元弘3年/正慶2年4月27日

倒幕挙兵討伐のために丹波に入っていた足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵。

足利尊氏が後醍醐天皇の要請に応え、鎌倉幕府打倒のために挙兵を決意した。
元弘3年(1333年)4月、足利尊氏は九州方面で鎌倉幕府討伐の軍を率いていた。 しかし丹波国で後醍醐天皇からの呼びかけを受け、幕府からの離反を決意する。 尊氏は自らの旗を翻し、甲斐国から京へ向けて挙兵を宣言した。 この決断が鎌倉幕府崩壊を加速させ、建武の新政への布石となった。 日本史上の転換期を象徴する重要な軍事行動とされる。
1333年 元弘 正慶 4月27日 足利尊氏 後醍醐天皇
延元3年/暦応元年5月22日

石津の戦い。南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直に敗れ戦死。

石津の戦いで南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直に敗れ、戦死した。
延元3年(1338年)5月、南北朝時代の代表的な合戦の一つが石津で起きた。 南朝方の武将・北畠顕家は近江国石津に陣を敷き、高師直率いる北朝軍と対峙した。 激戦の末、顕家軍は壊滅的打撃を受け、北畠顕家自身も戦死した。 この敗北により南朝の勢力は大きく衰退し、戦局は北朝優位に傾いた。 北畠顕家の死は南朝側にとって大きな痛手となり、後の戦いに影響を与えた。
1338年 延元 暦応 5月22日 石津の戦い 北畠顕家 高師直
1805年

第一次バーバリ戦争が終結。

アメリカ初のバーバリ海岸戦争、第一次バーバリ戦争が1805年に終結した。
第一次バーバリ戦争(1801-1805年)は米国海軍と北アフリカの海賊国家間の戦いだった。 米国は商船の自由航行と海賊被害の根絶を目的として軍事行動を展開した。 1805年6月10日、トリポリで和平条約が締結され、戦争は終結した。 この和平により米国は海賊に対する賠償金を支払い、その後も海外艦隊を保持した。 戦勝は新興国としての米国海軍の威信を高め、将来の海軍力強化につながった。
1805年 第一次バーバリ戦争
1864年

南北戦争: ブライス交差点の戦いが行われる。

南北戦争中のブライス交差点の戦いが行われた。
1864年6月10日、ミシシッピ州ブライス交差点でアメリカ南北戦争の戦闘が発生した。 南軍騎兵隊のネイサン・B・フォレスト将軍が少数の部隊で進軍中の北軍を急襲した。 フォレストの奇襲は成功し、北軍多数を撃退して大損害を与えた。 この勝利により南軍は補給線の安全を確保し、戦局に一時的な影響を与えた。 戦術的巧妙さが評価され、フォレスト将軍の軍事的名声を高めた。
1864年 南北戦争 ブライス交差点の戦い
1871年

辛未洋擾

1871年6月10日に中国で発生した辛未洋擾は、洋人権益をめぐる衝突事件です。
辛未洋擾は、清朝末期の対外緊張が高まる中で発生した事件です。 1871年(辛未年)に起こったことから『辛未洋擾』と呼ばれます。 詳細な記録は限られているものの、外国人居留地と清朝治安当局との間で衝突があったと伝えられています。 この事件は、当時の外交的摩擦や国内の不満を象徴する出来事とされています。 被害者数や具体的な経緯は定かではありません。
1871年 辛未洋擾
1900年

義和団の乱鎮圧のため、日米英独仏伊墺露の8か国連合軍が北京へ侵攻開始。(列国第2次出兵)

1900年6月10日、義和団事件鎮圧を目的とした列強8か国連合軍が北京への侵攻を開始しました。
義和団の乱は清朝末期に発生した排外運動で、外国人や基督教徒への迫害が過熱しました。 日本・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリア・ロシアの8か国連合軍は天津から北京への進軍を開始しました。 守備に当たった清朝軍と義和団は激しい市街戦を展開し、双方に多くの犠牲者を出しました。 最終的に連合軍は北京を占領し、清朝政府に屈服を強いる北京議定書の締結を余儀なくさせました。 この軍事行動は列強のアジアにおける勢力争いと清朝の弱体化を象徴しています。
1900年 義和団の乱
1917年

