元亀3年5月4日
木崎原の戦い。300人の島津義弘軍が3,000人の伊東祐安軍を破る。
木崎原の戦いは戦国時代に島津義弘軍が圧倒的に不利な状況から勝利した一戦です。
元亀3年5月4日(1572年6月14日)、薩摩の戦国大名・島津義弘は300人の精鋭部隊で伊東祐安の3,000人を相手に木崎原で戦いました。数で10倍もの劣勢に立たされながらも、島津軍は奇襲や機動力を活かして大勝を収めます。この勝利は西南戦線における島津氏の軍事的地位を確立し、九州での影響力を高める契機となりました。また戦術的な柔軟性と統率力が高く評価され、義弘の名声を揺るぎないものにしました。木崎原の戦いは戦国時代の小規模ながら劇的な奇襲戦として知られています。
1572年
元亀
5月4日
木崎原の戦い
島津義弘
伊東祐安
天正11年4月24日
北ノ庄城で柴田勝家・お市の方が自害する。
北ノ庄城の落城に伴い、柴田勝家と妻のお市の方が自害しました。
天正11年4月24日(1583年6月14日)、賤ヶ岳の戦いで敗北した柴田勝家は北ノ庄城に籠城します。織田信長の妹・お市の方を妻に持つ勝家は、城が包囲された末に自害を決意しました。夫妻の最期は当時の武家社会における主従関係や忠義の象徴とされています。北ノ庄城の悲劇的な結末は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の権力確立を印象づけるエピソードとなりました。お市の方は浅井長政との間に生まれた三姉妹の母でもあり、後の浅井・織田家の歴史にも影響を与えます。士族の忠誠と家族愛が交錯するこの出来事は、戦国時代の悲劇として多くの史書で取り上げられています。
1583年
天正
4月24日
北ノ庄城
柴田勝家
お市の方
1645年
イングランド内戦: ネイズビーの戦い。
イングランド内戦中の1645年、王党派と議会派がネイズビーで激突しました。
1645年6月14日、イングランド内戦の重要な転機となるネイズビーの戦いが起こりました。議会派はオリバー・クロムウェル率いる装甲歩兵隊とウィンザー伯モントローズ率いる騎兵隊で王党派を包囲します。結果的に王党派は大敗し、多くの指導者を失い勢力が衰退しました。この戦闘は議会派の勝利を決定づけ、内戦の終結へとつながる決定的な一戦となります。またクロムウェルの名声を高め、議会派軍の体制強化に寄与しました。ネイズビーの戦いは軍事戦術としても分析され、近代戦の先駆けとされることもあります。
1645年
イングランド内戦
ネイズビーの戦い
1775年
アメリカ独立戦争: 第2次大陸会議の決議により大陸軍が発足。
アメリカ独立戦争で大陸会議の決議により大陸軍が正式に発足しました。
1775年6月14日、第二次大陸会議は大陸軍(Continental Army)の設立を決議しました。これにより各植民地の民兵を統合し、ジョージ・ワシントンを初代総司令官に任命します。大陸軍は組織的な正規軍としての役割を果たし、イギリス軍との戦闘で指導的地位を確立しました。軍隊の成立は独立派の士気を高め、アメリカ合衆国誕生への大きな一歩となります。ワシントンのリーダーシップと大陸軍の活躍は革命戦争の勝利に不可欠でした。現在でもアメリカ軍の記念日として「アーミー・デー(Army Day)」が制定されています。
1775年
アメリカ独立戦争
第2次大陸会議
大陸軍
1800年
フランス革命戦争: マレンゴの戦い。
マレンゴの戦いはナポレオン率いるフランス軍がオーストリア軍に勝利した一戦です。
1800年6月14日、フランス革命戦争の一環としてマレンゴ平原でナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍とオーストリア軍が衝突しました。初期は苦戦したものの、フランス軍はピエール・オジェ少将の到着支援部隊により形勢を逆転します。最終的にフランスは勝利を収め、イタリア北部での支配権を確立しました。この勝利はフランス第一統領としてのナポレオンの地位を強固にし、ヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させます。マレンゴの戦いは機動戦と奇襲の戦術が光った戦闘として知られています。戦後、フランスはプレスブルク条約を優位に交渉し、領土拡大を実現します。歴史的にもナポレオンの戦術的才能を示す重要な転換点です。
