1189年

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世率いる十字軍がハンガリー・エステルゴムに着陣した。エステルゴムではハンガリー王ベーラ3世の盛大な出迎えを受けた。

十字軍遠征中のフリードリヒ1世がハンガリー王ベーラ3世の歓迎を受けてエステルゴムに着陣しました。
第三回十字軍を率いた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は1189年6月4日、ハンガリー王国の首都エステルゴムに到着しました。皇帝軍は安全な通行を求め、ハンガリー王ベーラ3世と友好協定を結びます。盛大な歓迎を受けたことで両国の外交関係が深まり、十字軍の補給線確保にも寄与しました。エステルゴムでの協議は遠征継続の鍵となり、以後の行軍ルートに大きな影響を与えました。
1189年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世 ハンガリー エステルゴム ベーラ3世
元和元年5月8日

大坂夏の陣: 徳川家康が豊臣秀頼と淀殿を切腹に追い込み、豊臣氏が滅亡。

大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川幕府による天下統一が確立されました。
1615年6月4日、徳川家康率いる幕府軍が大坂城に攻め込み、豊臣方との最後の戦いを制しました。豊臣秀頼と淀殿は自害を余儀なくされ、豊臣氏は歴史から消滅します。この戦役の勝利により国内の反抗勢力は根絶され、江戸幕府の支配体制が揺るぎないものとなりました。以後約260年間にわたり続く平和な江戸時代の礎を築く転換点となりました。
1615年 元和 5月8日 大坂夏の陣 徳川家康 豊臣秀頼 淀殿 豊臣氏
1745年

オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い

オーストリア継承戦争中のホーエンフリートベルクの戦いが行われました。
1745年6月4日、プロイセン王フリードリヒ大王率いる軍がホーエンフリートベルクでオーストリア軍を撃破しました。迅速な包囲戦術と砲兵の集中運用が功を奏し、短時間で決着がつきました。この勝利によりプロイセンはシレジア支配を確固たるものとし、列強の一角としての地位を強化しました。戦いはオーストリア継承戦争の転機となり、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えました。
1745年 オーストリア継承戦争 ホーエンフリートベルクの戦い
1830年

南米独立革命の志士アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍がコロンビアで暗殺される。

南米独立の英雄アントニオ・ホセ・デ・スクレが暗殺されました。
1830年6月4日、シモン・ボリバルの信頼厚い将軍アントニオ・ホセ・デ・スクレがコロンビア・ボヤカ県で襲撃を受け、暗殺されました。スクレはエクアドルやボリビアの独立に貢献し、“解放者”と讃えられた人物です。彼の死は南米の若い共和国に衝撃を与え、その後の政治的不安定化を象徴しました。スクレの功績は今日も多くの国で敬意を払われ続けています。
1830年 アントニオ・ホセ・デ・スクレ コロンビア 暗殺
1859年

第二次イタリア独立戦争: マジェンタの戦い。

イタリア統一戦争においてマジェンタ付近で行われた重要な会戦。
1859年6月4日、第二次イタリア独立戦争中のマジェンタの戦いが行われました。フランス軍とサルデーニャ王国連合軍がオーストリア帝国軍を攻撃し大勝利を収めました。この勝利によりミラノ奪還への道が開かれ、イタリア統一運動が大きく進展します。オルメッツァ条約締結への布石となり、後のイタリア統一に決定的な影響を与えました。戦術の面では火力支援と機動戦の組み合わせが高く評価されました。
1859年 第二次イタリア独立戦争 マジェンタの戦い
1920年

第一次世界大戦: ハンガリーが連合国とトリアノン条約を結び講和する。

第一次世界大戦後、ハンガリーが連合国とトリアノン条約を結び講和。
1920年6月4日、第一次世界大戦に敗れたハンガリー王国が連合国との間でトリアノン条約に調印し、正式に講和しました。条約によりハンガリーは領土を大幅に削減され、人口と資源を失う結果となります。国土のほとんどが新国家や他国へ割譲され、社会的・経済的混乱を招きました。国内では条約への反発が強まり、後の政治的不安定要因となります。トリアノン条約は中欧の地政学を大きく変えた歴史的な転換点として知られています。
1920年 第一次世界大戦 ハンガリー トリアノン条約
1928年

満州にて関東軍の河本大作が軍閥の張作霖を爆殺。(張作霖爆殺事件)

