350年

古代ローマの執政官ネポティアヌスがローマ皇帝を僭称してローマに入城。6月30日に僭帝マグネンティウスに殺害されため28日間の統治だった。

執政官ネポティアヌスが皇帝を自称し、わずか28日間の統治を試みた劇的な出来事。
350年6月3日、執政官ネポティアヌスはマグネンティウス不在のローマに乗り込み、皇帝の称号を僭称しました。 彼は元老院の支持を一時的に取り付けるものの、正統性を巡る抗争は激化。 統治開始から4週間足らずの6月30日、マグネンティウス派の反撃を受けて敗北し、殺害されました。 わずか28日間の短命な帝政は、帝国内の権力闘争の激しさを象徴しています。 この一連の事件は、後のローマ帝政史における権威と正統性の問題を浮き彫りにしました。
350年 執政官 ネポティアヌス ローマ皇帝 僭称 マグネンティウス
1326年

ノヴゴロド条約締結。ノヴゴロド公国(ロシア)とノルウェーの国境をフィンマルクに定める。

ノヴゴロド公国とノルウェーが国境を画定した外交条約の締結。
1326年6月3日、ノヴゴロド公国(現ロシア)とノルウェー王国がノヴゴロド条約に調印しました。 条約によりフィンマルク地方が両国の国境と定められ、長年の領土紛争に区切りがつきます。 この合意は北欧と東欧を結ぶ交易路の安定化に寄与し、商業活動の発展を促進しました。 中世における条約外交の成功例として、後世の国際関係史にも高く評価されています。
1326年 ノヴゴロド条約 英語版 ノヴゴロド公国 ロシア ノルウェー フィンマルク
1539年

エルナンド・デ・ソトがフロリダをスペイン領と宣言。

探検家デ・ソトがフロリダをスペイン領と宣言し、新大陸進出を加速。
1539年6月3日、スペインの探検家エルナンド・デ・ソトはフロリダ半島に上陸し、スペイン領有を宣言しました。 この宣言は北アメリカ大陸におけるスペイン帝国の拡大の端緒となり、後の植民地化を促進します。 デ・ソト隊は先住民族との遭遇や紛争を繰り返しながら内陸探検を続行。 遠征により新世界地理の解明が進む一方、先住民社会には深刻な影響がもたらされました。 フロリダ領有はヨーロッパ列強間の勢力均衡にも大きな波紋を広げました。
1539年 エルナンド・デ・ソト フロリダ スペイン
道光19年4月22日

清の官僚・林則徐が、英国から密輸されたアヘンを虎門へ集め、海洋投棄を開始する。阿片の処分は6月25日まで。アヘン戦争の引き金になった。

清朝の官僚・林則徐が虎門で密輸アヘンを海に投棄し、アヘン戦争の引き金となった事件です。
1839年4月22日(道光19年4月22日)、清の高官林則徐は英国から密輸されたアヘンを集めて虎門で処分を開始しました。 集められた約2000トンのアヘンは6月25日までにすべて海に投棄され、その光景は清と英国の緊張を一気に高めました。 林則徐はアヘン流通を取り締まり、民衆の健康被害を防ごうと厳格な政策を実施しました。 しかし、この措置が英国の利益を著しく損ねたため、両国の交渉は決裂し、翌年アヘン戦争が勃発しました。 この事件は19世紀の東アジア情勢を大きく変え、列強による中国侵略の口実となりました。
1839年 道光 4月22日 林則徐 アヘン アヘン戦争
1850年

現在のミズーリ州カンザスシティが「タウン・オブ・カンザス」として正式な自治体となる。

現在のミズーリ州カンザスシティが1850年に「タウン・オブ・カンザス」として正式に自治体となりました。
1850年6月3日、カンザス川沿いに位置する集落が公式に「タウン・オブ・カンザス」として設立されました。 初期の住民は交易所や製粉施設を中心に生活し、ミズーリ州西部への開拓拠点となりました。 自治体認可により地元政府が組織化され、税制や公共サービスの整備が進められました。 後に鉄道の開通や西部開拓の進展とともに急速に発展し、カンザスシティへと発展しました。 今日ではアメリカ中西部の文化・経済の中心都市の一つとして知られています。
1850年 ミズーリ州 カンザスシティ
1896年

ロシアと清の間で露清密約が結ばれ、日本に侵略されたときの相互援助を約束する。ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得する。

1896年6月3日、ロシアと清朝が密約を結び、日本侵略時の相互援助を約束し、ロシアが東清鉄道の敷設権を獲得しました。
19世紀末、ロシア帝国と清朝は極東における勢力均衡を巡って秘密協定を締結しました。 この露清密約により、いずれかが日本から攻撃を受けた場合に相互に援助することが定められました。 さらにロシアは満州への鉄道敷設権を獲得し、東アジアにおける影響力を拡大しました。 中国の主権侵害や日本との緊張を高める結果となり、後の三国干渉や列強の権益争奪にも影響を及ぼしました。 この協定は極東情勢の複雑化を象徴する出来事として知られています。
1896年 露清密約 日本 東清鉄道
1910年

