永禄12年5月17日

今川氏真が掛川城を開城して伊豆へと落ち延びる。戦国大名としての今川氏の滅亡。

1569年6月1日、今川氏真が掛川城を開城し、戦国大名今川氏は滅亡しました。
1569年6月1日、今川氏真は掛川城を徳川家康に開城し、伊豆へ逃れました。 この出来事により今川氏は戦国大名としての実権を失い、勢力は崩壊します。 氏真は先代今川義元の遺志を継ぎましたが、桶狭間の敗北以降の挽回は叶いませんでした。 掛川城の開城は東海地方の勢力図を一変させ、徳川家康の台頭を決定づけました。 以後、今川氏は歴史舞台から姿を消し、武家政権に大きな影響を与えました。
1569年 永禄 5月17日 今川氏真 掛川城 伊豆 戦国大名 今川氏
慶長20年5月5日

大坂夏の陣: 徳川家康が京都・二条城を出陣。

1615年6月1日、徳川家康が大坂夏の陣のため京都二条城を出陣しました。
1615年6月1日、徳川家康は大坂夏の陣開戦に先立ち、京都の二条城を出陣しました。 大坂夏の陣は豊臣家最後の拠点である大阪城を目標とした一連の攻防戦です。 家康は豊臣方の包囲網を行い、政治的野望の最終決戦に臨みました。 二条城の出陣は幕府権力の象徴的行動として知られ、諸大名を糾合しました。 この後の戦いで豊臣家は滅亡し、徳川幕府の絶対的支配が確立します。
1615年 慶長 5月5日 大坂夏の陣 二条城
1794年

栄光の6月1日。フランス革命戦争における最初にして最大の海戦。

1794年6月1日、フランス革命戦争最大の海戦『栄光の6月1日』が起こりました。
1794年6月1日、イギリス海軍のリチャード・ハウ卿率いる艦隊とフランス海軍が『栄光の6月1日』で衝突しました。 この海戦はフランス革命戦争における最初にして最大規模の海戦とされます。 ハウ卿はフランス船団を撃破し、穀物商船の護送に成功しました。 イギリスの勝利は海上封鎖戦略を強化し、ナポレオン戦争期の海洋戦略に影響を与えました。 両国の損耗はいずれも小さく、戦術的勝利が戦略的優位に繋がった例とされています。
1794年 栄光の6月1日 フランス革命戦争
1812年

米英戦争: ジェームズ・マディソン米大統領の演説の後、議会でイギリスへの宣戦布告の可否を問う投票が行われ、上下院ともに可決。18日に開戦。(米英戦争の原因)

1812年6月1日、米英戦争の開戦をめぐる宣戦布告決議が上下両院で可決されました。
1812年6月1日、ジェームズ・マディソン大統領の宣言を受け、議会でイギリスへの宣戦布告決議の採決が行われました。 上院では19対13、下院では79対49で可決され、18日に米英戦争が正式に始まります。 この戦争はイギリスの海上封鎖やイギリス系入植者への対応をめぐる対立が背景にありました。 当時のアメリカは若い新興国家として、国家の主権と名誉をかけた戦いに臨みました。 戦争中には星条旗の誕生や、ワシントンD.C.の焼き討ちなど歴史的エピソードが生まれました。
1812年 米英戦争 ジェームズ・マディソン 米英戦争の原因
1855年

ウィリアム・ウォーカーが57人の部下を従えてニカラグアに上陸。

1855年6月1日、ウィリアム・ウォーカーがニカラグアに上陸し、フィリバスター活動を開始しました。
1855年6月1日、アメリカの冒険家ウィリアム・ウォーカーは57人の部下を率いてニカラグアに上陸しました。 彼は私設軍隊を駆使して現地の政権を掌握し、「フィリバスター」と呼ばれる活動を展開します。 ウォーカーの遠征は中央アメリカに英語系国家を建国しようとする野望に基づいていました。 当初は支持を得たものの、周辺諸国やアメリカ政府の圧力により失脚し、最終的には撤退を余儀なくされました。 彼の活動は当時の「私戦」問題や国際法の在り方を巡る議論を引き起こしました。
1855年 ウィリアム・ウォーカー ニカラグア
1879年

ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)がズールー戦争で戦死。ナポレオン3世の直系が途絶える。

ズールー戦争でナポレオン3世の直系子孫が戦死し、皇統が断絶した歴史的事件。
1879年6月1日、フランス皇帝ナポレオン3世の孫にあたるナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(通称ナポレオン4世)が南アフリカのズールー戦争に従軍中、敵の銃撃を受け戦死した。 彼の死はナポレオン家直系の断絶を意味し、フランス皇帝の後継問題に大きな影響を与えた。 ナポレオン家はその後、公的な皇位請求権を失い、ヨーロッパの政治的風景にも象徴的な終焉を迎えた。
1879年 ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト ズールー戦争 ナポレオン3世
1918年

