1039年

ローマ王・皇帝のコンラート2世が死去。子のハインリヒ3世がローマ王に即位。

神聖ローマ帝国初代皇帝コンラート2世が死去し、息子ハインリヒ3世がローマ王に即位しました。
コンラート2世は1024年にローマ王に就き、1027年に皇帝に戴冠しました。彼はサリュアン朝の確立と帝国領土の統治強化に努め、皇帝権の基盤を築きました。1039年6月4日、在位15年目で亡くなり、その死去をもって新たな世代交代が訪れます。息子ハインリヒ3世は即座にローマ王として戴冠し、父の遺志を継いで神聖ローマ帝国の支配を担いました。
1039年 ローマ王 皇帝 コンラート2世 ハインリヒ3世
1584年

ウォルター・ローリーが新世界初のイングランド植民地であるロアノーク植民地を建設。

ウォルター・ローリーが北米初のイングランド植民地ロアノークを建設しました。
1584年6月4日、探検家ウォルター・ローリーの指揮下でロアノーク植民地が設立されました。ロアノークは現在のノースカロライナ州沿岸に位置し、英国の海外進出を象徴する試みでした。植民隊は先住民と交易を行いつつ入植地を整備しましたが、補給不足や気候変動に悩まされました。後に「失われた植民地」として歴史に謎を残す存在となり、イギリス植民活動の礎を築きました。
1584年 ウォルター・ローリー 新世界 ロアノーク植民地
1802年

サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世が弟のヴィットーリオ・エマヌエーレ1世に譲位。

サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世が弟に王位を譲位しました。
1802年6月4日、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世はナポレオン戦争期の混乱を背景に弟ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世に譲位を決断しました。カルロ4世はフランス革命の余波とイタリア半島情勢に翻弄され、退位を選択します。新国王ヴィットーリオ1世は短期間での治世ながら、王国の立て直しを試み、後のイタリア統一運動への土台を築きました。
1802年 サルデーニャ王 カルロ・エマヌエーレ4世 ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世
1812年

ルイジアナ準州がミズーリ準州に改称。

アメリカ合衆国でルイジアナ準州がミズーリ準州へ改称されました。
1812年6月4日、アメリカ政府はルイジアナ購入後の領土管理を見直し、ルイジアナ準州北部を分割してミズーリ準州と改称しました。この再編は西部開拓の進展と先住民政策を考慮したもので、新たな行政区分は移民流入を促進しました。ミズーリ準州の設立は後の州昇格と米国西部拡大の一里塚となります。
1812年 ルイジアナ準州 ミズーリ準州
安政5年4月23日

彦根藩主・井伊直弼が江戸幕府大老に就任。

彦根藩主の井伊直弼が江戸幕府大老に就任し、幕政の実権を握った。
1858年4月23日(安政5年4月23日)、彦根藩主井伊直弼が江戸幕府大老に就任しました。大老は幕政を統括する最高職で、将軍を補佐する重責を担います。井伊直弼は強権的な手法で条約締結を推進し、開国路線を進めました。この就任は幕府内外に大きな影響を与え、安政の大獄など強権政治の背景となりました。幕末の混乱期において、井伊直弼の行動は明治維新への伏線となった重要な出来事です。
1858年 安政 4月23日 井伊直弼 大老
1879年

東京・九段の東京招魂社を別格官幣社として靖国神社に改称。

東京招魂社が別格官幣社に格上げされ、靖国神社と改称された。
1879年6月4日、東京・九段にあった東京招魂社が別格官幣社に昇格し、正式に靖国神社と改称されました。当初は戊辰戦争以降の戦没者を祀るための招魂社でしたが、国家神道の発展とともに国家の公式祭祀の中心となります。別格官幣社への格上げにより、国家の保護や祭祀儀式が強化されました。以降、靖国神社は日本の戦没者慰霊や国の隆昌を祈願する象徴的な存在となります。今日でも国内外で議論を呼ぶ歴史的施設です。
1879年 招魂社 別格官幣社 靖国神社
1936年

