1223年

チンギス・カンの西征: カルカ河畔の戦い。モンゴル帝国軍がキプチャク・ルーシ連合軍に勝利。

1223年5月31日、チンギス・カン率いるモンゴル帝国軍がカルカ河畔でキプチャク・ルーシ連合軍を撃破しました。
モンゴル帝国の西征の一環として行われたカルカ河畔の戦いは、モンゴル軍が東ヨーロッパへ進出する足がかりとなった重要な戦闘です。 キプチャク(クマン人)とルーシ公国が連合して迎え撃ちましたが、巧みな戦術を駆使したモンゴル軍の機動力と組織力に敗北しました。 この勝利によりモンゴル帝国はヨーロッパ内陸部への進出を加速させ、後の侵攻ルートを確立しました。 当時のヨーロッパ諸国に大きな衝撃を与え、東西交流の歴史に深い影響を残しました。 戦後、モンゴル軍は意外にも大規模な追撃を行わず、一時的に撤退しました。
1223年 チンギス・カンの西征 カルカ河畔の戦い モンゴル帝国 キプチャク ルーシ
1578年

パリに現存する最古の橋・ポンヌフが起工。

1578年5月31日、パリ最古の石橋ポンヌフの建設が始まりました。
フランス王アンリ3世の命により起工されたポンヌフは、セーヌ川に架かる最古の現存橋です。 家屋を持たない設計で、橋の両側に歩道を配し市民の往来が容易になる先進的な構造でした。 完成は1607年で、当初は新しさを讃える意味の"ポン・ヌフ(新しい橋)"と命名されました。 石造アーチ橋としての技術を結集し、その優美な姿は後にパリの象徴的景観となりました。 今日も多くの観光客を魅了し、映画や絵画など文化作品の舞台として親しまれています。
1578年 パリ ポンヌフ
慶長9年5月3日

江戸幕府が京都・堺・長崎で糸割符制を導入。

1604年(慶長9年5月3日)、江戸幕府が京都・堺・長崎で糸割符制を導入し、絹織物流通を統制しました。
糸割符制は絹織物の原料となる生糸の流通を管理する制度で、江戸幕府が権益確保と物価安定を図るために実施しました。 京都は西陣、堺は商工業地、長崎は海外貿易の拠点とされ、それぞれに発行された権利証(割符)によって生糸の取扱量が制限されました。 これにより市場における価格の乱高下を抑え、幕府による歳入確保にもつながりました。 一方で業者間の不満や密輸の増加を招き、近世日本の経済統制政策の一端を象徴する出来事です。 後の貨幣改鋳などと併せて、江戸時代の経済運営を理解する上で重要な制度です。
1604年 慶長 5月3日 江戸幕府 糸割符
享保15年4月15日

江戸幕府が上米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻す。

1730年(享保15年4月15日)、江戸幕府は上米の制を停止し、参勤交代を1年交代に戻しました。
上米の制は大名が江戸滞在の際に幕府へ米を納める負担を軽減するための制度でしたが、財政悪化を招く一因ともなりました。 享保の改革の一環としてこの制度を停止し、参勤交代の期間を元の一年毎に戻すことで、大名の江戸滞在を強化し直接統制を図りました。 この変更は幕府の財政再建と治安維持を目的とし、全国大名への抑制策としても機能しました。 大名側には経済的・時間的な負担増となりましたが、幕府はこれにより権威を高め、江戸中心の統治体制を強固にしました。 当時の幕政改革を代表する出来事の一つとして評価されています。
1730年 享保 4月15日 上米の制 参勤交代
1795年

フランス革命: 革命裁判所廃止。

1795年5月31日、フランス革命期の革命裁判所が廃止され、恐怖政治の終焉を象徴しました。
革命裁判所は1793年に設置され、反革命派の粛清を主導して恐怖政治を支えました。 マクシミリアン・ロベスピエールらジロンド派・山岳派の対立を経て、恐怖政治の拡大は国内外に大きな衝撃を与えました。 テュイルリー宮殿のクーデター(テルミドールの反動)後、裁判所の権限は大幅に縮小され、ついに1795年に正式廃止されました。 この決定により多くの政治囚が釈放され、フランス革命は共和政中の比較的安定期へと移行しました。 革命の理想と暴力の狭間で揺れた時代の転換点として評価されています。
1795年 フランス革命 革命裁判所
1832年

フランスの数学者ガロアが、恋愛を巡る決闘で死亡。

1832年5月31日、数学者エヴァリスト・ガロアが恋愛を巡る決闘で命を落としました。
ガロアは群論の基礎を確立し、代数学に革命をもたらした天才数学者でした。 1832年、未練のあった女性をめぐる口論がもとでデュエル(決闘)に発展し、深手を負って翌日に帰らぬ人となりました。 当時わずか20歳という若さでの死は学界に大きな衝撃を与え、その才能を惜しむ声が絶えませんでした。 生前に論文の多くが認められず、死後に彼の論文が発見・評価されたことで、現代数学へ与えた影響は計り知れません。 フランス革命期の混乱と若き天才の悲劇は、数学史上のドラマとして語り継がれています。
1832年 ガロア 決闘
1859年

