランドが試みた北アメリカ初期の植民地の一つ、ロアノーク植民地の入植者たちが島を撤収しロアノーク島を去った。植民地は資源不足や先住民との関係悪化に悩まされ、本国からの支援到着前に放棄された。以後、入植者の行方は一切不明となり「失われた植民地」として今日まで多くの謎を残している。後世の探検者や史料研究者によって調査が続けられてきたが、有力な痕跡は発見されていない。
1586年
ロアノーク植民地
ロアノーク島
1718年
地滑りにより通渭・甘粛地震が発生し、中国(当時清)で73,000人が死亡。
中国甘粛省で大規模な地滑りを伴う地震が発生し多数の死者が出た。
1718年6月19日、中国清朝時代の甘粛省通渭県付近で通渭・甘粛地震が発生した。地滑りを伴うこの地震は多くの村落を襲い、記録によれば約73,000人が死亡したとされる。土砂崩れが山体を一帯で覆い、救援の遅れや被災地へのアクセス困難が被害を拡大させた。清朝政府は官吏を派遣して復興支援を試みたが、広範囲にわたる被害の復旧には長期間を要した。
1718年
通渭・甘粛地震
英語版
清
1754年
オールバニ会議がはじまり、同年7月11日まで13植民地とインディアンの代表者が会議を行う。
アメリカ独立前夜、13植民地とインディアン代表が初めて連邦会議を開催した。
1754年6月19日、イギリス領北アメリカの13植民地とインディアン部族の代表がニューヨーク植民地オールバニで会議を開始した。オールバニ会議では植民地間の防衛協力やインディアン貿易の調整、ベンジャミン・フランクリンによる連邦制提案などが議題となった。会議は7月11日まで続き、議題の多くは英本国に却下されたものの、植民地間の協力意識を醸成する契機となった。後のアメリカ合衆国結成に先駆ける重要な試みとして評価されている。
1754年
オールバニ会議
7月11日
13植民地
インディアン
1800年
フランス革命戦争(第二次対仏大同盟):ヘヒシュテットの戦い
フランス革命戦争中、バイエルン地方でオーストリア軍とフランス軍が衝突した。
1800年6月19日、第2次対仏大同盟戦役の一環として、バイエルン地方のヘヒシュテット付近でオーストリア軍とフランス軍が衝突した。両軍はドナウ川流域の制圧を巡り攻防を展開し、戦役全体の戦線における緊張を高めた。詳細な戦闘展開は限定的な記録しか残っていないものの、後の主戦場への橋頭堡形成に一定の役割を果たした。この衝突はモリュンやホーエンリンデンの戦いへと続く一連の戦いの前哨戦と位置付けられている。
1800年
フランス革命戦争
第二次対仏大同盟
ヘヒシュテットの戦い
英語版
1816年
セブン・オークスの戦い。カナダで、毛皮交易をめぐり交易会社2社が戦闘。
毛皮交易を巡りハドソン湾会社とノースウェスト会社の勢力が衝突した戦闘。
1816年6月19日、現在のカナダ・マニトバ州ウィニペグ近郊で、毛皮交易を巡るハドソン湾会社とノースウェスト会社(メティ軍勢含む)の対立が激化し、セブン・オークスの戦いが起きた。ハドソン湾会社側の指揮官ロバート・センプル総督らがメティとノースウェスト会社の勢力に襲撃され、多数の死傷者が発生した。戦闘の結果、ハドソン湾会社の交易拠点は一時的に制圧され、毛皮交易を巡る勢力均衡に大きな影響を与えた。この出来事は西部開拓史の重要な一幕として知られている。
1816年
セブン・オークスの戦い
1821年
ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリアがオスマン帝国に敗れ壊滅。
1821年のギリシャ独立戦争で行われたドラガシャニの戦いにより、フィリキ・エテリアがオスマン帝国軍に敗北し組織が壊滅しました。独立運動に大きな衝撃を与えた戦闘です。
1821年6月19日に行われたドラガシャニの戦いは、ギリシャ独立戦争初期の重要な衝突でした。フィリキ・エテリアと呼ばれる革命結社の部隊がオスマン帝国軍と正面から衝突し、組織の指導者や兵士の多くが戦死・捕虜となりました。その結果、フィリキ・エテリアは事実上壊滅状態に陥り、独立運動は一時的に後退を余儀なくされました。この敗北は同時に国際的な注目を集め、やがてギリシャ民族意識の高揚と支援拡大の契機ともなりました。最終的に1830年にはギリシャの独立が承認され、近代ギリシャ国家の誕生に結びつきました。
1821年
ギリシャ独立戦争
ドラガシャニの戦い
フィリキ・エテリア
オスマン帝国
1846年
公式な記録に残る史上初の野球の試合がニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン球場で行われる。ニューヨークベースボールクラブがニッカーボッカーズを23–1で勝利。
1846年6月19日にニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン球場で公式記録に残る史上初の野球試合が行われました。ニューヨークベースボールクラブがニッカーボッカーズを23–1で破りました。
この試合は1846年6月19日にニューヨークベースボールクラブとニッカーボッカーズの間で行われ、会場となったエリシアン球場には多くの観客が詰めかけました。試合は現在のルールに近い形で進行し、攻守の基本が確立されていたことが示されました。結果はニューヨークベースボールクラブの23–1大勝となり、野球の娯楽性と競技性を広く知らしめました。この出来事は近代野球の公式化と普及の契機となり、その後のリーグ化や統一ルール策定へとつながりました。以降、野球はアメリカで急速に人気を博し、やがて世界的なスポーツとなりました。
1846年
野球
ニュージャージー州
ホーボーケン