天平17年5月11日
彷徨五年: 聖武天皇が都を平城京に戻す。
天平17年(745年)、聖武天皇が約5年ぶりに都を平城京に戻しました。
天平5年(743年)から遷都が始まり、まず恭仁京、次いで難波京へ都が移されました。天平17年(745年)5月11日の遷都は「彷徨五年」と呼ばれ、長期の都の移転に終止符を打ちました。平城京は710年に建都され、日本の中央政権と文化の中心地として発展してきた歴史ある都です。聖武天皇は政治の安定と仏教文化の振興を図り、再遷都によって東アジアとの交流も活性化させました。この出来事は奈良時代の政治体制を象徴する重要な節目として知られています。
745年
天平
5月11日
彷徨五年
聖武天皇
平城京
文治5年閏4月30日
衣川の戦い: 源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。源義経は自害。
1189年、源義経が藤原泰衡の軍勢に襲撃され、衣川館で自害に追い込まれました。
文治5年(1189年)、源義経は兄頼朝の追討令を受け、奥州に逃れて藤原泰衡の庇護を受けていました。しかし、その裏切りにより泰衡は衣川館を急襲し、義経は包囲されます。絶体絶命の状況で義経は自害を選び、その死は源氏の武名と悲劇性を際立たせました。この合戦は義経追討の一連の終結点とされ、源頼朝の政権掌握を決定づけました。中世日本史において義経の最期は数々の物語や文学作品で語り継がれています。
1189年
文治
閏4月30日
衣川の戦い
源義経
藤原泰衡
衣川館
1215年
イングランド王ジョンが、自身の権限を限定するマグナ・カルタを認める。
1215年、イングランド王ジョンが王権を制限するマグナ・カルタを承認しました。
王室の重税や専制的統治に反発した貴族たちが起草を主導し、ジョン王はランニミードの草地で文書を承認しました。マグナ・カルタは王の恣意的な課税や司法権の乱用を制限し、法の支配の原則を初めて明文化した画期的な協定です。条項には教会の自由保護や公正な裁判を受ける権利が盛り込まれ、後の憲法制定や人権思想に大きな影響を与えました。1215年の原版はすぐに無効となったものの、その理念は再発行を重ねながらイギリス法の基礎となりました。
1215年
イングランド
ジョン
マグナ・カルタ
1389年
コソボの戦い。セルビア・ボスニアなどバルカン半島の諸侯軍がオスマン帝国に敗北。
1389年、コソボの戦いでバルカン諸侯軍がオスマン帝国に敗北しました。
バルカン半島でセルビア公ラザルが率いる連合軍は、オスマン帝国スルタン・ムラト1世の大軍と激突しました。戦闘は熾烈を極め、両軍は数時間にわたり死闘を繰り広げます。最終的にオスマン軍が勝利し、スルタン・ムラト1世は戦場で戦死しました。これによりオスマン帝国のバルカン支配は一層強化され、セルビアをはじめとする諸国は長期にわたり属国化されます。この戦いはバルカン地域の歴史的転換点として知られています。
1389年
コソボの戦い
セルビア
ボスニア
バルカン半島
オスマン帝国
1520年
ローマ教皇レオ10世が大勅書『エクスルゲ・ドミネ』を発布し、マルティン・ルターに対し自説を撤回しなければ破門すると警告。
1520年、教皇レオ10世がルターに自説の撤回を求め、破門を警告する大勅書を発布しました。
ルターの教会批判は広く支持を集め、教皇庁は対応を迫られていました。1520年6月15日、レオ10世は大勅書『エクスルゲ・ドミネ』を発布し、ルターに90日以内の撤回を命じました。ルターが従わない場合には破門を宣告すると厳しく警告しました。これに対しルターは155冊のパンフレットを燃やし、教皇権への反抗を示す象徴的事件となります。宗教改革の進展とカトリック教会の分裂を決定的にした重要な出来事です。
1520年
レオ10世
大勅書
エクスルゲ・ドミネ
英語版
マルティン・ルター
破門
天正14年4月28日
豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁ぐ。
1586年、豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁ぎ、両家の政治的結びつきを強めました。
天正14年(1586年)、天下統一を進める豊臣秀吉は妹の朝日姫を徳川家康に嫁がせ、同盟関係を強固にしました。婚姻は秀吉と家康の間の緊張緩和を図る目的があり、関ヶ原の戦い以前の権力バランスに影響を与えます。朝日姫は数々の政治的儀礼に参加し、両家の親睦を象徴しました。この結婚は大名間の婚姻外交の代表例とされ、戦国時代の権力構図を反映しています。婚儀は当時の政治的安定に寄与し、その後の江戸幕府成立にも間接的な影響を及ぼしました。
