1878年

東京で、山形県庄内のワッパ騒動に関する判決が下され、原告森藤右衛門らが勝訴する。

山形県庄内地方の農民反乱「ワッパ騒動」に対し、東京で原告側の勝訴判決が下されました。
1878年に庄内地方で発生したワッパ騒動は重税や年貢徴収に反発した農民一揆でした。 騒動後、指導者らは東京での政府への補償請求訴訟を起こし、損害賠償を求めました。 6月3日、第一審で原告の森藤右衛門らが勝訴し、一揆参加者の地位向上と補償が認められました。 判決は明治政府の地方行政政策見直しを促し、農民の権利意識を高める契機となりました。 同時に、新政府の司法制度が地方事件においても機能し始めた事例として注目されました。
1878年 ワッパ騒動
1943年

第二次世界大戦: 日本で「戦時必需日用品」262品目が指定される。

日本政府は1943年6月3日、戦時必需日用品として262品目を指定し、配給統制を強化した。 物資不足の中で生活必需品の確保を図った取り組み。
第二次世界大戦の激化に伴い、日本国内で物資の深刻な不足が発生した。 1943年6月3日、文部省を含む政府は「戦時必需日用品」262品目を指定し、配給を統制した。 食料や衣類、日用雑貨などが対象となり、消費者は配給券を使ってのみ入手可能となった。 これにより戦時経済の合理化と国民生活の統制が進められた。 配給制度は戦争終結まで維持され、戦後の物資改革や流通史にも影響を与えた。
1943年
1951年

NHK、後楽園球場から日本橋三越の電波展覧会へプロ野球の試合を実験的にテレビ中継。

NHKが後楽園球場で行われたプロ野球の試合を、日本橋三越の会場で初めて実験的にテレビ中継しました。この試みはスポーツ放送の先駆けとなりました。
1951年6月3日、NHKは後楽園球場で行われたプロ野球公式戦を、当時まだ珍しかったテレビ放送技術を用いて生中継しました。 中継は日本橋三越で開催された電波展覧会の会場にて視聴可能とし、来場者に公開実験として行われました。 この試みは日本のテレビ放送におけるスポーツ中継の先駆けであり、その後のテレビメディア発展に大きく寄与しました。 視聴者はテレビ画面を通じて野球の臨場感を味わい、メディアへの関心が高まりました。 この実験放送は技術的課題もありましたが、以降スポーツ中継が定着する契機となりました。
三越 プロ野球
1954年

学校給食法制定。

日本で学校給食を制度化する学校給食法が1954年6月3日に制定されました。
学校給食法は、1954年6月3日に制定され、日本の学校教育における給食制度の基盤を築きました。 同法は児童生徒の栄養改善や健康増進、食育の推進を目的とし、都道府県や市町村が給食計画を策定する枠組みを示しています。 制定当初は戦後間もない栄養状態の改善を重視し、主食・副食・牛乳などの標準的な献立を定めました。 その後、食文化や地域差を反映させた給食メニューが導入され、子どもたちの心身育成に寄与しています。 学校給食は現在も日本の義務教育を支える重要な制度として定着しています。
1954年 学校給食法
1961年

京都市内で京都府学生自治連合のデモ隊と警官隊が衝突。デモ隊側に249人、警官側に33人の負傷者。デモは同年5月30日にも行われていた。

京都市内で学生デモと警官隊が衝突し、多数の負傷者が出ました。
1961年6月3日、京都府学生自治連合が中心となったデモ隊が京都市内で行進を行い、警官隊と激しく衝突しました。 この衝突ではデモ隊側249名、警官側33名が負傷し、大学生や市民の間で大きな波紋を呼びました。 デモの背景には教育制度改革や米軍基地反対など、当時の学生運動の高まりがありました。 現場では催涙弾や警棒が使用され、一時的に市街地が混乱状態に陥りました。 この事件は戦後日本の学生運動史における代表的な出来事の一つとなっています。
京都市 5月30日
1969年

文化放送の深夜番組『セイ!ヤング』が放送開始。

文化放送で深夜ラジオ番組『セイ!ヤング』の放送がスタートし、若者向けライブレポートや洋楽紹介で人気を博しました。
1969年6月3日、文化放送が新たな深夜番組『セイ!ヤング』の放送を開始した。番組は主に若者のリクエスト曲やライブ情報を取り上げ、洋楽シーンの最新トレンドを紹介した。パーソナリティは当初から個性的なDJが務め、リスナーとの交流を重視した企画を多数実施した。深夜番組としては画期的なスタイルが支持され、リスナーから熱狂的な反響を呼んだ。番組は数年にわたり放送され、日本のラジオ文化に大きな影響を与えた。
文化放送 セイ!ヤング