1429年
百年戦争: パテーの戦い。
百年戦争中、フランス軍がイギリス軍に大勝したパテーの戦いが起こりました。
1429年6月18日、百年戦争の転機となるパテーの戦いが勃発しました。フランス軍はジャンヌ・ダルクの導きにより訓練不足のイングランド軍を奇襲しました。フランス騎士団の突撃が決定打となり、イングランド軍は壊滅的な敗北を喫しました。この勝利によりフランス軍の士気は飛躍的に高まり、オルレアン解放への道が開かれました。ジャンヌ・ダルクは国民的英雄としての地位を確立し、フランス王権強化の一助となりました。
1429年
百年戦争
パテーの戦い
1757年
七年戦争: コリンの戦い。
七年戦争中のコリンの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に敗北しました。
1757年6月18日、七年戦争の重要な会戦であるコリンの戦いが起こりました。プロイセン王フリードリヒ2世は攻勢を仕掛けましたが、オーストリア軍の巧妙な防御陣に阻まれました。数時間にわたり激しい交戦が繰り広げられ、プロイセン軍は大きな損害を被りました。この敗北はフリードリヒ2世の戦略に大きな打撃を与え、同盟諸国の勢いを増す結果となりました。結果として七年戦争における勢力図の変化を決定づけました。
1757年
七年戦争
コリンの戦い
1779年
サリバン遠征によりイロコイ族をニューヨークから殲滅する。
サリバン遠征でイロコイ族の拠点が破壊され、住民が追放・殲滅されました。
1779年6月18日、アメリカ独立戦争中のサリバン遠征によりイロコイ族の村々が襲撃されました。大陸軍総督ジョン・サリバン率いる部隊は、イギリス側に協力するイロコイ同盟諸氏族を標的としました。遠征部隊は焼き討ちや作物破壊を徹底的に行い、多くの住民が飢餓と病気で命を失いました。この作戦は先住民政策の一環とされ、イロコイ族の社会基盤は壊滅的打撃を受けました。結果として北アメリカ東部の先住民勢力図は大きく書き換えられました。
1779年
サリバン遠征
イロコイ族
ニューヨーク
1812年
アメリカ合衆国がイギリスに宣戦布告し、米英戦争が勃発。
アメリカがイギリスに宣戦布告し、米英戦争(1812年戦争)が始まりました。
1812年6月18日、アメリカ合衆国はイギリスに宣戦布告し、米英戦争が勃発しました。海上権や航行の自由を巡る衝突が主な原因で、特に英海軍による米国民の徴用が強い反発を招きました。戦争は五大湖や大西洋岸を中心に展開し、激しい海戦と陸戦が繰り広げられました。最終的に1815年に戦端は休止され、戦前の領土状況が維持されましたが、米国の国民意識と軍事力強化を促す結果となりました。
1812年
アメリカ合衆国
イギリス
宣戦布告
米英戦争
1815年
ワーテルローの戦い: ベルギーのワーテルロー近郊で、アーサー・ウェルズリー率いる英国連合軍と交戦したナポレオン軍が、交戦中にプロイセン軍の側面攻撃を受けて大敗。百日天下が終了した。ナポレオンこの戦いの4日後の6月22日に退位し、英国領セントヘレナ島へ流され、そこで生涯を終えた。
ワーテルローの戦いでナポレオン軍が敗北し、百日天下が終結しました。
1815年6月18日、ベルギーのワーテルロー近郊でナポレオン率いるフランス軍とアーサー・ウェルズリー率いる連合軍が激突しました。序盤はフランス軍が優勢でしたが、プロイセン軍の側面攻撃が決定打となりフランス軍は総崩れとなりました。ナポレオンはこの敗北を受けて百日天下の終焉を迎え、4日後に退位しました。その後セントヘレナ島へ流され、終生をそこで過ごしました。戦いはウィーン会議後のヨーロッパ勢力均衡を確立する大きな契機となりました。
1815年
ワーテルローの戦い
アーサー・ウェルズリー
ナポレオン
百日天下
6月22日
セントヘレナ島
1940年
イギリスに亡命したシャルル・ド・ゴールがラジオを通じてナチス・ドイツへの徹底抗戦を呼びかける。 (en:Appeal of June 18)
シャルル・ド・ゴールがロンドンからBBCラジオでフランス国民に対しナチス・ドイツへの徹底抗戦を呼びかけた演説。
1940年6月18日、亡命先のイギリス・ロンドンからシャルル・ド・ゴールがBBCラジオでフランス国民に呼びかけた歴史的演説です。当時フランスはドイツ軍により占領下にあり、ド・ゴールは抵抗運動(レジスタンス)の結集を図りました。この呼びかけはフランス自由軍の精神的支柱となり、後の抵抗運動の源流となったとされています。『6月18日の呼びかけ』はその後、自由フランス軍のシンボル的な存在となりました。
1940年
シャルル・ド・ゴール
ナチス・ドイツ
en:Appeal of June 18
1940年
イギリス首相ウィンストン・チャーチルが"Their finest hour"演説を行う。
ウィンストン・チャーチルが英国議会で行った“不屈の戦い”を宣言する名演説。
1940年6月18日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが下院で行った『Their finest hour』演説です。ダンケルク撤退直後の危機的状況の中、国民に勇気と団結を訴えました。チャーチルは空襲への備えや全土防衛の重要性を強調し、ナチスへの抗戦継続を誓いました。この演説は英国民の士気を高め、『最も輝かしい時』と称される言葉が象徴的となりました。
ウィンストン・チャーチル
Their finest hour
英語版
1945年
第二次世界大戦・沖縄戦: ひめゆり学徒隊に解散命令。
沖縄戦の最中、ひめゆり学徒隊に解散命令が下される。
1945年6月18日、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、ひめゆり学徒隊に解散命令が発令されました。看護要員として従事していた学徒隊員は前線付近で医療や食糧補給に当たっており、多くが戦闘や壕内爆撃に巻き込まれました。解散後も残された隊員は逃避の機会をほとんど与えられず、過酷な状況下で命を落としました。この命令は日本軍上層部の混乱と判断の遅れを象徴し、学徒隊の悲劇を際立たせています。沖縄戦の残酷さを象徴する重要な出来事の一つです。
第二次世界大戦
沖縄戦
ひめゆり学徒隊
1965年
ベトナム戦争: アメリカ合衆国が南ベトナムの南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のゲリラを攻撃するためにB 52爆撃機を使用する。
1965年6月18日、ベトナム戦争で米軍がB-52爆撃機を初めて実戦投入しました。
1965年6月18日、アメリカ合衆国はベトナム戦争においてB-52ストラトフォートレス爆撃機を初めて南ベトナム国内で使用しました。これは大型爆撃機による戦略的爆撃の本格的な開始を示し、『アークライト作戦』の一環として位置づけられました。高高度からの爆撃はゲリラ戦術を強いるベトコン部隊を標的とし、戦況に大きな影響を与えました。しかし民間人被害やインフラ破壊も多発し、反戦運動を加速させる一因となりました。B-52爆撃の導入はアメリカの軍事戦略を大きく変え、冷戦下の紛争における空爆の有効性と問題点を浮き彫りにしました。
1965年
ベトナム戦争
アメリカ合衆国
南ベトナム
南ベトナム解放民族戦線
ゲリラ
B-52