1775年
アメリカ独立戦争: バンカーヒルの戦い。
アメリカ独立戦争初期の大規模な戦闘であるバンカーヒルの戦いです。
1775年6月17日、マサチューセッツ州のバンカーヒルでアメリカ植民地の民兵隊とイギリス軍が激突しました。イギリス軍は最終的に勝利しましたが多大な損失を被りました。植民地軍の粘り強い抵抗は独立派の士気を大いに高める結果となりました。この戦いはアメリカ独立戦争の初期段階で重要な転換点とされています。当時の戦術や装備の差が浮き彫りとなり、戦争の行方に大きな影響を与えました。
1775年
アメリカ独立戦争
バンカーヒルの戦い
1876年
ブラックヒルズ戦争: ローズバッドの戦い。
ブラックヒルズ戦争中に行われたローズバッドの戦いです。
1876年6月17日、ブラックヒルズ戦争の一環としてローズバッド川沿いでアメリカ先住民のラコタ族を主体とする部族軍と米軍が衝突しました。先住民の奇襲戦術により米軍は退却を余儀なくされました。この戦いでは先住民が戦術的優位を示し、米軍に大きな損害を与えました。リトルビッグホーンの戦いの前哨戦と位置づけられ、戦争の激化を象徴する出来事となりました。戦闘の結果は両陣営に大きな影響を与え、その後の展開を左右しました。
1876年
ブラックヒルズ戦争
ローズバッドの戦い
1940年
第二次世界大戦: 連合国のフランスからの撤退作戦・エアリアル作戦が開始される。
第二次世界大戦中、英国など連合国はフランス占領地域から軍人・民間人の撤退作戦「エアリアル作戦」を開始しました。
第二次世界大戦の戦局が刻一刻と変化する中、ドイツ軍の西方進攻によりフランス大陸西部に追い詰められた連合国軍は、撤退を余儀なくされました。
1940年6月17日、英国本国政府は「エアリアル作戦(Operation Ariel)」を正式に開始します。
作戦は海軍および民間船舶を用いて、英仏海峡沿岸の諸港から約20万人規模の兵士や捕虜、民間人を脱出させることが目的でした。
エアリアル作戦にはダンケルクの「ダイナモ作戦」に続く大規模撤退計画として位置づけられ、6月中旬から下旬まで実施されました。
海上輸送中もドイツ軍の空襲やUボート攻撃が頻発し、多くの船舶が被害を受けています。
本作戦は最終的に約19万5千名の撤退を成功させた一方、深刻な人的・物的損失を伴いました。
西部戦線における連合国の戦力再編と英国防衛の要となった歴史的作戦です。
1940年
第二次世界大戦
連合国
エアリアル作戦
1940年
第二次世界大戦: エアリアル作戦に使用されていた客船「ランカストリア」がドイツ国防軍のJu 88爆撃機の攻撃を受け沈没。約4,000人が死亡。
エアリアル作戦中、客船「ランカストリア」がドイツ空軍機の攻撃を受け沈没し、約4,000人が犠牲となった悲劇的な事件です。
1940年6月17日、イギリス軍が実施した撤退作戦「エアリアル作戦」の最中、客船ランカストリアがフランス西部サン=ナゼール沖を航行していました。
ドイツ空軍(Luftwaffe)のJu 88爆撃機による空襲を受けたランカストリアは炎上し、わずかな時間で沈没しました。
当時、船には軍人や文民、捕虜を含む約9,000人が乗船しており、そのうち約4,000人が犠牲となったと推定されています。
史上最悪の海難事故の一つとして知られ、犠牲者の大半は身元の確認が困難なまま海中に沈みました。
この惨劇は英国内外に衝撃を与え、戦時下の民間人避難の危険性を象徴する出来事となりました。
今日でもランカストリアの記念碑が各地に建立され、戦争の悲惨さを伝え続けています。
ランカストリア
ドイツ国防軍
Ju 88
1944年
アメリカ海軍の大型巡洋艦「アラスカ」が就役。
アメリカ海軍の大型巡洋艦「アラスカ」が就役し、戦艦と巡洋艦の中間に位置する新型艦艇として注目されました。
「アラスカ(USS Alaska CL-52/CB-1)」は1944年6月17日にアメリカ海軍に正式就役しました。
重巡洋艦より重装甲・重火力を備えた「大型巡洋艦(戦艦キラー)」として計画され、当時最新鋭の艦として評価されました。
6インチ(152mm)主砲9門を持ち、航空機迎撃や小型艦艇との交戦を想定した設計が特徴です。
太平洋戦線において対空支援や艦隊護衛任務に従事し、1945年の沖縄戦などで重要な役割を果たしました。
しかし戦後の軍縮や航空機の発達により次第に役割が見直され、1947年に予備役編入、1960年代に退役しました。
軍艦史上でも異色の存在として軍事史研究家の関心を集めています。
アメリカ海軍
アラスカ
1945年
第二次世界大戦: 日本本土空襲: 鹿児島大空襲。
第二次世界大戦末期、日本本土に対する大規模空襲の一環として鹿児島市がアメリカ軍によって空襲を受けました。
鹿児島大空襲は1945年6月17日に行われ、アメリカ陸軍航空軍(USAAF)が市街地を爆撃・焼夷弾攻撃しました。
空襲にはB-29爆撃機が使用され、焼夷弾による大規模な火災が発生し、市街地の約70%以上が焼失したとされています。
死傷者数や被災者数は記録により異なりますが、多くの民間人が犠牲となり、数千人規模の被害が出ました。
鹿児島は当時、軍需工場や交通の要所として重要視されており、戦略的標的とされていました。
本空襲は九州地方における連続空襲の一つであり、戦争終結までの間に再度空襲を受けています。
戦後、被災地の復興と平和への願いを込めた慰霊碑や記念行事が行われています。
1945年
鹿児島大空襲