1039年
ローマ王・皇帝のコンラート2世が死去。子のハインリヒ3世がローマ王に即位。
神聖ローマ帝国初代皇帝コンラート2世が死去し、息子ハインリヒ3世がローマ王に即位しました。
コンラート2世は1024年にローマ王に就き、1027年に皇帝に戴冠しました。彼はサリュアン朝の確立と帝国領土の統治強化に努め、皇帝権の基盤を築きました。1039年6月4日、在位15年目で亡くなり、その死去をもって新たな世代交代が訪れます。息子ハインリヒ3世は即座にローマ王として戴冠し、父の遺志を継いで神聖ローマ帝国の支配を担いました。
1039年
ローマ王
皇帝
コンラート2世
ハインリヒ3世
1189年
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世率いる十字軍がハンガリー・エステルゴムに着陣した。エステルゴムではハンガリー王ベーラ3世の盛大な出迎えを受けた。
十字軍遠征中のフリードリヒ1世がハンガリー王ベーラ3世の歓迎を受けてエステルゴムに着陣しました。
第三回十字軍を率いた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は1189年6月4日、ハンガリー王国の首都エステルゴムに到着しました。皇帝軍は安全な通行を求め、ハンガリー王ベーラ3世と友好協定を結びます。盛大な歓迎を受けたことで両国の外交関係が深まり、十字軍の補給線確保にも寄与しました。エステルゴムでの協議は遠征継続の鍵となり、以後の行軍ルートに大きな影響を与えました。
1189年
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世
ハンガリー
エステルゴム
ベーラ3世
1584年
ウォルター・ローリーが新世界初のイングランド植民地であるロアノーク植民地を建設。
ウォルター・ローリーが北米初のイングランド植民地ロアノークを建設しました。
1584年6月4日、探検家ウォルター・ローリーの指揮下でロアノーク植民地が設立されました。ロアノークは現在のノースカロライナ州沿岸に位置し、英国の海外進出を象徴する試みでした。植民隊は先住民と交易を行いつつ入植地を整備しましたが、補給不足や気候変動に悩まされました。後に「失われた植民地」として歴史に謎を残す存在となり、イギリス植民活動の礎を築きました。
1584年
ウォルター・ローリー
新世界
ロアノーク植民地
元和元年5月8日
大坂夏の陣: 徳川家康が豊臣秀頼と淀殿を切腹に追い込み、豊臣氏が滅亡。
大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川幕府による天下統一が確立されました。
1615年6月4日、徳川家康率いる幕府軍が大坂城に攻め込み、豊臣方との最後の戦いを制しました。豊臣秀頼と淀殿は自害を余儀なくされ、豊臣氏は歴史から消滅します。この戦役の勝利により国内の反抗勢力は根絶され、江戸幕府の支配体制が揺るぎないものとなりました。以後約260年間にわたり続く平和な江戸時代の礎を築く転換点となりました。
1615年
元和
5月8日
大坂夏の陣
徳川家康
豊臣秀頼
淀殿
豊臣氏
享保元年4月15日
江戸幕府が、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道の呼称を布達。
江戸幕府が五街道の正式名称を定め、街道網の整備と統制を強化しました。
1716年6月4日、徳川吉宗の江戸幕府は東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道の呼称を布達しました。これらの街道は参勤交代や物流の主要路線として整備され、幕府の統治と経済管理に欠かせないものとなりました。各街道沿いには宿場や関所が配置され、安全かつ効率的な人馬の往来を保証しました。体系的な街道網の整備は江戸時代の社会・経済活動を飛躍的に活性化させました。
1716年
享保
4月15日
東海道
中山道
日光道中
奥州道中
甲州道中
五街道
1745年
オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い
オーストリア継承戦争中のホーエンフリートベルクの戦いが行われました。
1745年6月4日、プロイセン王フリードリヒ大王率いる軍がホーエンフリートベルクでオーストリア軍を撃破しました。迅速な包囲戦術と砲兵の集中運用が功を奏し、短時間で決着がつきました。この勝利によりプロイセンはシレジア支配を確固たるものとし、列強の一角としての地位を強化しました。戦いはオーストリア継承戦争の転機となり、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えました。