ロンドン・ウェストミンスター宮殿のビッグ・ベンの大時計が動き始める。

1859年5月31日、ウェストミンスター宮殿の大時計「ビッグ・ベン」が初めて稼働を開始しました。
ビッグ・ベンは当初、国会議事堂の時計塔に設置されたイギリス最大級の時計として設計されました。 設計はエドワード・ドウルウィッチ、後にベンジャミン・ホールの名を取って愛称が定着しました。 正確さと耐久性を追求した機械構造は当時の最新技術の粋を集め、鐘の音はロンドン市民に時を告げました。 完成当初は振り子の調整不良などトラブルもありましたが、改良を重ね今日までほぼ正確に時を刻み続けています。 イギリスのシンボル的存在として映画や文学作品にも登場し、観光名所として世界中から注目を集めています。
1859年 ロンドン ウェストミンスター宮殿 ビッグ・ベン
1862年

南北戦争: セブンパインズの戦い。

1862年5月31日、アメリカ南北戦争のセブンパインズの戦いが行われました。
バージニア州ペンデルトン郡付近で行われたこの戦いは、北軍のジョージ・マクレラン将軍と南軍のロバート・E・リー将軍の初期対決の一つです。 北軍はリッチモンド進撃を試みましたが、南軍の巧妙な反撃に遭い痛手を負いました。 結果的に北軍は撤退を余儀なくされ、リッチモンドへの直接攻略は一時頓挫しました。 この戦いでの経験は、両軍の戦術教訓となり、後の大規模戦闘での指導に影響を与えました。 アメリカ内戦史における重要な転換点として評価され、戦死者数の多さも記憶されています。
1862年 南北戦争 セブンパインズの戦い
1864年

南北戦争: コールドハーバーの戦い。

1864年5月31日、アメリカ南北戦争のコールドハーバーの戦いが始まりました。
バージニア州リッチモンド北方のコールドハーバー周辺で、北軍グラント将軍率いる軍が南軍の防衛線を攻撃しました。 北軍の強襲は甚大な犠牲を伴い、最終的に南軍の堅固な防御に敗北しました。 この戦いでの大損害は北軍の士気に影響を与え、人命の無駄を巡る議論を呼び起こしました。 戦闘は数日間続き、特に攻撃初日に被った死傷者の多さはアメリカ内戦最大級と言われます。 後のピーターズバーグ包囲戦への移行前哨戦とされ、内戦の後半戦の様相を象徴する出来事となりました。
1864年 コールドハーバーの戦い
1866年

フェニアン襲撃: ナイアガラ襲撃。

1866年5月31日、アイルランド独立を目指すフェニアン同盟によるナイアガラ襲撃が行われました。
アイルランド独立を掲げるアメリカのフェニアン同盟が、英国領カナダに侵入しナイアガラ付近を襲撃しました。 彼らはカナダ住民の支持を得て英国に圧力をかけようと試みましたが、地元民やカナダ政府軍の抵抗に遭い撤退を余儀なくされました。 この襲撃はフェニアン運動の象徴的事件となり、英米関係やカナダ自治への議論を活性化しました。 武力行動の限界が明らかになった一方で、アイルランド問題の国際的注目を高める結果となりました。 その後もフェニアン運動は散発的に続き、後の独立運動に影響を与えました。
1866年 フェニアン襲撃
1902年

第二次ボーア戦争: フェリーニヒング条約が締結され、戦争が終結。トランスヴァール共和国・オレンジ自由国がイギリス植民地となる。

第二次ボーア戦争がフェリーニヒング条約で終結し、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国がイギリス植民地となった出来事。
第二次ボーア戦争は1899年に英領南アフリカとボーア人(オランダ系移民)によって勃発した長期戦です。 戦争ではゲリラ戦やスカウト部隊が多用され、大きな人的・物的損失をもたらしました。 1902年5月31日にオランダ語名でフェリーニヒング条約と呼ばれる和議条約が締結されました。 これによりトランスヴァール共和国とオレンジ自由国はイギリスの保護領として組み込まれました。 戦後、両地域はイギリス帝国内で統合され、南アフリカ連邦の成立へとつながります。 この条約はアフリカにおける欧州列強の勢力再編に大きな影響を与えました。
1902年 第二次ボーア戦争 フェリーニヒング条約 トランスヴァール共和国 オレンジ自由国
1909年

両国国技館が完成。

大相撲の聖地である両国国技館が完成し、以降多くの本場所が開催されるようになった出来事。
両国国技館は東京都墨田区両国に所在する大相撲専用の体育館です。 1909年5月31日に完成し、当時の最新建築技術を用いた鉄骨造りのドーム屋根が特徴です。 収容人数は約13,000人で、多くの相撲ファンを収容できる規模を誇りました。 竣工後、正式な落成式が行われ、横綱や行司、関係者が参列しました。 以降、毎年東京場所をはじめとする大相撲本場所が開催されるようになりました。 日本の国技としての相撲を象徴する施設として、現在まで続く伝統を支えました。
1909年 両国国技館