大同元年5月18日
第51代天皇・平城天皇が即位。
806年6月8日、第51代天皇に平城天皇が即位し、大同の時代が幕を開けた。
806年6月8日(大同元年5月18日)、第51代天皇として平城天皇(在位:806〜809年)が即位しました。
平城天皇は前天皇・桓武天皇の政策を継承し、朝廷内の安定を図りました。
当時、藤原氏が政権運営に強い影響力を持ち、即位儀礼もその権威を示す重要な機会となりました。
即位に伴い一連の儀礼が行われ、中央集権体制の維持と国家統治の正統性が確認されました。
短い在位期間ながら、後の平安時代に続く政治的安定の基盤づくりに寄与したと評価されています。
806年
大同
5月18日
平城天皇
900年
イングランドの統治者アルフレッド大王の息子エドワードがアングロ・サクソン人の王就任を祝う戴冠式を開催した。
900年6月8日、アルフレッド大王の息子エドワードがアングロ・サクソン王として戴冠した。
900年6月8日、イングランド統治者アルフレッド大王の息子エドワードがアングロ・サクソン王として戴冠式を挙行しました。
この儀式は新たな王権の承認と正統性を内外に示すものでした。
当時、ヴァイキングの脅威が依然として存在し、国内の安定と防衛強化が急務とされました。
エドワード王は「エドワード長者」と称され、父の政策を継承しながら王国再建に尽力しました。
戴冠式はウェセックス朝の権威を高める転機となり、中世イングランド史に重要な足跡を残しました。
900年
アルフレッド大王
エドワード
アングロ・サクソン人の王
1794年
テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。
On June 8, 1794, revolutionary France celebrated the Festival of the Supreme Being at the Tuileries Palace, marking Robespierre’s vision of a civic religion during the French Revolution.
Organized by Maximilien Robespierre to supplant Catholicism with the worship of a secular 'Supreme Being,' the ceremony at the Tuileries Palace featured grand processions and symbolic altars. Citizens donned republican attire and participated in elaborate rituals intended to foster moral renewal and national unity. An artificial mountain crowned with statues of Liberty and Justice dominated the grounds. While designed to promote revolutionary ideals, the festival deepened political tensions and foreshadowed Robespierre’s downfall. This spectacular event remains a striking example of spectacle used for political propaganda.
1794年
テュイルリー宮殿
最高存在の祭典
1812年
第2代リヴァプール伯爵ロバート・バンクス・ジェンキンソンがイギリスの第22代首相に就任。
Robert Banks Jenkinson, 2nd Earl of Liverpool, assumed office as the 22nd Prime Minister of the United Kingdom, initiating a long period of stability.
On June 8, 1812, Robert Banks Jenkinson succeeded the assassinated Spencer Perceval, becoming Britain’s 22nd Prime Minister. Known as the 2nd Earl of Liverpool, he guided Britain through the final campaigns against Napoleon and steered the nation into post-war recovery. His government focused on economic stabilization, Catholic emancipation, and managing domestic unrest, including the Peterloo Massacre aftermath. Serving until 1827, Liverpool’s tenure was one of the longest in British history, solidifying parliamentary governance and influencing 19th-century policy.
1812年
リヴァプール伯爵
ロバート・バンクス・ジェンキンソン
イギリス
首相
1867年
オーストリア・ハンガリー帝国成立。
The Austro-Hungarian Empire was formally established on June 8, 1867, creating a dual monarchy under Emperor Franz Joseph I.
Following decades of nationalist unrest, the Austro-Hungarian Compromise (Ausgleich) reorganized the Habsburg realms into a dual monarchy on June 8, 1867. Emperor Franz Joseph I became both Emperor of Austria and King of Hungary, granting Hungary its own parliament and autonomy in domestic affairs. Joint ministries for foreign affairs, defense, and finance managed common interests, while other matters remained separate. This political structure sought to balance ethnic tensions across the empire. Lasting until World War I, the dual monarchy shaped Central European diplomacy, culture, and economic development, leaving a lasting architectural and social legacy.
