1660年
メアリ・ダイアーがクエーカー教禁止令によりボストンで絞首刑。北米大陸最後の殉教者。
1660年6月1日、クエーカー教徒メアリ・ダイアーがボストンで殉教し、北米最後の殉教者となりました。
クエーカー教徒として信仰を貫いたメアリ・ダイアーは、ボストン植民地の法令により禁止された宗教活動を行いました。
1660年6月1日、彼女はボストンで絞首刑に処され、北米大陸最後の殉教者となります。
処刑前も繰り返し政府へ信仰の自由を訴え、釈放と追放を交互に経験しました。
ダイアーの死は植民地における宗教的寛容の必要性を浮き彫りにし、後の信教の自由運動に影響を与えました。
現在はアメリカ合衆国で宗教の自由を守る象徴的存在とされています。
1660年
メアリ・ダイアー
クエーカー教
ボストン
殉教
1870年
メアリー・E・キダーが、横浜の宗興寺にあるヘボン施療所で私塾を開講。フェリス女学院の前身となる。
1870年6月1日、メアリー・E・キダーが私塾を開講し、フェリス女学院の前身が始まりました。
1870年6月1日、アメリカ人宣教師メアリー・E・キダーが横浜の宗興寺にヘボン施療所内で私塾を開講しました。
この私塾は当初数名の少女を対象とし、英語や算術など西洋教育を取り入れていました。
後に福沢諭吉の助力を得てフェリス女学院へと発展し、日本初の女子教育機関の一つとなります。
当時の日本では女性の教育機会が限られており、画期的な試みと評価されました。
現在のフェリス女学院中学・高等学校の礎を築いた出来事です。
1870年
フェリス女学院
1903年
日比谷公園が開園。
東京・日比谷に日本初の洋風近代式公園が開園し、市民の憩いの場が誕生。
1903年6月1日、東京の中心部に位置する日比谷公園が正式に開園した。
当時としては珍しい洋風の近代式公園で、噴水や芝生広場、洋風建築が配置されていた。
市民の憩いの場として親しまれ、その後の都市公園整備のモデルとなり、都市生活の質を向上させた。
1903年
日比谷公園
1935年
日本放送協会(NHK)が海外向けラジオ放送(後のNHKワールド・ラジオ日本)を開始。
1935年6月1日、NHKが海外向けラジオ放送を開始し、日本の情報や文化を世界に発信した。
1935年6月1日、日本放送協会(NHK)は初めて海外向けラジオ放送をスタートさせました。
当初は英語やドイツ語などで日本のニュースや文化情報を伝える番組が組まれていました。
後に「NHKワールド・ラジオ日本」として発展し、戦後も国際的な放送を継続しました。
冷戦期には国際的な情報発信手段としての役割が強まりました。
現在ではインターネットや短波放送で世界中に向けた多言語放送を展開しています。
1935年
日本放送協会
NHKワールド・ラジオ日本
1940年
日本で配給切符制度が本格化。以降、米、味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など生活必需品10品目について自由な売買に制限が加えられた。
1940年6月1日、日本で生活必需品の配給切符制度が本格導入され、物資不足が日常化した。
1940年6月1日、日本政府は米や味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目の配給切符制度を本格実施しました。
戦時体制の強化に伴い、民需品の生産と流通が厳しく制限されるようになりました。
配給切符は国民一人一人に支給され、必要量以上の購入が禁止されました。
この制度は終戦まで続き、国民生活に大きな影響を与えました。
物資不足とブラックマーケットの拡大は戦時下の社会問題となりました。
配給
米
味噌
醤油
塩
マッチ
砂糖
木炭
生活必需品
1949年
前日に施行された国立学校設置法に基づき、新制国立大学14校が開学。
1949年、新制国立大学設置法の施行により、14校の国立大学が6月1日に開学した。
国立学校設置法は1949年5月31日に施行され、翌6月1日に14校の新制国立大学が開学した。
東京大学、京都大学をはじめとする旧制大学を母体とし、学部制を採用した。
新制大学は戦後の教育民主化と高度人材育成を目的とし、学際的研究を推進した。
開学当初は施設不足や教員確保といった課題があったが、改革の第一歩として重要視された。
この改革により日本の高等教育制度は大きく刷新され、経済復興を技術力と人材面で支えた。
国立大学
1949年
東京都下で戦後初のビアホールが開業。
1949年、東京都内に戦後初のビアホールが開業し、庶民の憩いの場として親しまれ始めた。
