1832年

パリの六月暴動が鎮圧。小説家ヴィクトル・ユゴーはこの時パリに住んでおり、小説「レ・ミゼラブル」を書くきっかけになった。

パリ六月暴動が鎮圧され、その光景がヴィクトル・ユゴーに小説『レ・ミゼラブル』執筆の着想を与えました。
1832年6月5日、パリでフランス7月王政に反対する共和主義者らが蜂起し、六月暴動が始まりました。翌6月6日には政府軍が迅速に鎮圧作戦を実施し、多数の死傷者を出しながらも暴動は終息します。文学青年ヴィクトル・ユゴーは当時パリに滞在しており、この市街戦の光景に深い衝撃を受けました。後年、彼はこれらの出来事をもとに長編小説『レ・ミゼラブル』を執筆し、作品中のバリケード戦闘場面に見るリアリズムと人間ドラマは世界的に高く評価されています。六月暴動はフランス近代史と文学史を結びつける象徴的な事件です。
1832年 六月暴動 ヴィクトル・ユゴー レ・ミゼラブル
1844年

ジョージ・ウィリアムズが、英国ロンドンでキリスト教青年会(YMCA)を創立。

ジョージ・ウィリアムズがロンドンで青年向けの社交・教育団体であるYMCAを創立しました。
青年の健全な成長を目的とし、スポーツや教育プログラムを提供するYMCAは、後に世界中に広がる大規模な社会運動となりました。創立者のジョージ・ウィリアムズは、産業革命期のロンドンで働く若者の道徳的支援を図るためにこの組織を設立しました。YMCAはキリスト教の価値観を基盤としつつも宗教色を排し、誰でも参加できる活動を展開しました。1878年には米国に渡り、国際的なネットワークが形成されました。スポーツ施設や宿泊施設の運営、青少年教育プログラムなど多岐にわたる活動を通じて、今日まで社会貢献を続けています。
1844年 ジョージ・ウィリアムズ ロンドン キリスト教青年会
1933年

アメリカニュージャージー州カムデンで世界初のドライブインシアターが開業。

1933年6月6日、アメリカ・ニュージャージー州カムデンに世界初のドライブインシアターが誕生。自動車に乗ったまま映画を楽しむ革新的な娯楽が話題に。
世界初のドライブインシアターは創始者リチャード・ホリングスヘッドによりカムデンに開設されました。 屋外に設置された大スクリーンと各車両に取り付けられるスピーカーが特徴で、家族連れや恋人たちの新たな憩いの場となりました。 大恐慌下でも安価でプライバシーを保てる娯楽として人気を博し、その後のアメリカのカー・カルチャー形成に大きな影響を与えました。 第二次世界大戦後も全米各地に広がり、現在でもレトロなスタイルとして復刻版が楽しまれています。
1933年 ニュージャージー州 カムデン ドライブインシアター
1952年

中央教育審議会設置。

中央教育審議会が設置され、日本の教育政策を審議する機関が発足しました。
1952年6月6日、文部省(当時)下に中央教育審議会が設置されました。 この審議会は学校教育や社会教育に関する基本方針や制度改革案を審議し、政府へ答申を行う役割を担いました。 戦後教育改革の一環として、教育制度の見直しや校則の策定などを議論する場となりました。 委員には学識経験者や教員、財界・労働界の代表など多様なメンバーが選出され、幅広い視点をもたらしました。 その後も審議会は教育基本法や学校教育法の改定などに影響を与え続けています。
1952年 中央教育審議会
1966年

公民権運動家ジェームズ・メレディスが狙撃され負傷。

公民権運動家ジェームズ・メレディスが狙撃され負傷し、米国の人種差別撤廃運動に新たな困難が生じました。
1966年6月6日、公民権運動家ジェームズ・メレディスがミシシッピ州ジャクソンで自宅近くを車で通行中に狙撃され負傷しました。 メレディスは1962年にミシシッピ大学の初の黒人学生として入学し、公民権運動の象徴的存在となっていました。 この襲撃は人種差別撤廃を目指す活動家への暴力的な反発を示し、全米に衝撃を与えました。 負傷は軽傷でしたが、彼の活動は一時中断を余儀なくされました。 メレディスは回復後も闘志を持って運動を継続し、南部の人種不平等解消に尽力しました。
1966年 公民権運動 ジェームズ・メレディス
1985年

川崎市で、交通事故で大けがをした小学生が、エホバの証人信徒の両親が信仰上の理由で輸血を拒否したため、出血多量で死亡。

川崎市で交通事故負傷の小学生が、信仰上の理由で輸血を拒否されたため出血多量で死亡した。
1985年6月6日、川崎市で交通事故に遭い重傷を負った小学生が、両親がエホバの証人の信仰に基づき輸血を拒否したため適切な治療を受けられず出血多量で死亡した。事件は宗教的信条と医療行為の対立を社会に提示し、児童の権利保護や医療ガイドラインの整備が課題となった。以後、信仰による医療拒否を巡る法的・倫理的議論が活発化し、裁判や行政判断を経て対応が検討された。
1985年 川崎市 エホバの証人 輸血を拒否