天平17年5月11日
彷徨五年: 聖武天皇が都を平城京に戻す。
天平17年(745年)、聖武天皇が約5年ぶりに都を平城京に戻しました。
天平5年(743年)から遷都が始まり、まず恭仁京、次いで難波京へ都が移されました。天平17年(745年)5月11日の遷都は「彷徨五年」と呼ばれ、長期の都の移転に終止符を打ちました。平城京は710年に建都され、日本の中央政権と文化の中心地として発展してきた歴史ある都です。聖武天皇は政治の安定と仏教文化の振興を図り、再遷都によって東アジアとの交流も活性化させました。この出来事は奈良時代の政治体制を象徴する重要な節目として知られています。
745年
天平
5月11日
彷徨五年
聖武天皇
平城京
1215年
イングランド王ジョンが、自身の権限を限定するマグナ・カルタを認める。
1215年、イングランド王ジョンが王権を制限するマグナ・カルタを承認しました。
王室の重税や専制的統治に反発した貴族たちが起草を主導し、ジョン王はランニミードの草地で文書を承認しました。マグナ・カルタは王の恣意的な課税や司法権の乱用を制限し、法の支配の原則を初めて明文化した画期的な協定です。条項には教会の自由保護や公正な裁判を受ける権利が盛り込まれ、後の憲法制定や人権思想に大きな影響を与えました。1215年の原版はすぐに無効となったものの、その理念は再発行を重ねながらイギリス法の基礎となりました。
1215年
イングランド
ジョン
マグナ・カルタ
1520年
ローマ教皇レオ10世が大勅書『エクスルゲ・ドミネ』を発布し、マルティン・ルターに対し自説を撤回しなければ破門すると警告。
1520年、教皇レオ10世がルターに自説の撤回を求め、破門を警告する大勅書を発布しました。
ルターの教会批判は広く支持を集め、教皇庁は対応を迫られていました。1520年6月15日、レオ10世は大勅書『エクスルゲ・ドミネ』を発布し、ルターに90日以内の撤回を命じました。ルターが従わない場合には破門を宣告すると厳しく警告しました。これに対しルターは155冊のパンフレットを燃やし、教皇権への反抗を示す象徴的事件となります。宗教改革の進展とカトリック教会の分裂を決定的にした重要な出来事です。
1520年
レオ10世
大勅書
エクスルゲ・ドミネ
英語版
マルティン・ルター
破門
天正14年4月28日
豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁ぐ。
1586年、豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁ぎ、両家の政治的結びつきを強めました。
天正14年(1586年)、天下統一を進める豊臣秀吉は妹の朝日姫を徳川家康に嫁がせ、同盟関係を強固にしました。婚姻は秀吉と家康の間の緊張緩和を図る目的があり、関ヶ原の戦い以前の権力バランスに影響を与えます。朝日姫は数々の政治的儀礼に参加し、両家の親睦を象徴しました。この結婚は大名間の婚姻外交の代表例とされ、戦国時代の権力構図を反映しています。婚儀は当時の政治的安定に寄与し、その後の江戸幕府成立にも間接的な影響を及ぼしました。
1586年
天正
4月28日
豊臣秀吉
朝日姫
徳川家康
1776年
デラウェア植民地がイギリスとペンシルベニア植民地の支配からの離別を宣言。
1776年、デラウェア植民地がイギリスおよびペンシルベニアからの離脱を宣言しました。
アメリカ独立戦争の最中、デラウェアは自律性を高める意図から6月15日に独自の立法機関を設立しました。これによりイギリス支配下からの離脱だけでなく、隣接するペンシルベニアからも政治的に独立しました。デラウェアは後に合衆国の最初の州として憲法批准の際に重要な役割を果たします。独立宣言に先立つ動きとして、新たな自治政府の設立は他の植民地にも影響を与えました。これが合衆国誕生への布石となった歴史的な出来事です。
1776年
デラウェア植民地
ペンシルベニア植民地
1804年
ニューハンプシャー州がアメリカ合衆国憲法修正第12条に批准し、承認に必要な13州の批准が集まる。
アメリカ合衆国憲法修正第12条が正式に発効した歴史的な出来事です。
修正第12条は大統領選挙の手続きを定める条項で、1803年に議会で可決されました。
6月15日にニューハンプシャー州が批准し、13州の承認が揃ったことで正式に発効しました。
これにより、選挙人団の投票方法が改革され、副大統領選出の問題点が解消されました。
条項の施行は以降の大統領選挙に影響を与え、アメリカの政党政治や選挙制度の安定化に寄与しました。