満州で関東軍軍人が張作霖を爆殺し、中国東北部情勢を混乱させた事件。
1928年6月4日、関東軍の河本大作中佐らが、満州の奉天郊外で軍閥張作霖を乗せた列車を爆殺しました。張作霖爆殺事件は日本軍の蓄意による暗殺事件とされ、中国における日本の影響力を拡大する一環と見なされます。この事件により奉天軍閥は混乱に陥り、中国東北部全体の勢力図が大きく変動しました。国際的には日本の軍事介入が非難され、後の満州事変への伏線ともなりました。歴史的には軍部主導の対外強硬政策の象徴的事件として位置づけられています。
1928年 満州 関東軍 河本大作 張作霖 張作霖爆殺事件
1937年

普天堡の戦い。

日中戦争中の中国山東省で行われた砲撃戦。
1937年6月4日、日中戦争の一環として中国山東省普天堡で日中両軍が衝突し激戦となりました。日本軍は山岳地帯の要衝を確保するため攻撃を仕掛け、中国軍はこれを必死に防衛しました。戦闘は激しい砲撃戦となり、多数の死傷者を出しました。普天堡は重要軍事拠点とされ、制圧は山東作戦全体の鍵となりました。結果的に日本軍はこれを占領したものの、反撃に晒され戦線は膠着状態となりました。
普天堡の戦い
1940年

第二次世界大戦: ダンケルクの戦いが終結。

ダンケルクの戦いはフランス北部で行われた大規模な英仏連合軍とドイツ軍の衝突です。 連合軍は海岸からの大撤退を成功させ、戦況を大きく左右しました。
1940年5月下旬から6月初頭にかけて行われたダンケルクの戦いは、フランス北部で英仏連合軍とドイツ軍が激突した大規模戦闘です。 英仏連合軍はベルギーから撤退し、ダンケルクに集結したものの、ドイツ軍の包囲攻撃により絶体絶命の危機に直面しました。 イギリス海軍は“ダイナモ作戦”を発動し、民間船舶を含む多数の船舶で兵士の海上撤退を実施しました。 結果として約33万人の兵士が無事撤退に成功し、連合国側の士気を大きく高める戦果を挙げました。 この撤退は戦況の転機となり、後の反攻作戦への足がかりとなりました。 史上有数の大規模撤退作戦として、長く語り継がれています。
1940年 第二次世界大戦 ダンケルクの戦い
1942年

第二次世界大戦: ミッドウェー海戦が始まる。(日本時間では6月5日)

太平洋戦争の転機となった海戦で、米日双方が激突しました。 日本時間では6月5日に始まりました。
1942年6月4日(現地時間)に始まったミッドウェー海戦は、米海軍が日本海軍の暗号を解読して迎え撃った初の大規模な海戦です。 日本機動部隊は真珠湾攻撃後の南方攻略を継続せんとしましたが、米軍の奇襲を受けて空母4隻を損失しました。 米軍は損害を最小限に留め、主力艦隊を温存して太平洋の制海権を奪回しました。 この敗北により日本海軍の攻勢能力は大きく低下し、戦局の転換点となりました。 戦略的にも心理的にも日本側に大打撃を与え、連合国の反攻を後押ししました。
1942年 ミッドウェー海戦 6月5日
1944年

第二次世界大戦: 連合国軍がローマに入城。初めて枢軸国の首都が陥落。

連合国軍がローマに入城し、初めて枢軸国の首都が陥落しました。 ヨーロッパ戦線の重要な転機となりました。
1944年6月4日、米英連合軍がローマに進軍し、正式に占領を完了しました。 イタリアは連合国への降伏後、南部を中心に戦闘が継続していたが、ローマ奪回は枢軸国に大きな打撃を与えました。 この占領によりドイツ軍はローマから撤退を余儀なくされ、イタリア戦線の主導権を失いました。 同市では歴史的建造物の保護が図られ、戦闘行為が一時的に抑制されました。 ローマ陥落は連合国軍の士気を高め、戦後のヨーロッパ再建に向けた布石となりました。
1944年 連合国 ローマ 枢軸国
1946年

日本海軍潜水艦「伊400」、ハワイ近海に於いて撃沈処分。

日本海軍最大級の潜水空母「伊400」が戦後処分としてハワイ近海で撃沈されました。 米海軍の技術研究に活用されました。
伊400型潜水艦は1944年に就役し、世界最大の搭載機数を誇る潜水空母でした。 敗戦後、米海軍は戦術研究のため「伊400」を捕獲し、詳細な技術調査を実施しました。 1946年6月4日、ハワイ沖で演習標的として撃沈処分(ローズデール作戦)が行われました。 潜航能力や航空搭載システムの実物データ取得を目的とし、その後の潜水艦設計に影響を与えました。 戦後の軍事技術研究史における重要な事例とされています。
1946年 伊400