第一次世界大戦: ベロー・ウッドの戦いが始まる。

第一次世界大戦中の重要な戦い、ベロー・ウッドの戦いが開戦し、米海兵隊が奮戦。
1918年6月1日、第一次世界大戦西部戦線でアメリカ海兵隊を中心とした連合軍とドイツ軍がベロー・ウッドの戦いを開始した。 アメリカ軍は厳しい塹壕戦で激しい攻防を強いられながらも、断固たる攻撃で戦線を押し戻した。 この戦いはアメリカ軍の戦力を示す象徴的な勝利とされ、戦後の海兵隊伝統にも深い影響を与えた。
1918年 第一次世界大戦 ベロー・ウッドの戦い 英語版
1941年

第二次世界大戦: クレタ島の戦い(メルクール作戦)が、ドイツ軍のクレタ島全島占拠により終結。

1941年6月1日、メルクール作戦が完了し、ドイツ軍がクレタ島を占領して戦いが終結。
1941年5月20日に始まったメルクール作戦(クレタ島の戦い)は、6月1日にドイツ軍の全島占領で終結しました。 世界初の大規模空挺作戦として知られ、ドイツ空挺部隊が激しい抵抗を突破しました。 連合軍側も多くの空軍兵士や地上部隊を投入しましたが、撤退を余儀なくされました。 クレタ島占領は戦略的に地中海でのドイツ軍攻勢を支える拠点となりました。 戦後、空挺戦術の教訓として、各国軍に大きな影響を与えました。
1941年 第二次世界大戦 クレタ島の戦い クレタ島
1943年

BOAC777便がドイツ軍のJu 88爆撃機により撃墜(en:BOAC Flight 777)。当該便に搭乗していると思われたイギリス首相ウィンストン・チャーチル暗殺のためだったが、実際に搭乗していた映画俳優のレスリー・ハワードが犠牲となる。

1943年6月1日、BOAC777便がドイツ軍機に撃墜され、映画俳優レスリー・ハワードが死亡。
1943年6月1日、ロンドン発アルジェ行きのBOAC777便がドイツ空軍Ju 88爆撃機により撃墜されました。 標的は当時搭乗とされていたウィンストン・チャーチル暗殺といわれています。 実際に搭乗していたのは映画俳優レスリー・ハワードで、彼が犠牲者となりました。 事件は戦時下の航空輸送の危険性を象徴する出来事として知られています。 撃墜の真相や意図は未だに諸説があり、歴史的な謎として語り継がれています。
1943年 BOAC Ju 88 en:BOAC Flight 777 ウィンストン・チャーチル レスリー・ハワード
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 大阪大空襲。

1945年6月1日、米軍B-29爆撃機が大阪市を襲い、市街地を焦土とした大空襲が実行された。
1945年6月1日未明、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機が大阪市中心部を標的に大規模な爆撃を実施した。 焼夷弾と高性能爆弾により市街地は広範囲にわたって炎上し、多数の民間人が犠牲となった。 この空襲は大阪の産業基盤や住宅地に甚大な被害を与え、戦後の復興計画に大きな影響を及ぼした。 市民の悲惨な体験は戦争の記憶として、現在も多くの慰霊碑や資料館で語り継がれている。 平和教育の場でも取り上げられる象徴的な出来事である。
1945年 日本本土空襲 大阪大空襲
1962年

アドルフ・アイヒマンがテルアビブのラムレ刑務所で処刑。

1962年6月1日、ナチス親衛隊高官アドルフ・アイヒマンがイスラエルのラムレ刑務所で処刑されました。
第二次世界大戦中のホロコースト実行責任者とされるアドルフ・アイヒマンは、戦後アルゼンチンで潜伏していたところを諜報機関モサドにより拉致されました。 1961年にエルサレムで開かれた裁判では、ホロコーストの詳細な証言と証拠が公開され、世界的な注目を集めました。 1962年6月1日、裁判で死刑判決が確定し、ラムレ刑務所にて絞首刑が執行されました。 この処刑は戦後ドイツ戦犯への国際的な司法の在り方を示す象徴的な出来事とされています。 アイヒマンの処刑は、ホロコーストの記憶と正義の追及に関する議論に大きな影響を与えました。
1962年 アドルフ・アイヒマン テルアビブ
1988年

中距離核戦力全廃条約が発効。

アメリカとソ連が締結した中距離核戦力全廃条約が発効した日。
1988年6月1日、アメリカ合衆国とソビエト連邦が1987年に調印した中距離核戦力全廃条約(INF条約)が正式に発効。射程500〜5500kmの陸上配備型中距離核ミサイル全てを廃棄することを義務付け、冷戦下の日米欧の安全保障環境に大きな影響を与えた。条約履行により、ヨーロッパ各地に配備されていた数千基の核弾頭が削減され、核軍縮のモデルケースとして高く評価された。信頼醸成効果はその後のSTART I締結や更なる軍縮交渉につながり、東西陣営の緊張緩和に寄与した。1991年末までに全ての対象兵器は廃棄され、初の全面的核軍縮条約として歴史に刻まれた。
1988年 中距離核戦力全廃条約