1282年

イベリア半島アラゴン王ペドロ3世の艦隊がシチリア島へ向けてファンゴス湾を出航する。

アラゴン王ペドロ3世がシチリア攻撃のために艦隊を率いて出航した軍事行動。
1282年6月3日、アラゴン王ペドロ3世はファンゴス湾から艦隊を出帆し、シチリア島へ向かいました。 この遠征はシチリア王国を巡る権力争いに介入するもので、地中海の覇権を巡る争いを激化させます。 ペドロ3世の艦隊は島内の支持派と連携して現地勢力を牽制し、後のシチリア・ヴェスプッチ事件を誘発。 中世ヨーロッパの海上戦略と王権外交の実態を示す重要な一幕と評価されています。
1282年 イベリア半島 アラゴン ペドロ3世 シチリア島
元亀元年4月30日

越前の朝倉義景討伐中の織田信長が、近江の浅井長政の離叛のため越前から撤退。

織田信長が朝倉討伐を中断し、浅井長政の裏切りによって撤退した合戦の転機。
1570年6月3日(元亀元年4月30日)、織田信長は越前討伐の最中に浅井長政の離反を知り、撤退を余儀なくされました。 朝倉義景を討つため進軍していた信長軍は、背後を突かれる危機に直面。 浅井氏の寝返りは織田・徳川連合軍にとって重大な戦略的打撃となります。 この撤退は北近江を巡る戦局を一変させ、後の姉川の戦いへとつながる重要な前兆でした。
1570年 元亀 4月30日 朝倉義景 織田信長 浅井長政
慶長20年5月7日

大坂夏の陣: 大坂城天守閣が炎上。

大坂夏の陣で大坂城天守閣が炎上し、戦局を象徴する光景となった一幕。
1615年6月3日(慶長20年5月7日)、大坂夏の陣において豊臣方の拠点・大坂城天守閣が炎上しました。 徳川方の総攻撃を受けた城内は激しい火焔に包まれ、士気と戦況への影響は計り知れません。 城の喪失は豊臣氏にとって致命的で、同年中に大坂城は落城。 この出来事は江戸幕府による全国統一と新たな武家政権の樹立を象徴する歴史的光景とされています。
1615年 慶長 5月7日 大坂夏の陣 大坂城
1818年

第三次マラーター戦争: マラーター同盟がイギリス東インド会社軍に降伏。

第三次マラーター戦争でマラーター同盟がイギリス東インド会社軍に降伏し、インド支配の重要な転機となった出来事です。
1817年から1818年にかけて行われた第三次マラーター戦争は、マラーター同盟とイギリス東インド会社との衝突でした。 6月3日、戦力を消耗したマラーター同盟が正式に降伏し、東インド会社が決定的な勝利を収めました。 この降伏により、マラーター地方はイギリスの直接支配下に置かれ、インドにおけるイギリスの支配体制がさらに確立されました。 戦争終結後、マラーター王族の領地再編や財政的な賠償が行われ、地域の社会構造にも大きな変化がもたらされました。 この出来事は、インドの植民地化が最終段階に入ったことを象徴しています。
1818年 第三次マラーター戦争 マラーター同盟 イギリス東インド会社
1861年

南北戦争: フィルーピーの戦い。

南北戦争で最初期の戦闘の一つ、フィルーピーの戦いが行われました。
1861年6月3日、バージニア翼にあるフィルーピー(現ウェストバージニア州)で北軍と南軍の衝突が発生しました。 この戦闘は南北戦争開戦後間もない戦いであり、北軍が南軍の前哨部隊を撃退しました。 北軍指揮官はジェイムズ・W・アンダーソン大佐、南軍はC・C・ギボン大佐が率いていました。 戦闘の規模は小さかったものの、戦争全体の士気と戦略的拠点確保に影響を与えました。 この勝利により北軍は西バージニア方面の制圧を有利に進める足がかりを得ました。
1861年 南北戦争 フィルーピーの戦い
1885年

