文治5年閏4月30日
衣川の戦い: 源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。源義経は自害。
1189年、源義経が藤原泰衡の軍勢に襲撃され、衣川館で自害に追い込まれました。
文治5年(1189年)、源義経は兄頼朝の追討令を受け、奥州に逃れて藤原泰衡の庇護を受けていました。しかし、その裏切りにより泰衡は衣川館を急襲し、義経は包囲されます。絶体絶命の状況で義経は自害を選び、その死は源氏の武名と悲劇性を際立たせました。この合戦は義経追討の一連の終結点とされ、源頼朝の政権掌握を決定づけました。中世日本史において義経の最期は数々の物語や文学作品で語り継がれています。
1189年
文治
閏4月30日
衣川の戦い
源義経
藤原泰衡
衣川館
1389年
コソボの戦い。セルビア・ボスニアなどバルカン半島の諸侯軍がオスマン帝国に敗北。
1389年、コソボの戦いでバルカン諸侯軍がオスマン帝国に敗北しました。
バルカン半島でセルビア公ラザルが率いる連合軍は、オスマン帝国スルタン・ムラト1世の大軍と激突しました。戦闘は熾烈を極め、両軍は数時間にわたり死闘を繰り広げます。最終的にオスマン軍が勝利し、スルタン・ムラト1世は戦場で戦死しました。これによりオスマン帝国のバルカン支配は一層強化され、セルビアをはじめとする諸国は長期にわたり属国化されます。この戦いはバルカン地域の歴史的転換点として知られています。
1389年
コソボの戦い
セルビア
ボスニア
バルカン半島
オスマン帝国
1775年
アメリカ独立戦争: ジョージ・ワシントンが大陸軍の総司令官に任命される。7月3日に就任。
1775年、ジョージ・ワシントンがアメリカ大陸会議から大陸軍総司令官に選出されました。
第二次大陸会議は独立戦争勃発直後に軍事統帥の必要性を痛感し、ワシントンを信頼できる指導者として選びました。ワシントンはバージニア植民地出身の裕福なプランテーションオーナーであり、以前の軍歴も評価されました。7月3日に正式に就任し、直後にボストン包囲戦の指揮を行います。彼のリーダーシップは士気を高め、長期戦を戦い抜く原動力となりました。アメリカ合衆国初代大統領として後世に名を残すきっかけとなった瞬間です。
1775年
アメリカ独立戦争
ジョージ・ワシントン
大陸軍
7月3日
1859年
サンフアン諸島国境紛争: オレゴン条約のあいまいさに起因する、ブタ戦争のきっかけとなるブタの射殺事件が起こる。
サンフアン諸島でブタ射殺事件が発生し、いわゆる「ブタ戦争」のきっかけとなりました。
1859年6月15日、米英間のオレゴン条約境界を巡り、サンフアン諸島で豚が射殺されました。
豚の所有権をめぐる小競り合いが軍事衝突寸前まで発展し、「ブタ戦争」と呼ばれます。
実際の戦闘は起こらず、後に外交交渉で乱発は回避されました。
小規模な事件ながら、国境画定のあいまいさを浮き彫りにしました。
米英両軍の派兵と後の仲裁裁判は、平和的解決の好例とされています。
1859年
ブタ戦争
ブタ
1864年
南北戦争: リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が始まる。
南北戦争でリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が開始しました。
1864年6月15日、南北戦争の一環としてリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が始動。
北軍はバージニア州を拠点に南軍の首都リッチモンド包囲を目指しました。
長期にわたる消耗戦となり、多大な人的損失を伴いました。
この作戦は戦争後期の戦術転換点とされ、両軍の戦力と戦略に影響しました。
ピータースバーグ包囲戦は最終的に北軍の勝利に寄与し、戦争終結を促進しました。
1864年
南北戦争
リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦
1904年
日露戦争: 常陸丸事件が起こる。