韓国併合: 閣議で、同年8月の併合後の朝鮮に対する施政方針を決定する。

1910年6月3日、日本政府が閣議で韓国併合後の朝鮮統治方針を決定しました。
日本は日韓併合条約(1910年8月)に先立ち、6月3日の閣議で朝鮮半島の行政・警察・教育制度など施政の基本方針を確定しました。 これにより日本は朝鮮総督府を中心とした統治機構を整備し、文化・経済の同化政策を進めていきました。 併合後の土地調査や官吏任命、言語統制などが計画され、多くの朝鮮人が政治的権利を剥奪されることとなりました。 この出来事は日韓関係に深い爪痕を残し、後世にわたる論争の起点となっています。 また、国内外からの反発や抵抗運動が活発化し、併合政策への批判も高まりました。
1910年 韓国併合 朝鮮
1916年

アメリカで国家防衛法が成立する。正規軍、州兵が強化される。

1916年6月3日、アメリカ合衆国で国家防衛法が成立し、正規軍と州兵の体制が強化されました。
国家防衛法(National Defense Act of 1916)は、第一次世界大戦を背景に米国議会で可決されました。 この法律により陸軍規模が拡大され、陸軍予備役および州兵(ナショナルガード)の組織・訓練基準が整備されました。 さらに、将校養成制度(ROTC)の設立や動員計画の策定も含まれ、総合的な兵力増強が図られました。 同法は米国軍の近代化を促進し、第一次世界大戦への参戦準備を本格化させる転機となりました。 これは米国軍事史上の重要な転機となり、その後の国防政策に大きな影響を与えました。
1916年 アメリカ 州兵
1929年

日独伊が蔣介石の中国国民政府(蔣介石政権)を正式に承認。

1929年6月3日、日本、ドイツ、イタリアの3国が蔣介石率いる中国国民政府を正式に承認しました。
中国では袁世凱崩御以降、北洋政権と南方の国民党政府が対立していました。 1927年の北伐成功を受け、蔣介石率いる南京の国民政府は中国統一を目指していました。 1929年6月3日、日本、ドイツ、イタリアの三国がこの南京政府を正統政府として承認し、正式な外交関係を樹立しました。 列強による承認は国民政府の国際的地位を高め、後の外交交渉や経済協力にも影響を与えました。 この承認はその後の中国政治において蔣介石政権の正統性を支える重要な一歩となりました。
1929年 蔣介石 中国 国民政府 蔣介石政権
1929年

チリとペルーの間に国境に関する協定が調印される。タクナ・アリカ紛争が解決する。

1929年6月3日、チリとペルーがタクナ・アリカ紛争解決に向けた国境協定を調印しました。
太平洋戦争(1879-1884)以降、チリとペルーはタクナ・アリカ地域を巡って対立していました。 1929年6月3日に調印された協定では、タクナをペルー、アリカをチリが統治することが定められ、長年の紛争に終止符が打たれました。 両国は同協定を通じて国境線を画定し、住民の国籍選択権なども規定しました。 この合意は南米での平和的な国境解決のモデルケースとして評価されました。 住民移動や経済活動の正常化につながり、地域の安定化に寄与しました。
チリ ペルー タクナ アリカ
1937年

前イギリス王ウィンザー公がウォリス・シンプソンと結婚式を挙げる。

1937年6月3日、前イギリス王エドワード8世(ウィンザー公)がウォリス・シンプソンと結婚しました。
1936年に退位したエドワード8世は、離婚歴のあるアメリカ人ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、王位を捨てました。 退位後の公爵としてフランスに滞在し、1937年6月3日に公的儀式を経て結婚式を挙げました。 この結婚は王室や政府に大きな波紋を呼び、英国の憲政史における重要な転換点となりました。 ウォリスとの結婚はメディアでも大きく取り上げられ、社交界でも話題となりました。 夫妻は生涯を通じて公的な王位継承権を持たないまま暮らしました。
1937年 前イギリス王ウィンザー公 ウォリス・シンプソン
1944年

北アフリカのアルジェにおいてフランス共和国臨時政府成立。

北アフリカのアルジェで1944年6月3日、フランス共和国臨時政府が樹立された。 ド・ゴールら自由フランス勢力が中心となった政府。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに占領されたフランス本土に代わる政府として準備が進められた。 盟友イギリスやアメリカの支持を受け、シャルル・ド・ゴール将軍が中心となった。 1944年6月3日にアルジェで臨時政府が正式に成立し、自由フランスの統治機構が整備された。 臨時政府は後にパリ解放後に本土に移転し、新国家建設の礎となった。 フランス復興の象徴として、戦後フランス第四共和制への移行に大きな影響を与えた。
1944年 アルジェ フランス共和国臨時政府