寛平4年5月10日
菅原道真が『類聚国史』を撰進。
平安時代の学者・菅原道真が国家の歴史を編纂した『類聚国史』を撰進しました。
菅原道真は平安時代を代表する学者兼官僚であり、この『類聚国史』は年紀体で編纂された日本最古級の歴史書の一つです。国家の公式記録として、『日本紀』『続日本紀』『日本後紀』などを体系的にまとめることを目的としていました。編纂作業には宮廷の学者や廷臣が関与し、当時の政治や社会状況を後代に伝える貴重な史料となりました。撰進によって道真の学識と公的役割が示され、その後の歴史研究にも大きな影響を与えました。
892年
寛平
5月10日
菅原道真
類聚国史
天祐4年/開平元年4月19日
朱全忠が大梁国(後梁)を建国する。五代十国時代の始まり。
朱全忠が五代十国時代の幕開けとなる後梁を建国しました。
朱全忠は唐末の群雄の一人で、907年に大梁国を建国して後梁を称しました。それまでの唐王朝の混乱を収束しつつ、新たな統治体制を築いたことで五代十国時代の始まりを告げました。後梁建国は五代にわたる短命王朝の先駆けとなり、華北地方での勢力争いが激化しました。朱全忠の統治は強権的な一面もあり、後の王朝交替を繰り返す要因ともなりました。中国史における重要な転換点として評価されています。
907年
天祐
開平
4月19日
朱全忠
後梁
五代十国時代
1098年
第1回十字軍: アンティオキア攻囲戦で十字軍がアンティオキアの城内に突入しアンティオキアが陥落。
第1回十字軍によるアンティオキア征服の決定的瞬間が訪れました。
1097年に始まった第1回十字軍は、小アジアを経てアンティオキア包囲戦に突入しました。多くのキリスト教徒騎士が集結し、厳しい包囲戦を展開した末に1098年6月2日に城内へ突入して陥落させました。アンティオキアは宗教的・戦略的に重要な拠点であり、占領は十字軍の勢いを大きく高めました。占領後には短期間ながら十字軍国家「アンティオキア公国」が成立し、聖地への進軍に弾みをつけました。十字軍運動の中でも象徴的な戦闘の一つです。
1098年
第1回十字軍
アンティオキア攻囲戦
アンティオキア
寿永2年5月11日
治承・寿永の乱: 倶利伽羅峠の戦い。
治承・寿永の乱の一戦、倶利伽羅峠の戦いが行われました。
1183年の倶利伽羅峠の戦いは、源平合戦の重要な局面の一つです。源義仲率いる源氏勢が峠で平家軍を迎え撃ち、奇襲戦術により大勝を収めました。この勝利によって義仲は越後から京への路を開き、一時的に朝廷の支持を得ることになります。戦いは地形を利用した戦術が注目され、軍事史上の名戦として知られています。平家勢力の北陸方面での支配力に大きな打撃を与えた出来事です。
1183年
寿永
5月11日
治承・寿永の乱
倶利伽羅峠の戦い
1780年
エプソム競馬場で初のダービーステークス開催。
エプソム競馬場で初のダービーステークスが開催されました。
1780年にロンドン郊外のエプソム競馬場で第1回ダービーステークスが行われました。後に「ダービー」として知られるこの競走は、イギリス競馬の三冠レースの一つに数えられるクラシック競走です。創設者は第12代ダービー伯爵で、シンプルなルールと見応えのあるコース設定で人気を博しました。初年度の勝者は名馬ディオメドで、その後も多くの名馬がこのレースで栄誉を勝ち取りました。現代に至るまで伝統と格式を誇る一大イベントです。
1780年
エプソム競馬場
ダービーステークス
1793年
フランス革命: ジャコバン派の群衆が国民公会を包囲し、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕を議決させる。ジャコバン派による独裁・恐怖政治が始まる。
フランス革命でジャコバン派が国民公会を制圧し恐怖政治が始まりました。
1793年6月2日、パリの群衆化したジャコバン派が国民公会を包囲してジロンド派の議員を追放・逮捕させました。これによりロベスピエールらが主導する恐怖政治(レ・テロル)が本格的に開始されます。反革命分子と見なされた者への処刑や弾圧が激化し、数万人がギロチンにかけられました。革命の理念と現実のはざまで、過激派による統治の暗い側面が顕在化した瞬間でもありました。後のナポレオン台頭への伏線ともなった歴史的重要事件です。
1793年
フランス革命
ジャコバン派
国民公会
ジロンド派
恐怖政治
1886年
グロバー・クリーブランド米大統領がホワイトハウスの中で結婚式を挙げる。官邸で結婚式をした唯一の大統領。
グロバー・クリーブランド大統領がホワイトハウス内で結婚式を挙げました。
