延長元年閏4月20日
903年に大宰府で亡くなった菅原道真を右大臣に復し正二位を贈る。
菅原道真が没後に右大臣に復位され、正二位を追贈された。
923年閏4月20日(延長元年)、大宰府で没した学者・政治家の菅原道真が右大臣に復され、正二位を贈られました。
道真は政争により太宰権帥に左遷されましたが、没後に朝廷から名誉回復が図られたものです。
この復位は政治的混乱の中で政権の安定化を図る意図があったとされています。
道真はのちに学問の神として祀られ、天満宮信仰の契機となりました。
現在でも学業成就を願う人々から篤い信仰を集めています。
923年
延長
閏4月20日
大宰府
菅原道真
右大臣
正二位
1494年
スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
新大陸におけるスペインとポルトガルの勢力範囲を定めた条約が成立。
1494年6月7日、イタリアのトルデシリャスでスペインとポルトガルがトルデシリャス条約に調印しました。
この条約は西経46度線を基準に領土分割を定め、新大陸の植民地権を両国間で分割しました。
条約により現在のブラジル東部はポルトガル領とされ、それ以外はスペイン領に分類されました。
この境界線設定はその後の植民地支配や文化的影響、言語分布に大きな役割を果たします。
国際法や領土交渉の先駆けとして、歴史的にも重要な外交文書です。
1494年
スペイン
ポルトガル
トルデシリャス条約
新大陸
1520年
フランスのカレー近郊でヘンリー8世とフランソワ1世との会見である金襴の陣が始まる。
英仏両王が「金襴の陣」で会見し、親善を深めた。
1520年6月7日、フランス北部のカレー近郊でヘンリー8世とフランソワ1世が金襴の陣で会見を開始しました。
数週間にわたり豪華な饗宴や馬上試合が催され、両王は互いの権威と富を誇示しました。
テントや衣装には文字通り金襴が用いられ、その華やかさは後世にも語り継がれています。
本会見は英仏間の同盟強化と勢力均衡を目的に開催された外交儀式でした。
中世ヨーロッパの宮廷文化と外交礼儀を象徴する重要な出来事です。
1520年
フランス
ヘンリー8世
フランソワ1世
金襴の陣
1628年
イングランド王チャールズ1世が権利の請願受託の署名を行う。
チャールズ1世が『権利の請願』に署名し、王権を制限する契約を承認した。
1628年6月7日、イングランド王チャールズ1世は議会提出の『権利の請願』(Petition of Right)に署名しました。
この請願は課税権の乱用や恣意的投獄、徴兵など国王の権力を制限する内容を規定しています。
議会と王権の対立が深まる中で成立し、後の権利章典や立憲政治への足掛かりとなりました。
権力の分立や法の支配を考える上で重要な前例とされています。
イギリス憲政史における転換点の一つとして評価されます。
1628年
チャールズ1世
権利の請願
1654年
フランス王ルイ14世が戴冠。
ルイ14世がフランス王として正式に戴冠式を行った。
1654年6月7日、サン=ドニ大聖堂においてルイ14世の戴冠式が執り行われました。
幼少で即位し摂政政治を経た後、成年に達して正式に王権を掌握した儀式です。
戴冠式では華麗な王冠と絢爛な衣装が用いられ、その権威が内外に示されました。
『太陽王』として知られるルイ14世の統治の始まりを象徴する重要なイベントです。
フランス絶対王政の確立と王権神授説の象徴として歴史に刻まれました。
1654年
ルイ14世
1776年
リチャード・ヘンリー・リーが、アメリカ独立を求めるリー決議を大陸会議に提出。
リチャード・ヘンリー・リーが大陸会議においてアメリカ独立を正式に提案した歴史的な瞬間。
1776年6月7日、バージニア代表のリチャード・ヘンリー・リーが大陸会議においてイギリスからの独立を求める決議を提出しました。リー決議は「これらの植民地は独立した自由かつ主権国家として振る舞うべきである」と宣言する内容で、後のアメリカ独立宣言策定の礎となりました。この提案により独立の具体的な議論が開始され、宣言起草委員会の設置へとつながりました。独立宣言は同年7月4日に採択され、アメリカ合衆国誕生の歴史的瞬間を迎えます。リー決議はアメリカ史上最初の独立宣言的文書とされ、その意義は今日も高く評価されています。
1776年
リチャード・ヘンリー・リー
リー決議
大陸会議
明治元年閏4月17日
明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
明治政府が浦上で発見された隠れキリシタンを流罪とした浦上四番崩れ。