カナダ領内でのノースウェストの反乱最後の戦闘。クリー族の酋長ビッグ・ベアーがノースウェスト騎馬隊から逃走。

カナダでノースウェスト反乱の最後の戦闘が行われ、クリー族の酋長ビッグ・ベアーが逃走しました。
1885年6月3日、ノースウェスト反乱の最終局面である戦闘が現在のサスカチュワン州近郊で起こりました。 反乱軍のクリー族とメチス族は政府軍の攻勢を受け、大きく劣勢に立たされました。 酋長ビッグ・ベアーは戦場から脱出し、抵抗の拠点を失った反乱勢力は分散状態となりました。 この戦闘後まもなくクリー族指導者らは投降し、反乱は事実上終結しました。 反乱鎮圧によりカナダ政府の西部支配が強化され、先住民政策にも影響が及びました。
1885年 カナダ ノースウェストの反乱最後の戦闘 クリー
1915年

第一次世界大戦: サンマリノがオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告する。

1915年6月3日、世界最小の共和国サンマリノが第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦しました。
サンマリノは1915年6月3日、同盟国側の一員としてオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告し、連合国側への参加を正式に表明しました。 国内の軍事力は極めて小規模でしたが、象徴的な宣戦布告として国際社会に注目されました。 この行動はサンマリノの独立維持と大国への支持表明を兼ねるもので、戦後の外交的地位確立にもつながりました。 小国が大戦に参加する珍しい事例として歴史的意義を持っています。 この宣戦布告は、独立を守る小国としての強い意志表明とみなされました。
1915年 第一次世界大戦 サンマリノ オーストリア=ハンガリー帝国
1940年

第二次世界大戦: ドイツ空軍のパリ空襲。市民254人が死亡。

ドイツ空軍が1940年6月3日にパリを空襲し、254人の市民が犠牲となった。 Blitzkrieg戦術の一環として行われた攻撃。
1939年に勃発した第二次世界大戦で、ドイツは電撃戦を繰り広げた。 1940年6月3日夜、ドイツ空軍はパリを標的に大規模な爆撃を行った。 市街地に投下された爆弾により254人の民間人が死亡、都市は大きな被害を受けた。 この空襲は連合軍がノルマンディー上陸作戦を準備する前段階のテロ戦の一環とされる。 パリ市民の士気を低下させ、政府の戦意を削ぐ狙いがあった。 爆撃後も文化都市パリの被害はその後の復興に深い影響を与えた。
1940年 第二次世界大戦 ドイツ空軍 パリ
1961年

ウィーン会談: ジョン・F・ケネディ米大統領とニキータ・フルシチョフソ連首相が初会談。

ケネディ大統領とフルシチョフ首相がウィーンで初の首脳会談を行いました。
1961年6月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相がオーストリア・ウィーンで初めて顔を合わせました。 会談ではベルリン問題や核軍拡、キューバ情勢など冷戦下の重要課題が議題となりました。 両首脳の直接対話は緊張緩和の試みである一方、意見対立も顕在化し、特にベルリン問題での対立が深刻化しました。 この会談は米ソ関係の今後を左右する重要な転機とされ、その後の国際政治に大きな影響を及ぼしました。 冷戦期の首脳外交史における代表的なエピソードとして広く知られています。
1961年 ウィーン会談 ジョン・F・ケネディ ニキータ・フルシチョフ
1989年

ウズベク共和国で民族暴動が発生する。

1989年6月3日、ソ連構成共和国のウズベク共和国で民族対立が爆発し、暴動が発生しました。
1989年6月3日、ソビエト連邦構成共和国だったウズベク共和国で共和国内の民族間対立が爆発し、主要都市で暴動が発生しました。群衆は放火や略奪を行い、道路が封鎖されるなど混乱が広がりました。政府は軍を投入して外出禁止令を発布し、強制的に鎮圧に当たりました。多くの死傷者が報告され、市民生活は深刻な被害を受けました。この事件はソ連末期の民族問題の深刻さを象徴し、後の独立運動にも影響を与えました。
ウズベク共和国