1800年
フランス革命戦争
マレンゴの戦い
1807年
ナポレオン戦争: フリートラントの戦い。
1807年にナポレオン戦争の主要な戦いの一つ、フリートラントの戦いが行われました。
・フリートラントの戦いは、ナポレオン率いるフランス軍とロシア・プロイセン連合軍との間で行われた。
・1807年6月14日に始まり、フランス軍の決定的勝利で終結した。
・この勝利によりナポレオンは東プロイセンを制圧し、ロシアに和平を迫る足掛かりを得た。
・その後のティルジット条約締結へつながり、ヨーロッパの勢力図を大きく変動させた。
・戦術的な包囲戦と機動力を駆使したナポレオンの戦法が光った戦いとして知られる。
1807年
ナポレオン戦争
フリートラントの戦い
1940年
第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: ドイツ軍によってパリが占領される。
ナチス・ドイツ軍がパリを占領し、フランスは危機に瀕しました。
・1940年6月14日、第二次世界大戦中のドイツ軍がパリに無血入城し市街を掌握。
・ドイツ軍の電撃戦によりフランス軍は壊滅的打撃を受け、政府は南西部に移転。
・占領下のパリではドイツの軍政が敷かれ、抵抗勢力の弾圧が進行。
・フランスのヴィシー政権樹立への道を開き、欧州戦局に大きな影響を与えた。
・パリ占領は戦争の転機となり、レジスタンス運動の機運を高める要因ともなった。
1940年
第二次世界大戦
ナチス・ドイツのフランス侵攻
ドイツ軍
パリ
1940年
第二次世界大戦・バルト諸国占領: ソビエト連邦がバルト三国への侵攻を開始。
ソビエト連邦が第二次世界大戦中にバルト三国へ侵攻し、占領を開始した出来事。
1940年6月14日、ソビエト連邦はバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)への軍事侵攻を開始しました。
この侵攻は第二次世界大戦の一環として行われ、バルト三国は短期間で占領下に置かれました。
ソビエト政府は併合を正当化し、各国をソ連邦共和国として組み込みました。
占領に伴い政府機関の解体や共産主義体制の導入が進められました。
この出来事はバルト三国の独立回復まで50年以上にわたる支配の始まりを意味します。
バルト諸国占領
ソビエト連邦
バルト三国
1941年
第二次世界大戦・バルト諸国占領: バルト三国でソビエト連邦による大規模な国民のシベリアなどへの国外追放 (en:June deportation) が開始される。
ソビエト連邦がバルト三国で大規模な国民追放、いわゆる「6月追放」を開始した。
1941年6月14日夜から15日にかけ、約2万人のバルト三国住民がシベリアやカザフスタンへ強制移送されました。
追放対象には政治犯の疑いをかけられた知識人や農民、女性・子供も含まれていました。
列車は過酷な環境下で運行され、多くが極寒や飢餓で命を落としました。
この「6月追放」はソビエト政権による民族浄化政策の一環とされています。
バルト三国の歴史に深い傷を残し、独立回復後も追悼行事が行われています。
1941年
シベリア
en:June deportation
1982年
フォークランド紛争終結。
フォークランド紛争が終結し、アルゼンチン軍が降伏しました。
1982年6月14日、アルゼンチンと英国の間で起きたフォークランド紛争が終結しました。
アルゼンチン軍が降伏し、イギリスによるフォークランド諸島の実効支配が再確立されました。
紛争は1982年4月2日に勃発し、約10週間にわたって激しい戦闘が行われました。
両国合わせて約1000名以上の死傷者を出し、国際政治や軍事戦略に大きな影響を与えました。
現在も両国の領有権問題として国際的な論争が続いています。
1982年
フォークランド紛争