793年

ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

793年6月8日、北欧海賊として知られるヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃し、イングランド侵略の幕を開けた。
793年6月8日、ノルマン人(後にヴァイキングと称される)がイングランド北東部のリンディスファーン島修道院を急襲しました。 襲撃により修道院は徹底的に破壊され、多くの僧侶が犠牲となったと伝えられます。 この事件はヴァイキングによるイングランド侵略の先駆けとなり、その後数十年にわたって海賊行為と略奪が激化しました。 西ヨーロッパ社会は沿岸防衛の強化を余儀なくされ、軍事戦術にも変革をもたらしています。 中世史において「ヴァイキング襲来」の象徴的な出来事として位置づけられています。
793年 ヴァイキング リンディスファーン島 スカンジナビア イングランド
元亀2年5月16日

織田信長が長島一向一揆の拠点・願証寺を攻撃するが、氏家卜全ら多くの戦死者を出し敗退。

1571年6月8日、織田信長が長島一向一揆の拠点・願証寺を攻撃したが大損害を受け撤退した。
1571年6月8日(元亀2年5月16日)、織田信長は伊勢国長島の願証寺を拠点とする一向一揆を攻撃しました。 一揆勢は地形を活かした堅固な籠城戦術を展開し、信長方にも氏家卜全ら多数の武将が戦死しました。 織田軍は攻略に手間取り、一時撤退を余儀なくされる事態となりました。 この敗北は信長にとって初期の挫折であり、のちの兵站整備や戦術改良の契機となりました。 一向一揆との戦いは織田信長の勢力拡大に影響を与えた重要な転換点です。
1571年 元亀 5月16日 織田信長 長島一向一揆 願証寺 氏家卜全
1758年

フレンチ・インディアン戦争: ルイブールの戦い (1758年)はじまる。

1758年6月8日、フレンチ・インディアン戦争においてルイスバーグ包囲戦が始まり、北米支配を巡る攻防が激化した。
1758年6月8日、フレンチ・インディアン戦争の一環としてイギリス軍がフランスの拠点ルイスバーグに対し包囲戦を開始しました。 ルイスバーグはニュー・フランスの海上要衝で、北米植民地の勢力均衡に大きな影響を与える地点でした。 イギリス軍は海陸の協同作戦で数週間にわたり包囲を続け、最終的に7月に都市を陥落させました。 この勝利は英領北アメリカ支配を確固たるものとし、七年戦争全体を有利に進める転機となりました。 戦術面でも大規模包囲戦の先駆とされ、北米戦史の重要な一章を刻みました。
1758年 フレンチ・インディアン戦争 ルイブールの戦い (1758年)
1776年

アメリカ独立戦争・カナダ侵攻作戦: トロワリヴィエールの戦い。

1776年6月8日、アメリカ独立戦争におけるカナダ侵攻作戦でトロワリヴィエールの戦いが発生した。
1776年6月8日、アメリカ独立戦争下のカナダ侵攻作戦において、アメリカ植民地軍がトロワリヴィエールでイギリス軍と衝突しました。 目的はケベック占領を通じてフランス系住民の支持を取り込み、イギリス勢力を弱体化させることでした。 しかし補給不足や現地住民の不協力、イギリス軍の堅固な防衛に阻まれ、アメリカ軍は大敗を喫しました。 この敗戦によりカナダ侵攻は頓挫し、独立戦争の戦略見直しを余儀なくされる結果となりました。 後の戦略転換点として、アメリカ側にとって重い教訓を残しました。
1776年 アメリカ独立戦争 カナダ侵攻作戦 トロワリヴィエールの戦い 英語版
1861年

南北戦争: テネシー州が北軍を離脱する。

Tennessee seceded from the Union on June 8, 1861, becoming the last Confederate state to join the American Civil War.
Amid rising tensions over slavery and states’ rights, Tennessee’s legislature voted to secede from the United States on June 8, 1861. Initially divided, voters were swayed by President Lincoln’s call for troops to suppress rebellion. Tennessee’s departure provided the Confederacy strategic control over the Cumberland and Tennessee rivers. Troops from the state played crucial roles at Fort Donelson and Shiloh. Eastern Tennessee’s Unionist strongholds, however, reflected the region’s deep internal divisions. The secession underscored the broader national crisis and intensified the scale of the Civil War.
1861年 南北戦争 テネシー州 北軍
1862年

南北戦争: クロスキーズの戦い。

On June 8, 1862, Confederate General Stonewall Jackson’s forces repelled Union troops at the Battle of Cross Keys in Virginia’s Shenandoah Valley.
As part of Jackson’s legendary Valley Campaign, the Battle of Cross Keys took place near Harrisonburg, Virginia. Approximately 5,000 Confederate soldiers under Stonewall Jackson held their ground against Major General John C. Frémont’s larger Union force. Jackson’s defensive positioning along Cross Keys Road and control of river crossings thwarted the Union advance. The victory preserved Confederate supply lines and diverted Union attention from Richmond. Alongside the Battle of Port Republic, Cross Keys showcased Jackson’s tactical brilliance and boosted Southern morale during a critical phase of the Civil War.
1862年 クロスキーズの戦い
1905年

