承久3年5月15日

承久の乱: 後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時追討の院宣を発する。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時追討を命じた院宣を発布し、承久の乱が勃発しました。
承久の乱は、鎌倉幕府と朝廷の権力争いから発生した内乱です。1221年5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発し、討幕を図りました。幕府はこれを武力で制圧し、朝廷の権威は大きく後退しました。以降、武家政権の支配体制が強固となり、朝廷の政治的影響力は著しく失われました。この出来事は日本の武家政権確立と中央集権化の進展における重要な転機となりました。
1221年 承久 5月15日 承久の乱 後鳥羽上皇 鎌倉幕府 北条義時 院宣
1505年

ロームスタン地震、チベットとネパールに影響を及ぼし、カトマンズとインド・ガンジス平原の一部に深刻な被害をもたらした。

チベットとネパールを襲った大地震で、カトマンズやガンジス平原に深刻な被害をもたらしました。
1505年6月6日に発生したロームスタン地震は、チベットからネパールにかけて大きな揺れを引き起こしました。震源は深部にあり、広範囲に影響したとされています。特にカトマンズでは多くの建造物が倒壊し、死傷者が多数出ました。インド北部のガンジス平原でも被害が報告され、農村部を中心に生活基盤が破壊されました。この地震は現地史料に残る大規模災害として知られています。
1505年 ロームスタン地震
1513年

イタリア戦争(カンブレー同盟戦争): ノヴァーラの戦い

イタリア戦争中、フランス軍とスイス傭兵が激突したノヴァーラの戦いが行われました。
1513年6月6日、イタリア戦争(カンブレー同盟戦争)においてノヴァーラの戦いが勃発しました。フランス軍はミラノ支配を巡りスイス傭兵と衝突しました。スイス軍は地形を生かした堅固な防御でフランス軍を退け、多くの捕虜を獲得しました。この戦いによりフランスの北イタリアへの影響力は大きく後退しました。また、イタリア戦争全体の戦局にも重要な転機をもたらしました。
1513年 イタリア戦争 カンブレー同盟戦争 ノヴァーラの戦い
1523年

スウェーデンが同君連合カルマル同盟からの離脱・独立を宣言、グスタフ1世が国王に選出される。

スウェーデンがカルマル同盟から離脱し、独立を宣言しました。グスタフ1世が新国王に選出される転機。
1523年6月6日、スウェーデンは同君連合であったカルマル同盟からの離脱を公式に宣言しました。これにより約百年続いた北欧統合は終焉を迎えました。新国王にはヴァーサ家出身のグスタフが選出され、後のグスタフ1世として戴冠しました。彼の治世は中央集権化やプロテスタント宗教改革推進などを特徴とし、近代スウェーデンの基礎を築きました。北欧史における重要な独立の瞬間として知られています。
1523年 スウェーデン カルマル同盟 グスタフ1世
1654年

スウェーデン女王クリスティーナが従兄のカール10世に譲位。

スウェーデン女王クリスティーナが王位を退き、従兄のカール10世に譲位しました。
1654年6月6日、スウェーデン女王クリスティーナは自らの意志で王位を退き、従兄のカール・グスタフ公をカール10世として即位させました。クリスティーナは若くして即位した後、学芸を愛し絵画や哲学に深い造詣を持って知られましたが、宗教的・政治的確執から退位を決意しました。退位後はプロテスタントからカトリックに改宗し、ローマ宮廷で華やかな生活を送りました。この出来事はヨーロッパの君主制と宗教改革の複雑な絡み合いを象徴しています。
1654年 クリスティーナ カール10世
1674年

シヴァージーがマラーター王国を建国し、戴冠。

シヴァージーがインド西部にマラーター王国を建国し、戴冠しました。
1674年6月6日、シヴァージーはインド西部においてマラーター王国を正式に建国し、自らチャトラパティ(王権の保持者)の称号で戴冠式を行いました。彼はイスラム王朝のムガル帝国に対抗し、デカン高原を拠点に独自の統治体制を確立しました。軍事・行政に優れた指導力を発揮し、後のマラーター帝国の礎を築きました。シヴァージーの治世はヒンドゥー教徒による自立と地域文化の復興を象徴しています。
1674年 シヴァージー マラーター王国
1683年

オックスフォード大学のアシュモレアン博物館が開館。世界初の大学博物館。

オックスフォード大学に世界初の大学博物館、アシュモレアン博物館が開館しました。
1683年6月6日、イギリスのオックスフォード大学に設立されたアシュモレアン博物館が一般公開され、世界初の大学博物館となりました。創設者は収集家かつ学者のエリアス・アシュモールで、古代遺物や美術品を寄贈しました。博物館は教育研究の場として位置づけられ、学問と収集活動の結びつきを象徴する施設として注目を集めました。その後、博物館は考古学や人類学、化学コレクションなど多岐にわたる展示を拡充し続け、学術的交流の拠点となりました。
1683年 オックスフォード大学 アシュモレアン博物館
1808年

ナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ・ボナパルトがホセ1世としてスペイン王に即位。

ナポレオンの異母兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世に即位しました。
1808年6月6日、ナポレオン・ボナパルトは兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として擁立し、即位させました。これはバイヨンヌの密約で実施された王位継承で、スペイン王国はナポレオン家の支配下に置かれました。スペイン国内では国民の強い抵抗とゲリラ戦が激化し、後の半島戦争(スペイン戦役)の火ぶたが切られました。ホセ1世の統治は広範な反仏同盟と国民運動によって困難を極め、ナポレオン戦争に大きな影響を及ぼしました。
1808年 ナポレオン・ボナパルト ジョゼフ・ボナパルト スペイン
1813年

米英戦争: ストーニー・クリークの戦い

米英戦争中、カナダ近郊でアメリカ軍とイギリス軍が衝突したストーニー・クリークの戦いが発生しました。
1813年6月6日、米英戦争においてカナダのオンタリオ州ストーニー・クリークで両軍が衝突しました。アメリカ軍はイギリス領カナダへの侵攻を試み、一時的に優位に立ちました。しかし、イギリス軍はハーヴェイ大佐らの指揮のもと夜襲を敢行し、アメリカ軍に大混乱をもたらしました。激戦の末、アメリカ軍は撤退を余儀なくされ、イギリス軍が戦術的勝利を収めました。この勝利はカナダ北部戦線における重要な転換点となり、英国陸軍の士気を大いに高めました。
1813年 米英戦争 ストーニー・クリークの戦い
1832年

パリの六月暴動が鎮圧。小説家ヴィクトル・ユゴーはこの時パリに住んでおり、小説「レ・ミゼラブル」を書くきっかけになった。

パリ六月暴動が鎮圧され、その光景がヴィクトル・ユゴーに小説『レ・ミゼラブル』執筆の着想を与えました。
1832年6月5日、パリでフランス7月王政に反対する共和主義者らが蜂起し、六月暴動が始まりました。翌6月6日には政府軍が迅速に鎮圧作戦を実施し、多数の死傷者を出しながらも暴動は終息します。文学青年ヴィクトル・ユゴーは当時パリに滞在しており、この市街戦の光景に深い衝撃を受けました。後年、彼はこれらの出来事をもとに長編小説『レ・ミゼラブル』を執筆し、作品中のバリケード戦闘場面に見るリアリズムと人間ドラマは世界的に高く評価されています。六月暴動はフランス近代史と文学史を結びつける象徴的な事件です。
1832年 六月暴動 ヴィクトル・ユゴー レ・ミゼラブル
1844年

ジョージ・ウィリアムズが、英国ロンドンでキリスト教青年会(YMCA)を創立。

ジョージ・ウィリアムズがロンドンで青年向けの社交・教育団体であるYMCAを創立しました。
青年の健全な成長を目的とし、スポーツや教育プログラムを提供するYMCAは、後に世界中に広がる大規模な社会運動となりました。創立者のジョージ・ウィリアムズは、産業革命期のロンドンで働く若者の道徳的支援を図るためにこの組織を設立しました。YMCAはキリスト教の価値観を基盤としつつも宗教色を排し、誰でも参加できる活動を展開しました。1878年には米国に渡り、国際的なネットワークが形成されました。スポーツ施設や宿泊施設の運営、青少年教育プログラムなど多岐にわたる活動を通じて、今日まで社会貢献を続けています。
1844年 ジョージ・ウィリアムズ ロンドン キリスト教青年会
1859年

オーストラリアで、ニューサウスウェールズから分割してクイーンズランド植民地を設置。

オーストラリアのニューサウスウェールズ植民地からクイーンズランド植民地が分割・設置されました。
広大なオーストラリア大陸の北東部に位置する地域を管轄するため、1859年にニューサウスウェールズから分離してクイーンズランド植民地が設立されました。これにより現代のクイーンズランド州の基礎が形成され、白人入植者の自治権強化や経済発展が促進されました。当時は牧畜業や金鉱開発が盛んで、植民地設立後は移民やインフラ整備が急速に進みました。ブリスベンが行政の中心地となり、都市化が始まりました。この動きはオーストラリア連邦成立への一歩とも評価されています。
1859年 オーストラリア ニューサウスウェールズ クイーンズランド植民地