フランスで社会党レオン・ブルム首班の人民戦線内閣が成立。

フランスでレオン・ブルム率いる人民戦線内閣が成立し、社会改革を目指した。
1936年6月4日、フランスの社会党指導者レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣が発足しました。人民戦線は社会党、共産党、急進党など左派勢力の連合で、経済危機と極右の台頭に対抗するため結成されました。内閣は週休制の導入や賃金引き上げなど労働者保護政策を実施し、社会改革を推進しました。しかし、財政悪化や国際情勢の緊張で次第に足かせとなり、1937年に退陣を余儀なくされます。フランスにおける大衆運動と政党連携の成功例として歴史に残る政府です。
1936年 社会党 レオン・ブルム 人民戦線
1937年

第一次近衛文麿内閣発足。

近衛文麿率いる第一次内閣が発足し、戦時政策が本格化。
1937年6月4日、近衛文麿を内閣総理大臣とする第一次近衛内閣が発足しました。近衛内閣は国内の軍部台頭を背景に組閣され、日中戦争の拡大に対処するため国家総動員体制を整備しました。政府は統帥権の確立や国家総動員法の制定に取り組み、軍部主導の政策を補完しました。近衛文麿は「統帥権独立」の立場を維持しつつ、政財界との連携も図りました。しかし、日中戦争の泥沼化で内外から批判を受け、内閣の求心力は次第に低下していきます。
1937年 第一次近衛文麿内閣
1943年

第二次世界大戦: 日本政府が「戦時衣生活簡素化実施要綱」を決定。男性は国民服、女性は元禄袖に。

物資節約と統制を目的に、政府が衣生活の簡素化を決定しました。 男性は国民服、女性は元禄袖を着用するよう定められました。
1943年6月4日、日本政府は「戦時衣生活簡素化実施要綱」を決定し、衣料用生地と染料の節約を図ることを目的としました。 男性には国民服(軍服や作業服に類似)、女性には元禄袖の着用が推奨されました。 また装飾や染色の制限が定められ、豪華さや無駄を省くよう指導されました。 地方自治体や学校などにもガイドラインが配布され、国民生活に大きな影響を及ぼしました。 戦後にもこの簡素化の考え方は一部残り、衣料文化やファッションに影響を与えました。
1943年 国民服
1950年

第2回参議院議員通常選挙。

第2回参議院議員通常選挙が実施され、戦後日本の民主政治が一段と成熟しました。 与野党の勢力争いが注目されました。
1950年6月4日、公職選挙法に基づき第2回参議院議員通常選挙が行われました。 改選定数は150議席で、自民党や社会党など主要政党が全国で候補者を擁立しました。 戦後初期の政治混乱を経て、有権者の政治参加意識が高まっていた重要な選挙です。 投票率は70%前後と高水準を維持し、民主主義制度の定着が実感されました。 結果は与野党の勢力均衡が継続し、参議院政治の特色として安定と緊張が同居しました。
1950年 第2回参議院議員通常選挙
1951年

公営住宅法公布。

公営住宅法が公布され、自治体による住宅供給が制度化されました。 戦後の住宅難解消に向けた大きな一歩でした。
1951年6月4日、公営住宅法が公布され、低所得者向けの住宅建設・管理が法的に整備されました。 戦後の深刻な住宅不足を背景に、自治体が主体となった公営住宅の整備が促進されました。 建設基準や入居資格、賃料設定など様々な項目が細かく規定されました。 この法律の成立により、都市部を中心に公営住宅の建設が本格的に始まりました。 現在の住宅政策や住宅保護制度の基盤となる重要な法制度です。
1951年 公営住宅法
1970年

トンガがイギリスから独立。

1970年6月4日、トンガ王国がイギリスの保護国から独立し、国際社会に新たに加わりました。 立憲君主制を採用し、伝統と近代制度を融合させた政治体制が始まりました。
南太平洋に位置するトンガは1900年からイギリスの保護領となっていました。 1965年に保護領を離れ、1970年6月4日に正式に独立を宣言しました。 独立とともにトゥポウ4世が国王に即位し、立憲君主制が確立されました。 議会と国王の権限をバランスさせた政治体制を整備し、安定した国家運営を目指しました。 以降、トンガは太平洋諸島フォーラムなど地域協力に参加し、観光や教育交流を通じて国際関係を深めています。
1970年 トンガ