1745年
オーストリア継承戦争
ホーエンフリートベルクの戦い
1783年
フランスのモンゴルフィエ兄弟が世界初の熱気球無人飛行を実施。
モンゴルフィエ兄弟が世界初の熱気球無人飛行に成功しました。
1783年6月4日、フランスのモンゴルフィエ兄弟が紙と布製の熱気球を用いて世界初の無人飛行を実施しました。燃えるわらを熱源とし、気球は数分間にわたり約900メートルを飛行します。この実験は後の有人飛行を可能にし、航空史における画期的な一歩となりました。飛行の成功は多くの市民に驚嘆をもたらし、科学技術の発展を加速させました。
1783年
フランス
モンゴルフィエ兄弟
熱気球
1802年
サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世が弟のヴィットーリオ・エマヌエーレ1世に譲位。
サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世が弟に王位を譲位しました。
1802年6月4日、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世はナポレオン戦争期の混乱を背景に弟ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世に譲位を決断しました。カルロ4世はフランス革命の余波とイタリア半島情勢に翻弄され、退位を選択します。新国王ヴィットーリオ1世は短期間での治世ながら、王国の立て直しを試み、後のイタリア統一運動への土台を築きました。
1802年
サルデーニャ王
カルロ・エマヌエーレ4世
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世
1812年
ルイジアナ準州がミズーリ準州に改称。
アメリカ合衆国でルイジアナ準州がミズーリ準州へ改称されました。
1812年6月4日、アメリカ政府はルイジアナ購入後の領土管理を見直し、ルイジアナ準州北部を分割してミズーリ準州と改称しました。この再編は西部開拓の進展と先住民政策を考慮したもので、新たな行政区分は移民流入を促進しました。ミズーリ準州の設立は後の州昇格と米国西部拡大の一里塚となります。
1812年
ルイジアナ準州
ミズーリ準州
1830年
南米独立革命の志士アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍がコロンビアで暗殺される。
南米独立の英雄アントニオ・ホセ・デ・スクレが暗殺されました。
1830年6月4日、シモン・ボリバルの信頼厚い将軍アントニオ・ホセ・デ・スクレがコロンビア・ボヤカ県で襲撃を受け、暗殺されました。スクレはエクアドルやボリビアの独立に貢献し、“解放者”と讃えられた人物です。彼の死は南米の若い共和国に衝撃を与え、その後の政治的不安定化を象徴しました。スクレの功績は今日も多くの国で敬意を払われ続けています。
1830年
アントニオ・ホセ・デ・スクレ
コロンビア
暗殺
安政5年4月23日
彦根藩主・井伊直弼が江戸幕府大老に就任。
彦根藩主の井伊直弼が江戸幕府大老に就任し、幕政の実権を握った。
1858年4月23日(安政5年4月23日)、彦根藩主井伊直弼が江戸幕府大老に就任しました。大老は幕政を統括する最高職で、将軍を補佐する重責を担います。井伊直弼は強権的な手法で条約締結を推進し、開国路線を進めました。この就任は幕府内外に大きな影響を与え、安政の大獄など強権政治の背景となりました。幕末の混乱期において、井伊直弼の行動は明治維新への伏線となった重要な出来事です。
1858年
安政
4月23日
井伊直弼
大老
1859年
第二次イタリア独立戦争: マジェンタの戦い。
イタリア統一戦争においてマジェンタ付近で行われた重要な会戦。
1859年6月4日、第二次イタリア独立戦争中のマジェンタの戦いが行われました。フランス軍とサルデーニャ王国連合軍がオーストリア帝国軍を攻撃し大勝利を収めました。この勝利によりミラノ奪還への道が開かれ、イタリア統一運動が大きく進展します。オルメッツァ条約締結への布石となり、後のイタリア統一に決定的な影響を与えました。戦術の面では火力支援と機動戦の組み合わせが高く評価されました。
1859年
第二次イタリア独立戦争
マジェンタの戦い