義寧2年/武徳元年5月20日
李淵(高祖)が恭帝から帝位を禅譲されて皇帝に即位。隋が滅亡し唐を建国。
李淵が隋の皇帝から禅譲を受けて即位し、唐王朝を開いた出来事です。
隋王朝は長年の政治腐敗や大運河建設など豪奢な公共事業の負担から混乱が深まっていました。李淵は太原を拠点に反乱を起こし勢力を拡大しました。618年5月20日、隋の恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、高祖(李淵)として唐王朝を建国しました。唐は科挙制度の整備や貿易振興を進め、後に中国史上最盛期を迎えます。李淵の即位は中国全土に新たな時代の幕開けを告げました。
618年
義寧
武徳
5月20日
李淵
恭帝
禅譲
皇帝
隋
唐
文治2年5月29日
源頼朝が、治承・寿永の乱(源平合戦)で荒廃した社寺の復興を命じる。
源頼朝が治承・寿永の乱で荒廃した社寺の復興を命じた歴史的な布告です。
治承・寿永の乱(源平合戦)では全国の社寺が戦火で破壊され、多くの文化財や信仰の場が失われました。1186年、鎌倉幕府の実質的指導者となった源頼朝は社寺の復興を命じる布告を発しました。この命令は武士政権による文化保護の一環で、幕府の権威を広く示す狙いもありました。復興事業は各地の荘園や武士団にも及び、経済活動の活性化にも寄与しました。結果として平安時代からの文化を維持し、鎌倉文化の発展を支える重要な契機となりました。
1186年
文治
5月29日
源頼朝
治承・寿永の乱
1429年
百年戦争: パテーの戦い。
百年戦争中、フランス軍がイギリス軍に大勝したパテーの戦いが起こりました。
1429年6月18日、百年戦争の転機となるパテーの戦いが勃発しました。フランス軍はジャンヌ・ダルクの導きにより訓練不足のイングランド軍を奇襲しました。フランス騎士団の突撃が決定打となり、イングランド軍は壊滅的な敗北を喫しました。この勝利によりフランス軍の士気は飛躍的に高まり、オルレアン解放への道が開かれました。ジャンヌ・ダルクは国民的英雄としての地位を確立し、フランス王権強化の一助となりました。
1429年
百年戦争
パテーの戦い
慶長2年5月4日
伏見城の天守が完成し豊臣秀吉・豊臣秀頼らが移る。
豊臣秀吉が築いた伏見城の天守が完成し、秀吉・秀頼が居城としました。
慶長2年(1597年)6月18日、伏見城の天守が完成しました。当初から豊臣政権の拠点として位置づけられ、大坂城と並ぶ重要拠点となりました。秀吉はここで朝鮮出兵帰還後の国内統治を強化し、政務の中心としました。完成した天守は華麗な装飾を施され、城郭建築の技術と美的感覚を示す代表例です。秀頼も後に移り、豊臣家の継承基盤を固める役割を果たしました。
1597年
慶長
5月4日
伏見城
天守
豊臣秀吉
豊臣秀頼
1757年
七年戦争: コリンの戦い。
七年戦争中のコリンの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に敗北しました。
1757年6月18日、七年戦争の重要な会戦であるコリンの戦いが起こりました。プロイセン王フリードリヒ2世は攻勢を仕掛けましたが、オーストリア軍の巧妙な防御陣に阻まれました。数時間にわたり激しい交戦が繰り広げられ、プロイセン軍は大きな損害を被りました。この敗北はフリードリヒ2世の戦略に大きな打撃を与え、同盟諸国の勢いを増す結果となりました。結果として七年戦争における勢力図の変化を決定づけました。
1757年
七年戦争
コリンの戦い
1767年
イギリスのサミュエル・ウォリスがドルフィン号の航海でヨーロッパ人で初めてタヒチ島に到達。
サミュエル・ウォリスがドルフィン号でタヒチ島に到達し、初めてヨーロッパ人が上陸しました。
1767年6月18日、イギリス海軍士官サミュエル・ウォリスが乗艦するドルフィン号がタヒチ島に到達しました。これによりヨーロッパ人として初めてタヒチの沿岸を探査しました。ウォリスは島の地理や自然環境を詳細に記録し、その航海記録は地図作成や海洋学の発展に貢献しました。彼の報告は後のクック航海など太平洋探検の基礎資料となりました。タヒチとの最初の接触はヨーロッパとポリネシア文化の交流を促進しました。
1767年
サミュエル・ウォリス
ドルフィン号
英語版
タヒチ島
1779年
サリバン遠征によりイロコイ族をニューヨークから殲滅する。
サリバン遠征でイロコイ族の拠点が破壊され、住民が追放・殲滅されました。
1779年6月18日、アメリカ独立戦争中のサリバン遠征によりイロコイ族の村々が襲撃されました。大陸軍総督ジョン・サリバン率いる部隊は、イギリス側に協力するイロコイ同盟諸氏族を標的としました。遠征部隊は焼き討ちや作物破壊を徹底的に行い、多くの住民が飢餓と病気で命を失いました。この作戦は先住民政策の一環とされ、イロコイ族の社会基盤は壊滅的打撃を受けました。結果として北アメリカ東部の先住民勢力図は大きく書き換えられました。
