1886年
雨宮製糸争議。甲府・雨宮製糸場の女工が日本初のストライキを決行。
1886年6月12日、甲府の雨宮製糸場で女工たちが賃上げと労働条件改善を求めて日本初のストライキを実行しました。
甲府の雨宮製糸場で働く女工たちは、長時間労働と低賃金に抗議し、6月12日から集団行動を開始しました。
この争議は日本で初めての女性工場労働者によるストライキとして歴史に残ります。
会社側は当初譲歩せず、争議は長期化しましたが、後に一部改善が認められました。
この出来事は女性労働者の権利意識を高め、労働運動史において重要な一章となりました。
以後、日本の労働運動において女性の役割が注目されるきっかけとなりました。
ストライキ
1916年
大阪鉄工所で従業員が賃上げを求めたストライキを実施。会社側は全員解雇で対抗。
1916年6月12日、大阪鉄工所の従業員が賃上げを求めてストライキを行い、会社は全員解雇で対抗しました。
大阪鉄工所の労働者たちは、過酷な労働条件と低賃金に不満を募らせ、6月12日からストライキを決行しました。
会社側は一切の譲歩を拒否し、参加者全員を解雇する強硬手段に出ました。
この対応は労働組合結成に火をつけ、後の労働運動史において重要な事例となりました。
政府も労使対立の激化を警戒し、治安維持法などを通じて労働運動を監視・抑圧する契機となりました。
本事件は日本の近代労働運動が国家と資本に対峙する一大転機とされています。
大阪鉄工所
ストライキ
1963年
ミシシッピ州の公民権運動指導者メドガー・エヴァースが自宅前で待ち伏せされ、クー・クラックス・クランメンバーにより射殺される。
公民権運動指導者メドガー・エヴァースがKKKメンバーの襲撃を受け、自宅前で射殺された。
1963年6月12日、ミシシッピ州ジャクソンにて公民権運動指導者メドガー・エヴァースが自宅前で待ち伏せされ、クー・クラックス・クランのメンバーに射殺されました。
エヴァースはNAACPミシシッピ支部の秘書長として投票権獲得運動や人種差別撤廃活動を先導していました。
彼の死はアメリカ南部に緊張を走らせ、公民権運動のさらなる激化と全国的な注目を集める契機となりました。
事件後、エヴァースの妻ナジーおよび活動家たちは抗議活動を継続し、1964年の公民権法成立に影響を与えました。
彼の功績と犠牲は現在でも人権擁護の象徴として記憶されています。
1963年
ミシシッピ州
公民権運動
メドガー・エヴァース
クー・クラックス・クラン
1965年
家永教科書裁判。東京教育大教授・家永三郎が自著の高校日本史教科書の検定を違憲として国に損害賠償請求。終結まで32年。
東京教育大教授の家永三郎が自著の高校日本史教科書の検定を違憲と主張し、国を相手に損害賠償を請求した裁判が始まった。
1965年6月12日、東京教育大教授・家永三郎が自著の高校日本史教科書の検定を不当として文部科学省を相手取り損害賠償を求める訴訟を起こしました。
家永教授は検定基準が学問の自由を侵害し、民主主義教育に反すると主張しました。
この訴訟は終結まで32年を要し、学問の自由と国家権力の関係をめぐる重要な論点を示しました。
1970年代から最終判決に至るまで、憲法や教育基本法との整合性が法廷で詳細に論じられました。
家永事件は日本の教育行政や出版物検定制度に大きな影響を与えた歴史的裁判です。
1965年
家永教科書裁判
家永三郎
検定
1967年
新潟の第二水俣病の患者13人が、原因企業の鹿瀬電工を相手に損害賠償請求。
1967年6月12日に新潟県で発生した第二水俣病の患者13人が原因企業「鹿瀬電工」を相手取り、損害賠償請求を行いました。
1965年に確認された新潟県阿賀野川流域の第二水俣病患者のうち13人が、1967年6月12日、原因企業である鹿瀬電工に対して損害賠償を請求しました。
この公害は工場排水に含まれた有機水銀が原因で、水俣病と同様の神経症状を引き起こしました。
患者たちは健康被害を訴え、企業の責任を追及する法的闘争に踏み切ります。
この訴訟は日本における公害対策の重要な転機となり、環境保護運動の高まりに繋がりました。
その後、企業側との和解や賠償金支払いなどが進められ、社会的関心を集めました。
鹿瀬電工
2021年
香港で政府に抗議する未許可デモを組織するなどした罪で、禁錮10カ月の実刑判決を受けた民主活動家の周庭が、刑期を終えて出所した。
香港の民主活動家周庭が禁錮10カ月の実刑判決を終え、出所しました。
2019年から続く香港の抗議運動に関わった民主活動家の周庭(アグネス・チョウ)が、未許可デモの組織などの罪で実刑判決を受けていました。
裁判は国家安全法成立後の厳しい司法運用として国内外から注目を集めました。
彼女は禁錮10カ月の判決を言い渡され、同法適用後に有罪判決を受けた数少ない著名活動家の一人です。
判決後、拘置所での服役生活を経て2021年6月12日に刑期を終えて出所しました。
彼女の出所は香港の民主運動と市民社会にとって象徴的な出来事となりました。
国際社会は依然として香港の人権状況を注視しています。
2021年
香港
周庭