1586年
天正
4月28日
豊臣秀吉
朝日姫
徳川家康
1667年
フランスの医師ジャン=バティスト・ドニーが、世界初の人間の間での輸血を行う。
1667年、フランスの医師ジャン=バティスト・ドニーが世界初の人間同士の輸血を成功させました。
医師ドニーはそれまで動物からの輸血による実験を行っていましたが、この日は人間同士で初の輸血を試みました。患者は重篤な貧血を患っていた貴族で、献血者として若い男性が適用されました。手技は当時の技術として非常に革新的であり、血液型の概念が確立する前の試みでしたが、短期間は改善が見られました。その後、輸血に伴う合併症や倫理的問題が浮上し、フランスでは一時禁止されることになります。医療史において輸血技術の黎明期を象徴する画期的な出来事です。
1667年
ジャン=バティスト・ドニー
英語版
輸血
1752年
ベンジャミン・フランクリンが、凧を用いた実験で雷が電気であることを証明する。
1752年、ベンジャミン・フランクリンが凧の実験で雷が電気現象であることを証明しました。
フランクリンはフィラデルフィアで凧に鍵を結びつけ、雷雨の雲に向けて飛ばしました。雷に帯電した雲から電荷を集めることで、金属製の鍵に電気火花を観察します。この実験により雷が自然界の電気であることが科学的に証明されました。フランクリンはさらに避雷針の開発を進め、建物の防護技術として応用しました。電気学の発展に大きく貢献した業績であり、後の技術革新の基礎となりました。
1752年
ベンジャミン・フランクリン
凧
雷
電気
1775年
アメリカ独立戦争: ジョージ・ワシントンが大陸軍の総司令官に任命される。7月3日に就任。
1775年、ジョージ・ワシントンがアメリカ大陸会議から大陸軍総司令官に選出されました。
第二次大陸会議は独立戦争勃発直後に軍事統帥の必要性を痛感し、ワシントンを信頼できる指導者として選びました。ワシントンはバージニア植民地出身の裕福なプランテーションオーナーであり、以前の軍歴も評価されました。7月3日に正式に就任し、直後にボストン包囲戦の指揮を行います。彼のリーダーシップは士気を高め、長期戦を戦い抜く原動力となりました。アメリカ合衆国初代大統領として後世に名を残すきっかけとなった瞬間です。
1775年
アメリカ独立戦争
ジョージ・ワシントン
大陸軍
7月3日
1776年
デラウェア植民地がイギリスとペンシルベニア植民地の支配からの離別を宣言。
1776年、デラウェア植民地がイギリスおよびペンシルベニアからの離脱を宣言しました。
アメリカ独立戦争の最中、デラウェアは自律性を高める意図から6月15日に独自の立法機関を設立しました。これによりイギリス支配下からの離脱だけでなく、隣接するペンシルベニアからも政治的に独立しました。デラウェアは後に合衆国の最初の州として憲法批准の際に重要な役割を果たします。独立宣言に先立つ動きとして、新たな自治政府の設立は他の植民地にも影響を与えました。これが合衆国誕生への布石となった歴史的な出来事です。
1776年
デラウェア植民地
ペンシルベニア植民地
1804年
ニューハンプシャー州がアメリカ合衆国憲法修正第12条に批准し、承認に必要な13州の批准が集まる。
アメリカ合衆国憲法修正第12条が正式に発効した歴史的な出来事です。
修正第12条は大統領選挙の手続きを定める条項で、1803年に議会で可決されました。
6月15日にニューハンプシャー州が批准し、13州の承認が揃ったことで正式に発効しました。
これにより、選挙人団の投票方法が改革され、副大統領選出の問題点が解消されました。
条項の施行は以降の大統領選挙に影響を与え、アメリカの政党政治や選挙制度の安定化に寄与しました。
批准過程では州ごとに賛否が分かれ、政治的な駆け引きが行われていた点も興味深いです。
1804年
ニューハンプシャー州
アメリカ合衆国憲法修正第12条
批准
文政10年5月21日
頼山陽が元老中・松平定信に『日本外史』22巻を献呈。
幕末の歴史家・頼山陽が自著『日本外史』を幕府老中・松平定信に献呈した出来事です。
『日本外史』は頼山陽が日本の外様大名や歴史を扱った全22巻の大著です。
文政10年(1827年)5月21日、頼山陽は著作を老中・松平定信に献上しました。
松平定信は改革派として知られ、政治的影響力を持つ人物でした。
献呈は幕末の思想や歴史観が幕府内でどのように受容されるかを示す重要な機会でした。
この行為は学問と政治の結びつきを象徴し、後の思想史研究に大きな示唆を与えました。
1827年
文政
5月21日
頼山陽
松平定信
日本外史