日露戦争: ルーズベルト米大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかける。

米大統領セオドア・ルーズベルトが日露両国に講和会議を提案した日です。ポーツマス条約締結へのきっかけとなりました。
1905年6月8日、セオドア・ルーズベルト米大統領は日露戦争の長期化を受け、日本とロシアに講和会議開催を呼びかけました。米国の仲介により、両国はニューハンプシャー州ポーツマスで交渉を開始します。この提案は戦闘による消耗を回避し、東アジアの安定を図る狙いがありました。最終的にポーツマス条約として締結され、戦後の勢力均衡に大きく寄与しました。ルーズベルトはこの和平仲介によりノーベル平和賞を受賞しました。
1905年 日露戦争 ルーズベルト米大統領
1928年

蔣介石が率いる中国国民党の北伐軍が北京に入城。国民政府が中国全土をほぼ統一。

中国国民党の北伐軍が北京に入城し、国民政府がほぼ中国全土を統一した日です。中国近代化への大きな転換点となりました。
1928年6月8日、蔣介石率いる中国国民党の北伐軍は北京に入城し、北京政府を崩壊させました。これにより北洋軍閥支配が終焉し、国民政府が名実ともに中国全土を掌握する基盤が整いました。北伐の成功は軍事的勝利だけでなく、国民政府の統治正当性を高め、中央集権国家への道を開きました。しかし、国内の地方勢力との対立や共産党との緊張はその後も続くこととなりました。この出来事は中国近代史における重要な一頁として位置づけられています。
1928年 蔣介石 中国国民党 北伐 北京
1942年

第二次世界大戦: 日本の伊号第二十一潜水艦と伊号第二十四潜水艦がシドニー及びニューカッスルを砲撃(特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)。

日本海軍の伊号潜水艦二隻がシドニーとニューカッスルを砲撃した。
1942年6月8日、日本海軍の伊号第二十一潜水艦と伊号第二十四潜水艦がオーストラリア本土のシドニーとニューカッスル近郊の港湾施設を砲撃しました。これは日本軍によるオーストラリア本土への希少な攻撃の一つです。両潜水艦は潜航航行しつつ対艦砲を用いて目標を攻撃し、インフラに小規模な被害を与えました。住民に大きな混乱と恐怖をもたらし、戦意高揚の一環として報道されました。これによりオーストラリア側では沿岸防衛の強化や民間人への警戒体制が一段と進められることになりました。
1942年 第二次世界大戦 伊号第二十一潜水艦 伊号第二十四潜水艦 シドニー ニューカッスル 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃
1945年

第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

御前会議で本土決戦を中心とする戦争指導の基本大綱が採択された。
1945年6月8日、天皇臨席の下で開かれた御前会議において「今度採るべき戦争指導の基本大綱」が採択され、日本本土決戦方針が正式に決定されました。本土決戦は連合国の本土侵攻を想定し、徹底抗戦を貫くための最終的な防衛計画でした。この決定は戦局の疲弊が進む中で行われ、国民総動員や物資動員の強化が求められました。政府・軍部はこれを大義名分として国民に死力を尽くす覚悟を促し、民間人の犠牲も覚悟した政策へと舵を切りました。結果として都市部での戦闘や空襲の激化が予想され、日本の終戦時期や形態に大きな影響を与える事態を招きました。
1945年 御前会議 本土決戦
1967年

第三次中東戦争: イスラエル空軍機がアメリカの諜報艦「リバティー」を攻撃(リバティー号事件)。

第三次中東戦争中、イスラエル空軍機がアメリカ海軍の諜報艦リバティーを誤って攻撃した事件。
リバティー号(USS Liberty)は収集情報を担うアメリカ海軍の技術情報収集艦で、国際法上の中立水域に停泊していました。1967年6月8日、イスラエル空軍の偵察機と戦闘機が複数回にわたり機銃掃射と魚雷攻撃を行い、火災が発生しました。攻撃により34名の乗員が死亡、171名が負傷しました。イスラエルは攻撃を誤認によるものと説明し、後に公式に謝罪しました。アメリカ政府は詳細な調査を行い、事故と認定したものの、事件の経緯や意図をめぐる論争はいまだに続いています。国防上の情報収集行動と軍事行動の境界が問われた歴史的事件として知られています。
1967年 第三次中東戦争 イスラエル アメリカ リバティー リバティー号事件
1969年

南ベトナムに北ベトナム政府支配下の地下政府・南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立。

ベトナム戦争中、北ベトナム支配下の南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立された。
1969年6月8日、北ベトナムの後押しを受けた南ベトナム共和国臨時革命政府(PRG)が正式に発足しました。PRGはサイゴン政府に対抗する地下政府として、民族解放戦線(ベトコン)を政治的に統括しました。政府機関は主にカンボジア領内に設置され、国際的な承認を求めました。PRGの成立は和平交渉における共産勢力の正当性強化を目的とした戦略的な一手でした。1973年のパリ和平協定にも影響を与え、1975年の南北統一に至る過程の重要な転機となりました。
1969年 南ベトナム 北ベトナム 南ベトナム共和国臨時革命政府