1886年6月2日、アメリカ合衆国第22代大統領グロバー・クリーブランドが在任中にホワイトハウスのブルー・ルームで結婚式を執り行いました。これはホワイトハウスでの公式な結婚式として史上唯一の例であり、多くの来賓が招かれました。クリーブランドは当時49歳、花嫁フランセス・フォルサムは21歳で、年齢差が話題となりました。大統領としての公私を融合させた出来事は国民の関心を集め、社交史上の逸話として語り継がれています。
1886年
グロバー・クリーブランド
ホワイトハウス
結婚式
1901年
日本で桂太郎が第11代内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣が発足。
桂太郎が第11代内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣が発足しました。
1901年6月2日、明治時代の政治家・桂太郎が内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣を組織しました。桂内閣は日英同盟の強化や財政改革に取り組み、近代日本の国家運営に重要な役割を果たしました。桂自身は陸軍出身で強いリーダーシップを発揮し、対外政策では列強との協調を図りました。内閣は約1年半続き、その後の政局にも大きな影響を与えました。日本の政治史における礎となった政権です。
1901年
桂太郎
内閣総理大臣
第1次桂内閣
1905年
安芸灘を震源とするM7.4の芸予地震。死者11人。
安芸灘を震源とするM7.4の芸予地震が発生し死者が出ました。
1905年6月2日未明、瀬戸内海西部の安芸灘を震源とするマグニチュード7.4の強い地震が発生しました。主に広島県・愛媛県沿岸地域で大きな揺れとなり、11人が死亡しました。家屋の倒壊や土砂崩れが各地で報告され、漁村や港湾施設にも被害が及びました。明治期の地震観測技術が未発達であったため、被害の全容把握には時間を要しました。地域社会に大きな衝撃を与えた自然災害です。
1905年
安芸灘
M
芸予地震
1909年
5月31日に完成した両国国技館で初めて相撲がとられる。
完成した両国国技館で初めて相撲興行が行われました。
1909年5月31日に完成した両国国技館は、東京の両国地区に設置された初の本格的な相撲専用施設です。翌6月2日、この館内で初の相撲大会が開催され、盛大な式典とともに幕が開かれました。観客席は約13,000人を収容し、美しい木造建築と土俵が注目を集めました。この出来事は相撲の近代化と大衆化を象徴し、後の国技館の原型となりました。相撲史における重要な節目と言えます。
1909年
両国国技館
相撲
1924年
カルビン・クーリッジ米大統領が、アメリカ合衆国の領域内で生まれた全てのアメリカ先住民に市民権を与えるインディアン市民権法に署名し、法律が発効。
カルビン・クーリッジ大統領がインディアン市民権法に署名し、全てのアメリカ先住民に市民権が付与されました。
先住民の権利拡大を目的とした歴史的な法律です。
1924年6月2日、カルビン・クーリッジ大統領はインディアン市民権法に署名しました。
この法律により、アメリカ合衆国の領域内で生まれた全ての先住民が正式に市民権を取得。
それまで先住民は市民権取得に様々な制限があり、不平等な扱いを受けていました。
市民権付与により、選挙権や参政権、法の保護などが保証されるようになりました。
同法は先住民の社会的地位向上と権利拡大に重要な転換点となりました。
しかし、実際の組織化や制度上の障壁は残り、完全な平等実現には更なる課題が残されました。
1924年
カルビン・クーリッジ
アメリカ合衆国
アメリカ先住民
市民権
インディアン市民権法
英語版
1941年
第二次世界大戦: ドイツの降下猟兵がギリシャ・Kondomariの村人を虐殺。 (en:Massacre of Kondomari)
第二次世界大戦中、ドイツ降下猟兵がギリシャ・コンドマリ村で住民を虐殺しました。
1941年6月2日、ドイツ軍の降下猟兵部隊はクレタ島コンドマリ村で虐殺を実行しました。
住民数十名が無抵抗のまま射殺され、民間人に対する戦争犯罪の一つとされています。
この事件はヒトラーの占領政策の一環であったとされ、残虐行為として記憶されます。
戦後、戦犯裁判において責任問題が取り上げられましたが、一部の加害者は罰を逃れました。
虐殺現場は後に記念碑が建てられ、平和の尊さを訴える場となっています。
1941年
第二次世界大戦
ドイツ
降下猟兵
en:Massacre of Kondomari