1779年
サリバン遠征
イロコイ族
ニューヨーク
1812年
アメリカ合衆国がイギリスに宣戦布告し、米英戦争が勃発。
アメリカがイギリスに宣戦布告し、米英戦争(1812年戦争)が始まりました。
1812年6月18日、アメリカ合衆国はイギリスに宣戦布告し、米英戦争が勃発しました。海上権や航行の自由を巡る衝突が主な原因で、特に英海軍による米国民の徴用が強い反発を招きました。戦争は五大湖や大西洋岸を中心に展開し、激しい海戦と陸戦が繰り広げられました。最終的に1815年に戦端は休止され、戦前の領土状況が維持されましたが、米国の国民意識と軍事力強化を促す結果となりました。
1812年
アメリカ合衆国
イギリス
宣戦布告
米英戦争
1815年
ワーテルローの戦い: ベルギーのワーテルロー近郊で、アーサー・ウェルズリー率いる英国連合軍と交戦したナポレオン軍が、交戦中にプロイセン軍の側面攻撃を受けて大敗。百日天下が終了した。ナポレオンこの戦いの4日後の6月22日に退位し、英国領セントヘレナ島へ流され、そこで生涯を終えた。
ワーテルローの戦いでナポレオン軍が敗北し、百日天下が終結しました。
1815年6月18日、ベルギーのワーテルロー近郊でナポレオン率いるフランス軍とアーサー・ウェルズリー率いる連合軍が激突しました。序盤はフランス軍が優勢でしたが、プロイセン軍の側面攻撃が決定打となりフランス軍は総崩れとなりました。ナポレオンはこの敗北を受けて百日天下の終焉を迎え、4日後に退位しました。その後セントヘレナ島へ流され、終生をそこで過ごしました。戦いはウィーン会議後のヨーロッパ勢力均衡を確立する大きな契機となりました。
1815年
ワーテルローの戦い
アーサー・ウェルズリー
ナポレオン
百日天下
6月22日
セントヘレナ島
1873年
婦人参政権運動家スーザン・B・アンソニーが大統領選挙で投票を試みた罪で100ドルの罰金刑に。
スーザン・B・アンソニーが大統領選挙で投票を試み、罰金刑を科されました。
1873年6月18日、婦人参政権運動の先駆者スーザン・B・アンソニーは自ら投票所で投票を行い拘束されました。彼女は女性の公民権向上を求めて法律違反を冒し、罰金100ドルを科されましたが支払いを拒否しました。アンソニーの行動は全米に衝撃を与え、女性参政権運動の象徴的事件となりました。その後も運動は継続し、最終的に1920年のアメリカ憲法第19修正条項で女性の投票権が認められる一助となりました。
1873年
婦人参政権
スーザン・B・アンソニー
大統領選挙
1877年
アメリカの動物学者エドワード・S・モースが来日。文部省へ向かうため横浜駅から新橋駅へ汽車で向かっていたときに、車窓から大森貝塚を発見した。
動物学者エドワード・S・モースが来日途中に大森貝塚を発見し、日本の考古学研究に大きな影響を与えた。
アメリカの動物学者エドワード・S・モースが、1877年6月18日に来日。文部省への赴任途中、汽車の車窓から東京湾沿岸の大森貝塚を偶然発見した。
この発見は日本考古学における貝塚研究の先駆けとなり、縄文文化の存在を科学的に示す証拠とされた。
モースは貝層の採取や分析を行い、日本の古代文化理解に貢献。
帰国後も研究成果を報告し、国際的な学術交流を促進した。
彼の調査は後続の考古学者に大きな示唆を与えた。
1877年
エドワード・S・モース
大森貝塚
1881年
ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国の三帝協商(新三帝同盟)が成立。
ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシアの三帝が協商を結び、ヨーロッパの勢力図に影響を及ぼした。
1881年6月18日、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、ロシア帝国皇帝アレクサンドル3世の三皇帝がウィーンで会談し、三帝協商(新三帝同盟)を成立させた。
この協商はビスマルク外交の一環として、フランスの孤立化とヨーロッパ安定を図る目的で締結された。
協商では互いの合意なしに他国と敵対関係を結ばないことが確認され、バルカン半島の情勢にも大きな影響を与えた。
しかし、帝国間の対立や国益の相違により、長期的な安定には至らなかった。
この協商はその後の同盟体系形成にも影響を与えた重要な外交協定である。
1881年
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
ロシア帝国
三帝協商