戦後の物資統制緩和によりビール消費が復活し、1949年6月1日に東京都下で戦後初のビアホールがオープンした。
大衆向けの飲食空間としてビールと洋食を提供し、新たな社交文化を創出した。
当時はまだ物資不足が残っていたものの、戦前の雰囲気を感じさせる憩いの場として人気を博した。
この開業を契機にビアホールやビアガーデンが全国に広がり、日本の飲食文化に定着した。
現在でも夏季の定番イベントとして多くの人に楽しまれている。
ビアホール
1958年
大阪のラジオ局・新日本放送が社名を毎日放送(MBS)に変更。
1958年6月1日、大阪の新日本放送が毎日放送(MBS)に社名変更しました。
1958年6月1日、大阪のラジオ局・新日本放送が社名を毎日放送(MBS)に変更しました。旧社名は主にラジオ放送事業を指していましたが、新名称でテレビ事業への展開を示しました。社名変更後、同年にテレビ放送も開始し、地域の主要メディアとして成長を遂げました。MBSはニュースやバラエティ、ドラマなど多彩な番組制作で視聴者を魅了しました。その後、全国ネットワークとの提携を進め、関西地区の放送局として確固たる地位を築きました。
毎日放送
1958年
ラジオ山陽(当時)のテレビ部門、ラジオ山陽テレビ(後のRSKテレビ)開局。
1958年6月1日、ラジオ山陽テレビ(現RSKテレビ)が開局しました。
1958年6月1日、ラジオ山陽のテレビ部門としてラジオ山陽テレビ(後のRSKテレビ)が開局しました。岡山・香川両県を放送エリアとし、地域密着型のテレビ番組を提供し始めました。当初は映像設備や技術者の不足など課題もありましたが、地元情報の発信で支持を得ました。その後、放送内容を拡充し、ニュースやドラマ、教育番組など多彩な編成を展開しました。社名はのちにRSK山陽放送テレビに改称され、現在は中国地方の主要民間放送局として親しまれています。
ラジオ山陽(当時)
ラジオ山陽テレビ(後のRSKテレビ)
1959年
朝日放送と大阪テレビ放送が合併、朝日放送テレビ(ABCテレビ)として放送開始。
1959年6月1日、朝日放送と大阪テレビ放送が合併し「朝日放送テレビ(ABCテレビ)」として放送を開始しました。
1959年6月1日、朝日放送と大阪テレビ放送が合併し、新たに「朝日放送テレビ(ABCテレビ)」として放送を開始しました。
この合併により関西圏の放送ネットワークは統合され、番組制作や報道体制の効率化が図られました。
ABCテレビは独自制作番組や地域密着型のニュースを強化し、関西の視聴者に新たなエンターテインメントを提供しました。
後の全国ネットワーク拡大の基盤となったこの出来事は、日本の放送史においても重要な転換点とされています。
今日まで続くABCテレビの歴史は、この日のスタートに端を発しています。
1959年
朝日放送
大阪テレビ放送
朝日放送テレビ(ABCテレビ)
1959年
『ヤン坊マー坊天気予報』放送開始。
1959年6月1日、テレビ番組『ヤン坊マー坊天気予報』の放送が始まりました。独特のキャラクターを用いた天気予報として広く親しまれています。
『ヤン坊マー坊天気予報』は、キャラクターを用いて天気情報や農業気象をわかりやすく伝える番組としてスタートしました。
番組の冒頭では「ヤン坊」と「マー坊」が登場し、視聴者に親しみやすい形で気象データを解説しました。
スタート当初から農家の生活に密着した情報提供が評価され、地域の気象観測とも連携しました。
その独自の演出と実用性の高さで人気を博し、後の気象情報番組の先駆け的存在となりました。
今日でも懐かしの番組として語り継がれ、放送文化史における一角を占めています。
ヤン坊マー坊天気予報
1960年
福井放送・琉球放送、両局のテレビジョン放送開始。
1960年6月1日、福井放送(FBC)と琉球放送(RBC)がテレビ放送を開始し、それぞれ福井県と沖縄県の民間テレビ局として誕生しました。
福井放送(FBC)は福井県で初の民間テレビ局として開局し、地域ニュースや情報番組の制作を開始しました。
琉球放送(RBC)は沖縄のテレビメディアとして産声を上げ、地元文化や風土を紹介する番組で島民の支持を集めました。
両局の開局により、テレビ視聴の地域格差が縮小し、各地の視聴者に多様な番組が届けられるようになりました。
特にRBCは、日本復帰前の沖縄において重要な情報インフラとして機能し、地元ニュースの伝達に貢献しました。
これらの放送開始は、日本国内における地方局ネットワークの発展を象徴する出来事でした。
1960年
福井放送
琉球放送