批准過程では州ごとに賛否が分かれ、政治的な駆け引きが行われていた点も興味深いです。
1804年
ニューハンプシャー州
アメリカ合衆国憲法修正第12条
批准
1836年
アーカンソー準州が州に昇格して、アメリカ合衆国26番目の州・アーカンソー州となる。
アーカンソー準州が州に昇格し、アメリカ合衆国26番目の州となりました。
1836年6月15日、アーカンソー準州は正式に州昇格を果たしました。
これにより、南西部に位置する地域が合衆国の26番目の州として認められました。
州昇格は移民の増加やインフラ整備の進展を促進しました。
アーカンソー州の成立は西部開拓時代の重要な節目となり、領域の確定に寄与しました。
州政府の設立や初代知事の選出など、新たな統治体制の構築が始まりました。
1836年
アーカンソー準州
アメリカ合衆国
アーカンソー州
1846年
オレゴン条約が締結され、オレゴン国境紛争が終結する。
米英間のオレゴン条約が締結され、オレゴン国境紛争が終結しました。
1846年6月15日、アメリカ合衆国とイギリス間でオレゴン条約が調印されました。
条約により、北緯49度線を米英の境界線として確定し、領土分割が決定。
この合意は長年続いた試掘者や定住者間の紛争を法的に解消しました。
条約締結後、オレゴン地域への移民や入植がさらに活発化しました。
米英両国の外交努力と西部開拓政策の折衷点として歴史的意義を持ちます。
1846年
オレゴン条約
文久2年5月18日
蕃書調所を一橋門外に移し洋書調所と改称。
江戸幕府が蕃書調所を洋書調所へ改称し、翻訳・洋学研究の拠点としました。
1862年6月15日(文久2年5月18日)、蕃書調所が一橋門外に移転し、洋書調所と名を変えました。
洋書調所は西洋書籍の翻訳や洋学研究を行う幕府の公式機関です。
設立以来、蘭学から英学・仏学など多様な分野の知識導入を担いました。
改称と移転は幕府の開国政策と学術振興の一環として進められました。
この改革が後の福沢諭吉らによる近代日本の知識基盤形成に影響を与えました。
1862年
文久
5月18日
蕃書調所
1888年
ドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世が死去し、長男のヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位。
ドイツ皇帝フリードリヒ3世が崩御し、ヴィルヘルム2世が即位しました。
1888年6月15日、プロイセン王・ドイツ皇帝フリードリヒ3世が在位わずか99日で死去。
享年56、彼の短い治世は自由主義的改革への期待が高まった時期でもありました。
嫡子ヴィルヘルム2世が即位し、後の第一次世界大戦期の指導者となります。
この継承はドイツ帝国の政治と外交に大きな転機をもたらしました。
ヴィルヘルム2世の強硬姿勢は欧州列強間の緊張を深める要因ともなりました。
1888年
ドイツ
プロイセン
フリードリヒ3世
ヴィルヘルム2世
1907年
第2回万国平和会議が開催される。韓国がハーグに密使を送る。(ハーグ密使事件)
1907年6月15日、第2回万国平和会議がオランダ・ハーグで開幕し、韓国のハーグ密使事件が起こりました。
1907年6月15日、オランダ・ハーグで第2回万国平和会議が開催されました。
朝鮮王朝は独立を訴えるため李完用らを密使として派遣しました。
これが「ハーグ密使事件」と呼ばれ、日本の保護国化政策と激しく対立しました。
日本政府は密使の帰国を阻止し、国際舞台で朝鮮問題の注目を集めました。
この事件は朝鮮半島の独立運動に大きな影響を与え、その後の日韓関係を大きく揺るがしました。
1907年
万国平和会議
韓国
ハーグ
ハーグ密使事件
1960年
安保闘争: 新安保条約批准阻止の第2次実力行使で全学連7,000人が国会議事堂に突入を図り警官隊と衝突。東大生樺美智子が死亡。
1960年6月15日、新安保条約批准阻止をめざす全学連約7,000人が国会議事堂に突入を試み、安保闘争の緊迫が頂点に達しました。
1960年の安保闘争は日米安全保障条約改定に反対する学生や労働組合が主導した大規模抗議運動です。
6月15日、全学連(全日本学生自治会総連合)の学生約7,000人が国会議事堂へ乱入を図り、警官隊との激しい衝突が発生しました。
東京大学教養学部の学生・樺美智子は装甲車に轢かれて死亡し、事件は全国に大きな衝撃を与えました。
この出来事を受けて岸信介内閣の支持率は急落し、条約は成立したものの政治的打撃を受けました。
市民運動と政治権力の対立の象徴として、戦後日本の政治史に深い爪痕を残しました。
1960年
安保闘争
全学連
樺美智子