明治元年閏4月17日

明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)

明治政府が浦上で発見された隠れキリシタンを流罪とした浦上四番崩れ。
1868年(明治元年閏4月17日)、長崎・浦上に隠れていたキリシタン(一部で浦上天主堂で信仰を継続していた人々)が発見され、明治政府はこれを弾圧して全国各地に流罪としました。この事件は浦上四番崩れとも呼ばれ、約3,400名が津和野などへ送られました。キリスト教禁令の下でひそかに信仰を守ってきた人々に対する政府の強硬措置は当時大きな衝撃を与えました。流罪先では厳しい労働や厳寒に苦しむ者も多く、信徒の生活は困窮しました。1873年の禁教令廃止まで信仰は禁止され続け、長い迫害の歴史を象徴する事件です。
1868年 明治 4月17日 浦上四番崩れ
1919年

セッテ・ジューニョの暴動: マルタで、パンの公定価格の値上げに端を発し、イギリス支配に反対する住民の暴動が起こる。英軍が住民に発砲し、4人が死亡。

マルタでパン価格の高騰に端を発したセッテ・ジューニョの暴動が発生。
1919年6月7日、地中海の島国マルタでパンの公定価格引き上げに抗議するセッテ・ジューニョ(Sette Giugno)の暴動が勃発しました。第一次世界大戦後の食糧不足と価格高騰に対し、民衆は首都バレッタで抗議行動を展開し、英軍が発砲して4人が死亡、数十人が負傷しました。事件はマルタ人の反英感情を一層高め、自治拡大運動を加速させました。1935年には国民の勇気と犠牲を称える記念碑が建立され、国家的な祝日としてセッテ・ジューニョが定められています。マルタの近代史における重要な転換点として記憶されています。
1919年 セッテ・ジューニョの暴動 英語版 マルタ 暴動
1939年

満蒙開拓青少年義勇軍壮行会が明治神宮外苑競技場にて開催。

満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会が明治神宮外苑競技場で行われ、数千名の少年らが満州開拓へと旅立ちました。
1939年6月7日、政府主導で組織された満蒙開拓青少年義勇軍の壮行式が明治神宮外苑競技場で開催されました。 参加した約3,000名の青少年は満州への入植・農業指導を使命とし、国家的事業の一環として送り出されました。 式典では軍服に身を包んだ若者たちが行進し、政府高官や軍部関係者が激励の言葉を贈りました。 彼らは列車で満州に向かい、過酷な環境下での開拓生活が待ち受けていました。 この運動は当時の国策移民政策の象徴であり、後の歴史からはその悲劇的側面も指摘されています。
1939年 満蒙開拓青少年義勇軍 明治神宮外苑競技場
1955年

東京で第1回日本母親大会が開かれる。

初の全国規模の母親大会が開催され、戦後の子育て支援や女性の社会参加を議論する契機となりました。
1955年6月7日、東京で第1回日本母親大会が開催されました。 戦後復興期における女性の役割や子育て環境の整備をテーマに、全国から母親たちが集まりました。 健康、教育、福祉など幅広い社会課題を協議し、地域間連携や社会運動としての母親の役割を明確化しました。 この大会は子どもの権利向上や家庭教育の重要性を社会に訴える先駆けとなりました。 以降、日本母親大会は定期的に開催され、母親の視点による社会課題への提言活動を続けています。
1983年

東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件。

東鉄工業の作業員宿舎で放火事件が発生し、複数の死傷者が出た社会に衝撃を与える事件となった。
1983年6月7日、日本の東鉄工業が所有する作業員宿舎で放火殺人事件が発生した。 深夜に発生した火災は瞬く間に建物を襲い、複数の作業員が巻き込まれた。 現地の消防や警察が出動し、消火と被害状況の調査が行われた。 動機や犯人像は不明で、捜査当局による捜査が続けられた。 社会の安全意識に疑問を投げかける事件として、当時大きな注目を集めた。
1983年 東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件