1868年(明治元年閏4月17日)、長崎・浦上に隠れていたキリシタン(一部で浦上天主堂で信仰を継続していた人々)が発見され、明治政府はこれを弾圧して全国各地に流罪としました。この事件は浦上四番崩れとも呼ばれ、約3,400名が津和野などへ送られました。キリスト教禁令の下でひそかに信仰を守ってきた人々に対する政府の強硬措置は当時大きな衝撃を与えました。流罪先では厳しい労働や厳寒に苦しむ者も多く、信徒の生活は困窮しました。1873年の禁教令廃止まで信仰は禁止され続け、長い迫害の歴史を象徴する事件です。
1868年
明治
4月17日
浦上四番崩れ
1905年
ノルウェー議会でスウェーデン=ノルウェー連合王国の解散を可決。
ノルウェー議会が連合王国スウェーデン=ノルウェーの解消を可決し、独立への道を開く。
1905年6月7日、オスロのノルウェー議会(ストルティング)はスウェーデン=ノルウェー連合王国の解散を可決しました。この決議は1814年以来続いた両国の個人連合を終わらせるもので、ノルウェー独立への大きな一歩となりました。決議後、スウェーデン皇室はノルウェー王位継承を承認し、その年の秋には正式に連合が解消されました。ノルウェーは国民投票でも圧倒的多数で独立支持を示し、平和的な手続きで国家分離を実現しました。以後、両国は友好関係を保ちながら新たな外交関係を築くこととなりました。
1905年
ノルウェー
スウェーデン=ノルウェー
1919年
セッテ・ジューニョの暴動: マルタで、パンの公定価格の値上げに端を発し、イギリス支配に反対する住民の暴動が起こる。英軍が住民に発砲し、4人が死亡。
マルタでパン価格の高騰に端を発したセッテ・ジューニョの暴動が発生。
1919年6月7日、地中海の島国マルタでパンの公定価格引き上げに抗議するセッテ・ジューニョ(Sette Giugno)の暴動が勃発しました。第一次世界大戦後の食糧不足と価格高騰に対し、民衆は首都バレッタで抗議行動を展開し、英軍が発砲して4人が死亡、数十人が負傷しました。事件はマルタ人の反英感情を一層高め、自治拡大運動を加速させました。1935年には国民の勇気と犠牲を称える記念碑が建立され、国家的な祝日としてセッテ・ジューニョが定められています。マルタの近代史における重要な転換点として記憶されています。
1919年
セッテ・ジューニョの暴動
英語版
マルタ
暴動
1921年
小協商: ルーマニア・ユーゴスラビア相互援助条約が締結される。
ルーマニア・ユーゴスラビア相互援助条約、小協商の一環として締結される。
1921年6月7日、ルーマニアとユーゴスラビアが相互援助条約を締結し、小協商(Little Entente)の結束を強化しました。小協商はチェコスロバキアを含む3国がハンガリーの領土変更を阻止するために結成した軍事・外交同盟です。この条約により、侵略に対する集団的自衛が明文化され、中央ヨーロッパの安全保障に寄与しました。両国は協力関係を通じて地域の安定と独立維持を目指し、国際社会での発言力を高めました。小協商は1938年まで存続し、その後の欧州情勢に大きな影響を与えました。
1921年
小協商
1924年
第二次護憲運動により清浦奎吾内閣が総辞職。
政党勢力が憲政擁護を掲げて結集した「第二次護憲運動」の圧力により、清浦奎吾内閣が総辞職を余儀なくされました。
1924年6月7日、政党内閣復帰を訴える護憲三派が結成した「第二次護憲運動」が勢いを増し、清浦奎吾内閣に対する厳しい批判とデモが相次ぎました。
陸軍や憲政擁護会なども運動を支持し、政局は混乱を極めました。
清浦内閣は政党外から選出された初の内閣で、政党政治との摩擦が根底にあったと言われています。
この政治的圧力の高まりを受け、清浦内閣はわずか半年あまりで総辞職を決断。
日本は再び政党勢力が主体となる政党内閣の時代へと回帰することになりました。
1924年
第二次護憲運動
清浦奎吾内閣
1935年
スタンリー・ボールドウィンがイギリスの第59代首相に就任し、挙国一致の第3次ボールドウィン内閣が発足。
保守党のスタンリー・ボールドウィンが英国第59代首相に就任し、挙国一致政権として第3次ボールドウィン内閣を組織しました。
1935年6月7日、前首相ラムゼイ・マクドナルドの退陣を受け、スタンリー・ボールドウィンが保守党党首として首相に任命されました。
彼は国王ジョージ5世より信任を受け、各党から閣僚を招く形で挙国一致内閣を構成。
その目的は深刻化する国際情勢への対応と社会保障の強化にありました。
ボールドウィンは再軍備や大恐慌対策に注力し、ヨーロッパ情勢の緊張が高まる中で政権を安定させました。
これがボールドウィンにとって3度目の首相就任であり、長期政権の維持を図りました。
1935年
スタンリー・ボールドウィン
挙国一致
第3次ボールドウィン内閣
英語版