1867年
オーストリア・ハンガリー帝国
1895年
日露通商航海条約調印
日本とロシア帝国が通商航海条約を調印した日です。両国間の経済交流と治外法権を巡る取り決めが行われました。
日露通商航海条約は日清戦争後の東アジア情勢を背景に締結されました。1895年6月8日、東京で日本とロシア帝国の代表が条約に調印し、互いの治外法権や関税率、航行権などを定めました。条約によりロシア商船の日本沿岸航行が許可される一方、日本人にはサンクトペテルブルク条約で認められた領事裁判権が適用されました。しかし領事裁判権の存続には批判もあり、後の外交交渉で再調整が図られることとなりました。本条約は列強間の勢力均衡にも影響し、地域の国際関係を複雑化させる一因となりました。
1895年
日露
1905年
日露戦争: ルーズベルト米大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかける。
米大統領セオドア・ルーズベルトが日露両国に講和会議を提案した日です。ポーツマス条約締結へのきっかけとなりました。
1905年6月8日、セオドア・ルーズベルト米大統領は日露戦争の長期化を受け、日本とロシアに講和会議開催を呼びかけました。米国の仲介により、両国はニューハンプシャー州ポーツマスで交渉を開始します。この提案は戦闘による消耗を回避し、東アジアの安定を図る狙いがありました。最終的にポーツマス条約として締結され、戦後の勢力均衡に大きく寄与しました。ルーズベルトはこの和平仲介によりノーベル平和賞を受賞しました。
1905年
日露戦争
ルーズベルト米大統領
1928年
蔣介石が率いる中国国民党の北伐軍が北京に入城。国民政府が中国全土をほぼ統一。
中国国民党の北伐軍が北京に入城し、国民政府がほぼ中国全土を統一した日です。中国近代化への大きな転換点となりました。
1928年6月8日、蔣介石率いる中国国民党の北伐軍は北京に入城し、北京政府を崩壊させました。これにより北洋軍閥支配が終焉し、国民政府が名実ともに中国全土を掌握する基盤が整いました。北伐の成功は軍事的勝利だけでなく、国民政府の統治正当性を高め、中央集権国家への道を開きました。しかし、国内の地方勢力との対立や共産党との緊張はその後も続くこととなりました。この出来事は中国近代史における重要な一頁として位置づけられています。
1928年
蔣介石
中国国民党
北伐
北京
1928年
田中義一首相が上野駅で暴漢から襲撃を受ける。居合わせた松村光三議員が負傷するも田中は無事。
田中義一首相が上野駅で襲撃を受けた日です。同行していた松村光三議員が負傷しました。
1928年6月8日、内務大臣経験者で当時の首相であった田中義一が上野駅構内で暴漢に襲われました。刃物を持った襲撃者は田中首相への不満を訴えたとされ、突然の事件に周囲は騒然となりました。近くにいた松村光三衆議院議員が間に入り抵抗したものの、松村議員は負傷し、田中首相は軽傷で切り抜けました。事件後、警察は襲撃者を現行犯逮捕し、社会に衝撃を与えました。この襲撃は当時の政治的緊張を象徴する出来事とされています。
田中義一
上野駅
松村光三
1929年
バチカンの国旗が制定される。
バチカン市国の国旗が正式に制定された日です。教皇庁の象徴となるデザインが採用されました。
1929年6月8日、ラテラノ条約締結後のバチカン市国において、教皇庁の公式な国旗が制定されました。旗は黄色と白の縦二分割を基調とし、教皇の鍵と三重冠が中央に配されたデザインです。このシンボルは教皇権と聖職者の権威を表し、全世界のカトリック教会において用いられています。旗の制定はバチカン市国の主権国家としての独立性を視覚的に示す役割も果たしました。以来、バチカンの国旗は宗教的・外交的儀礼において欠かせない存在となっています。
1929年
バチカンの国旗
1934年
南京総領事館勤務の蔵本書記生が失踪。中国人による拉致・殺害を疑い国民政府に対して抗議を行ったのみならず、軍艦が揚子江から南京近くまで遡上する事態に発展する(蔵本書記生失踪事件)。なお蔵本本人は5日後に保護された。
南京総領事館の蔵本書記生が失踪し、中国国民政府への抗議が軍艦派遣事態にまで発展した日です。その後本人は無事保護されました。
1934年6月8日、在南京日本総領事館の書記生であった蔵本義郎が突如失踪し、中国人による拉致・殺害の疑いが浮上しました。日本政府は直ちに国民政府に抗議文を提出し、事態は外交問題へと拡大しました。緊迫した雰囲気の中、日本海軍の揚子江沿いへの軍艦派遣が検討され、南京近郊まで遡上する事態となりました。しかし、失踪から5日後に蔵本は無事保護され、誤解によるものであったことが判明しました。本事件は日中関係の微妙さを象徴するエピソードとして記憶されています。
1934年
南京
総領事館
中国人
国民政府
軍艦
揚子江
蔵本書記生失踪事件
1945年
第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。
御前会議で本土決戦を中心とする戦争指導の基本大綱が採択された。
1945年6月8日、天皇臨席の下で開かれた御前会議において「今度採るべき戦争指導の基本大綱」が採択され、日本本土決戦方針が正式に決定されました。本土決戦は連合国の本土侵攻を想定し、徹底抗戦を貫くための最終的な防衛計画でした。この決定は戦局の疲弊が進む中で行われ、国民総動員や物資動員の強化が求められました。政府・軍部はこれを大義名分として国民に死力を尽くす覚悟を促し、民間人の犠牲も覚悟した政策へと舵を切りました。結果として都市部での戦闘や空襲の激化が予想され、日本の終戦時期や形態に大きな影響を与える事態を招きました。
1945年
御前会議
本土決戦