1904年6月15日、日露戦争中に常陸丸事件が発生しました。
1904年6月15日、日露戦争の初期段階において輸送船「常陸丸」がロシア艦船の攻撃を受けた事件です。
常陸丸は兵員や物資を運搬中であり、その攻撃は戦時下の海上輸送の危険性を示しました。
非軍事船舶への攻撃は国際的な論争を呼び、両国間の緊張を高める一因となりました。
この事件は海上補給線の安全確保の難しさや戦時国際法の運用を巡る議論に影響を与えました。
1904年
日露戦争
常陸丸事件
1944年
第二次世界大戦: アメリカ合衆国軍がサイパン島への上陸を開始し、サイパンの戦いが始まる。
1944年6月15日、連合国軍が太平洋戦線のサイパン島に上陸。激戦の幕開けとなったサイパンの戦いが始まりました。
マリアナ諸島攻略作戦の一環として、アメリカ海兵隊と第27歩兵師団がガラパン海岸に上陸し、日本軍と激しい白兵戦を展開しました。
山岳地帯や洞窟を利用した徹底抗戦により、両軍とも多くの犠牲者を出し、島は壊滅的な被害を受けました。
この戦いは日本本土防衛の鍵とされたマリアナ諸島の喪失を決定づけ、連合国の戦略的優位を確立しました。
戦闘の結果、アメリカ軍は飛行場を確保し、本土爆撃作戦の拠点を築く足がかりを得ました。
サイパンの戦いは太平洋戦争における重要な転換点として歴史に刻まれています。
1944年
第二次世界大戦
アメリカ合衆国
サイパン島
サイパンの戦い
1996年
IRA暫定派がイギリス・マンチェスターで車爆弾を爆破。212人が負傷。 (en:1996 Manchester bombing)
IRA暫定派によるマンチェスター車爆弾事件が発生し、200人以上の負傷者を出しました。
1996年6月15日、英国マンチェスター市中心部でIRA暫定派による車爆弾が爆破されました。
爆発は商業地区で発生し、212人が負傷、多数の建物が損壊しました。
当時の北アイルランド暴動(ザ・トラブルズ)は終息に向かいつつありましたが、この事件は依然として緊張が残ることを示しました。
英国当局と市民は迅速に救助と復旧に当たり、被害の拡大を防ぎました。
この事件後、IRAはさらに和平交渉に動き、翌年には停戦を宣言しました。
1996年
IRA暫定派
イギリス
マンチェスター
車爆弾
en:1996 Manchester bombing
1999年
第1延坪海戦。黄海の北方限界線に侵犯した北朝鮮艦艇と韓国艦艇とが銃撃戦。
黄海の北方限界線付近で第1延坪海戦が発生し、北朝鮮と韓国の艦艇が交戦しました。
1999年6月15日、第1延坪海戦が発生しました。
北朝鮮の魚雷艇が黄海の韓国北方限界線(NLL)を越えて侵入し、韓国艦艇と小規模な銃撃戦に至りました。
両軍は数分間にわたり砲撃や機銃掃射を行い、双方に損傷を与えました。
この海戦は1990年代後半の朝鮮半島緊張の象徴的な事件となり、NLLの安全保障と武力衝突リスクを浮き彫りにしました。
以降、両国の海上警戒態勢が強化され、同地域の軍事的緊張が一層高まりました。
1999年
第1延坪海戦
黄海
北方限界線
北朝鮮
韓国
2012年
オウム真理教事件: 高橋克也が東京都大田区西蒲田の漫画喫茶で身柄を確保され、逮捕。オウム真理教事件における指名手配被疑者の全員が検挙される。
オウム真理教事件の最後の指名手配被疑者・高橋克也が逮捕され、事件の全容解明が完了しました。
2012年6月15日、オウム真理教事件で指名手配されていた高橋克也が東京都大田区西蒲田の漫画喫茶で逮捕されました。
これにより、1995年の地下鉄サリン事件など一連の事件で最後まで逃亡していた被疑者がすべて検挙されました。
事件発生から17年を経て全員逮捕が実現し、被害者や遺族にとって大きな区切りとなりました。
オウム真理教による大量犯罪の全容究明と責任追及がようやく完結し、裁判や補償手続きが進展しました。
社会的にはテロ対策や宗教団体の監視体制強化など、法制度の見直しが促される契機となりました。
また、逃亡生活の詳細や教団内部の実態解明に向けた新たな証言も注目されました。
2012年
オウム真理教事件
高橋克也
東京都
大田区
西蒲田
漫画喫茶