寛平元年5月13日
桓武天皇の曾孫で高望王が平姓を賜り上総介に任じられる。坂東平氏の祖。
平安時代初期、桓武天皇の曾孫である高望王が平姓を賜り上総介に任ぜられました。これにより坂東平氏の祖が誕生します。
高望王は桓武天皇の血統を引く貴族で、平安時代に関東地方の統治を担いました。寛平元年5月13日(889年6月14日)、彼は朝廷から平姓を与えられ、上総介という地方官職に任命されます。この任命は藤原氏など有力氏族との政治的バランスを図るものと考えられています。高望王の統治を基盤として、後に坂東地方で勢力を拡大した坂東平氏が形成されました。坂東平氏は平安時代以降、地方の武士勢力として重要な役割を果たしていきます。この出来事は平氏一門の起源としても知られ、後の平安末期の政権構造に影響を与えました。
889年
寛平
5月13日
桓武天皇
高望王
平姓
坂東平氏
文暦2年5月27日
藤原定家が古今の和歌百首を書写する(百人一首の原型とされる)。
鎌倉時代に歌人・藤原定家が古今和歌集などから百首を選び書写しました。これが後の百人一首の原型とされています。
藤原定家は歌学者として名高い鎌倉時代の公卿・歌人です。文暦2年5月27日(1235年6月14日)、彼は古今和歌集などから和歌百首を書写しました。この選歌と書写の手法が後に藤原定家撰と伝えられる百人一首の原型とされます。百人一首は鎌倉時代から室町時代にかけて広まった歌詠みの基礎資料となりました。和歌の歴史や文学研究においても重要な遺産と評価されています。現在でもカルタゲームや学術研究で親しまれている文化的遺産の一つです。
1235年
文暦
5月27日
藤原定家
百人一首
元亀3年5月4日
木崎原の戦い。300人の島津義弘軍が3,000人の伊東祐安軍を破る。
木崎原の戦いは戦国時代に島津義弘軍が圧倒的に不利な状況から勝利した一戦です。
元亀3年5月4日(1572年6月14日)、薩摩の戦国大名・島津義弘は300人の精鋭部隊で伊東祐安の3,000人を相手に木崎原で戦いました。数で10倍もの劣勢に立たされながらも、島津軍は奇襲や機動力を活かして大勝を収めます。この勝利は西南戦線における島津氏の軍事的地位を確立し、九州での影響力を高める契機となりました。また戦術的な柔軟性と統率力が高く評価され、義弘の名声を揺るぎないものにしました。木崎原の戦いは戦国時代の小規模ながら劇的な奇襲戦として知られています。
1572年
元亀
5月4日
木崎原の戦い
島津義弘
伊東祐安
天正11年4月24日
北ノ庄城で柴田勝家・お市の方が自害する。
北ノ庄城の落城に伴い、柴田勝家と妻のお市の方が自害しました。
天正11年4月24日(1583年6月14日)、賤ヶ岳の戦いで敗北した柴田勝家は北ノ庄城に籠城します。織田信長の妹・お市の方を妻に持つ勝家は、城が包囲された末に自害を決意しました。夫妻の最期は当時の武家社会における主従関係や忠義の象徴とされています。北ノ庄城の悲劇的な結末は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の権力確立を印象づけるエピソードとなりました。お市の方は浅井長政との間に生まれた三姉妹の母でもあり、後の浅井・織田家の歴史にも影響を与えます。士族の忠誠と家族愛が交錯するこの出来事は、戦国時代の悲劇として多くの史書で取り上げられています。
1583年
天正
4月24日
北ノ庄城
柴田勝家
お市の方
1645年
イングランド内戦: ネイズビーの戦い。
イングランド内戦中の1645年、王党派と議会派がネイズビーで激突しました。
1645年6月14日、イングランド内戦の重要な転機となるネイズビーの戦いが起こりました。議会派はオリバー・クロムウェル率いる装甲歩兵隊とウィンザー伯モントローズ率いる騎兵隊で王党派を包囲します。結果的に王党派は大敗し、多くの指導者を失い勢力が衰退しました。この戦闘は議会派の勝利を決定づけ、内戦の終結へとつながる決定的な一戦となります。またクロムウェルの名声を高め、議会派軍の体制強化に寄与しました。ネイズビーの戦いは軍事戦術としても分析され、近代戦の先駆けとされることもあります。
1645年
イングランド内戦
ネイズビーの戦い
1775年
アメリカ独立戦争: 第2次大陸会議の決議により大陸軍が発足。
アメリカ独立戦争で大陸会議の決議により大陸軍が正式に発足しました。
1775年6月14日、第二次大陸会議は大陸軍(Continental Army)の設立を決議しました。これにより各植民地の民兵を統合し、ジョージ・ワシントンを初代総司令官に任命します。大陸軍は組織的な正規軍としての役割を果たし、イギリス軍との戦闘で指導的地位を確立しました。軍隊の成立は独立派の士気を高め、アメリカ合衆国誕生への大きな一歩となります。ワシントンのリーダーシップと大陸軍の活躍は革命戦争の勝利に不可欠でした。現在でもアメリカ軍の記念日として「アーミー・デー(Army Day)」が制定されています。
1775年
アメリカ独立戦争
第2次大陸会議
大陸軍
1777年
星条旗がアメリカ合衆国の国旗に制定される。
星条旗が第二次大陸会議で正式にアメリカ合衆国の国旗として制定されました。