第一次世界大戦: オルティガーラ山の戦いが起こる。

1917年6月10日、第一次世界大戦中のイタリア戦線でオルティガーラ山の戦いが勃発しました。
オルティガーラ山の戦いはイタリア軍がオーストリア=ハンガリー軍の防衛線に対し攻勢をかけた大規模な山岳戦です。 イタリア第6軍は険しい地形と悪天候の中で激戦を展開し、多大な犠牲を払いながらも突破を試みました。 山岳地帯の戦闘は物資輸送や砲弾補給を困難にし、両軍ともに消耗戦に陥りました。 結局イタリア軍は目的を達成できず撤退を余儀なくされ、その後の戦線は膠着状態に戻りました。 この戦いは「白い戦争」と呼ばれるアルプス山岳戦の象徴的事例として知られています。
1917年 第一次世界大戦 オルティガーラ山の戦い
1918年

第一次世界大戦: オーストリア=ハンガリー帝国海軍の戦艦「セント・イシュトヴァーン」がイタリア海軍の魚雷艇MAS 15に撃沈される。

1918年6月10日、イタリア海軍の魚雷艇MAS 15がオーストリア=ハンガリー帝国の戦艦セント・イシュトヴァーンを撃沈しました。
第一次世界大戦のアドリア海で、MAS 15は夜間の奇襲作戦を敢行しました。 魚雷2発が戦艦セント・イシュトヴァーンに命中し、数時間後に同艦は沈没しました。 乗組員の多くが犠牲となり、帝国海軍の士気に大きな打撃を与えました。 この戦果は小型高速艇を用いた戦術の有効性を示し、地中海の海戦構図に影響を及ぼしました。 MAS艇隊は以後もイタリア海軍の重要な戦力として評価されました。
1918年 オーストリア=ハンガリー帝国海軍 セント・イシュトヴァーン イタリア海軍 魚雷艇MAS-15
1940年

第二次世界大戦: イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告。

1940年6月10日、第二次世界大戦でイタリアが英仏に宣戦布告しました。
1940年6月10日、ムッソリーニ率いるイタリア王国がイギリスおよびフランスに対して宣戦布告し、枢軸国として本格的に第二次世界大戦に参戦しました。イタリア軍はアルプス山脈を越えてフランス南東部に侵攻を開始しましたが、期待されたほどの成果は得られませんでした。この宣戦布告により戦線は地中海地域に拡大し、英仏両国は多方面での防衛を強いられることになりました。
1940年 第二次世界大戦 イタリア イギリス フランス
1940年

北欧侵攻: ノルウェー軍がナチス・ドイツに降伏。政府、国王は亡命政権として抗戦継続。

1940年6月10日、ノルウェー軍がナチス・ドイツに降伏し、政府と国王は亡命しました。
1940年6月10日、ドイツの北欧侵攻(ウェーザー演習作戦)によりノルウェー軍が降伏し、国内は占領下に置かれました。国王ホーコン7世と慣例政府はイギリスへ亡命し、外地からレジスタンスや自由ノルウェー政府を支援しました。この降伏はバルト海および北海における戦略的拠点をドイツに提供し、連合軍にとって大きな打撃となりました。
北欧侵攻 ノルウェー ナチス・ドイツ
1942年

第二次世界大戦: ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。

1942年6月10日、チェコのリディツェ村でナチスによる住民虐殺が行われました。
1942年6月10日、ナチス・ドイツはラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコの小村リディツェを襲撃し、成人男性を中心に銃殺、女性児童を強制収容所へ送致しました。村は徹底的に破壊され、住民約340人が殺害または移送されました。この残虐行為は国際的な非難を浴び、戦後にリディツェは記念碑として再建されることになりました。
1942年 ラインハルト・ハイドリヒ チェコ リディツェ
1944年

第二次世界大戦: ナチス・ドイツの武装親衛隊がフランスのオラドゥール=シュル=グラヌで住民642人を虐殺。

1944年6月10日、フランスのオラドゥール=シュル=グラヌ村でSS部隊が住民642人を虐殺しました。
1944年6月10日、ナチス・ドイツの武装親衛隊(SS)第2機甲師団「デア・ライヒ」はフランス中部のオラドゥール=シュル=グラヌ村を襲撃し、男女子供を問わず642人の住民を虐殺しました。家屋や教会が焼き払われ、村は壊滅的な被害を受けました。この蛮行はナチスによる対ゲリラ戦または報復とされ、戦後村はそのままの状態で保存され、記念館として再建されました。
1944年 武装親衛隊 フランス オラドゥール=シュル=グラヌ