1777年6月14日、第二次大陸会議は旗条例(Flag Resolution)を可決し、星条旗(Stars and Stripes)を国旗に定めました。新しいデザインは13州を象徴する13本の縞と星を配置し、今後州の数に応じて星を増やすことが決まりました。この国旗の採用は独立運動の象徴として、植民地の統一意識を高める役割を果たします。以降、星条旗はアメリカ独立や共和政体の理念を体現する象徴として広く親しまれてきました。デザインは何度も改定されながらも基本的な構成は維持され、現在の50州分の星条旗へと発展しています。国旗制定日は「フラッグ・デー(Flag Day)」として毎年祝われています。
1777年
アメリカ合衆国の国旗
1789年
バウンティ号の反乱: バウンティ号を追い出されたウィリアム・ブライ艦長以下19人の乗った救命艇が41日かけてティモール島に到着。
バウンティ号の反乱で追放されたウィリアム・ブライ艦長らが救命艇で過酷な航海を成し遂げました。
1789年6月14日、南太平洋のバウンティ号で反乱が起こり、指揮官ウィリアム・ブライ艦長と忠実な乗組員19名が反乱者により救命艇に追放されます。狭い艇で41日間、約4,000キロにおよぶ過酷な航海を経て、ついにティモール島沿岸に到達しました。航海中は食糧や水の不足、悪天候に苦しみながらも、巧みな航海術と団結力で生存を果たします。ブライらの帰還は母国イギリスで大きな話題となり、マハラジャへの知らせ役も果たしました。この航海記録は後にブライ自身によって刊行され、航海術とリーダーシップの教訓として評価されています。バウンティ号の反乱とブライの漂流は海洋史における有名なエピソードとなっています。
1789年
バウンティ号の反乱
バウンティ号
ウィリアム・ブライ
ティモール島
1789年
アメリカケンタッキー州の牧師エライジャ・クレイグによってバーボン・ウイスキーが初めて作られる。
ケンタッキー州の牧師エライジャ・クレイグが初めてバーボン・ウイスキーを製造しました。
1789年6月14日、アメリカ・ケンタッキー州の牧師エライジャ・クレイグはトウモロコシを主原料とする蒸留酒を初めて作り、バーボン・ウイスキーと名付けました。バーボンはチャー(焦がし)した新樽で熟成させることで独特の香味を獲得し、アメリカ南部の特産品となります。クレイグ牧師の製法はのちに他の蒸留所にも広がり、バーボン産業の発展を促しました。今日ではバーボンはアメリカを代表する蒸留酒として世界中で楽しまれています。ケンタッキー州はバーボンの発祥地として観光資源や文化的アイデンティティになっています。エライジャ・クレイグはバーボン史に欠かせない先駆者として評価されています。
アメリカ
ケンタッキー州
エライジャ・クレイグ
バーボン・ウイスキー
1800年
フランス革命戦争: マレンゴの戦い。
マレンゴの戦いはナポレオン率いるフランス軍がオーストリア軍に勝利した一戦です。
1800年6月14日、フランス革命戦争の一環としてマレンゴ平原でナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍とオーストリア軍が衝突しました。初期は苦戦したものの、フランス軍はピエール・オジェ少将の到着支援部隊により形勢を逆転します。最終的にフランスは勝利を収め、イタリア北部での支配権を確立しました。この勝利はフランス第一統領としてのナポレオンの地位を強固にし、ヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させます。マレンゴの戦いは機動戦と奇襲の戦術が光った戦闘として知られています。戦後、フランスはプレスブルク条約を優位に交渉し、領土拡大を実現します。歴史的にもナポレオンの戦術的才能を示す重要な転換点です。
1800年
フランス革命戦争
マレンゴの戦い
1807年
ナポレオン戦争: フリートラントの戦い。
1807年にナポレオン戦争の主要な戦いの一つ、フリートラントの戦いが行われました。
・フリートラントの戦いは、ナポレオン率いるフランス軍とロシア・プロイセン連合軍との間で行われた。
・1807年6月14日に始まり、フランス軍の決定的勝利で終結した。
・この勝利によりナポレオンは東プロイセンを制圧し、ロシアに和平を迫る足掛かりを得た。
・その後のティルジット条約締結へつながり、ヨーロッパの勢力図を大きく変動させた。
・戦術的な包囲戦と機動力を駆使したナポレオンの戦法が光った戦いとして知られる。
1807年
ナポレオン戦争
フリートラントの戦い
1822年
チャールズ・バベッジが階差機関についての論文を王立天文学会に送る。
チャールズ・バベッジが階差機関に関する論文を王立天文学会に提出しました。
・1822年6月14日、イギリスの数学者チャールズ・バベッジが王立天文学会に階差機関の設計論文を送付。
・階差機関は世界初の自動計算機として構想され、数値の微分や積分を行う機械式装置。
・この論文提出によりバベッジの計算機構想が学術界に初めて紹介された。
・後の解析機関(Analytical Engine)構想へと発展し、コンピュータの先駆けとなった。
・現代の計算機科学の礎を築いた画期的なアイデアとして評価される。
1822年
チャールズ・バベッジ
階差機関
王立天文学会