1631年

フランス初の新聞『ラ・ガゼット』が創刊。

1631年、フランス初の定期新聞『ラ・ガゼット』が創刊。近代ジャーナリズムの先駆けとなりました。
1631年、ジャン・マリー・ル・ペルティエがフランス初の定期刊行新聞『ラ・ガゼット』を創刊しました。 当時は王室の許可制の下で政治・文化情報を広く伝えるメディアとして注目されました。 後の新聞に見られる社説や広告の掲載も行われ、現代新聞の原型を築きました。 欧州各国にも影響を与え、ジャーナリズム発展の契機となったと評価されます。 現在ではフランス報道文化のルーツとして位置付けられています。
1631年 フランス 新聞 ラ・ガゼット フランス語版
1885年

福岡県令より福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)の設置が告示される。(創立記念日)

1885年、福岡県令の告示により修猷館の設置が公示された日。現福岡県立修猷館高等学校の創立記念日です。
1885年5月30日、福岡県令の告示により修猷館が設置されました。修猷館は藩校時代の伝統を受け継ぎ、学問と志を養う場として創立されました。現在の福岡県立修猷館高等学校の前身にあたり、創立記念日にあたります。学校は「修学力行」を校訓に掲げ、文武両道を重視する伝統校として知られます。明治期の教育改革の一環として地方教育の近代化を象徴する設立例の一つです。
1885年 福岡県立修猷館高等学校
1925年

五・三〇事件: 上海でイギリス官憲が中国人労働者に発砲する。

1925年、上海のイギリス租界で発生した五・三〇事件で労働者デモに対して発砲が行われた日。中国の反帝国主義運動を激化させました。
1925年5月30日、上海の公共租界内で中国人労働者の賃上げと労働条件改善を求めるデモが発生しました。イギリス租界の警察当局はデモ隊に向けて発砲し、多くの死傷者が出る事態となりました。この事件は五・三〇事件と呼ばれ、中国全土の反帝国主義運動に大きな衝撃を与えました。事件後、中国共産党や国民党などの政治勢力が連帯行動を強化し、国民的抗議運動へと発展しました。五・三〇事件は近代中国の労働運動史における転機として位置付けられています。
1925年 五・三〇事件 上海
1950年

人民広場事件: 皇居前広場で日本共産党支持者によるデモ隊と占領軍が衝突。

1950年、日本の皇居前広場で日本共産党支持者のデモ隊と占領軍が衝突した日。戦後政治の緊張が高まりました。
1950年5月30日、皇居前広場で日本共産党支持者らが占領軍に対し集会を開きました。占領軍当局はデモに対して警戒を強め、衝突に至る事態となりました。衝突により多くの負傷者が出て、報道を通じて国内外に衝撃が広がりました。この事件は言論・表現の自由と占領政策との緊張関係を象徴する出来事となりました。日本の民主化過程における重要な一幕として後世に語り継がれています。
1950年 人民広場事件 皇居前広場 日本共産党
1952年

仙台市の大梶南地域にて、民戦系の在日コリアンが民団系の住民を襲撃。警察が出動する事態に発展。(大梶南事件)

1952年5月30日、仙台市大梶南地域で民戦系と民団系の在日コリアン住民が衝突し、警察出動にまで発展しました。
戦後日本で在日コリアン内部の対立が激化した大梶南事件です。民戦系と民団系の住民間で意見の相違が暴力的衝突へと発展しました。襲撃を受けて警察が出動し、地域の緊張が全国的に注目を集めました。事件は在日コリアンコミュニティの統一や警察対応策を巡る議論を呼び起こしました。この出来事は日本社会における少数者コミュニティの複雑な課題を浮き彫りにしました。
1952年 仙台市 民戦 在日コリアン 民団 大梶南事件
1952年

東京都板橋に存在した岩之坂上派出所を在日朝鮮人ら約300人が襲撃。警察官12人が拳銃を発射して応戦したため死者3人、重軽傷者10余人。

1952年5月30日、東京・板橋の岩之坂上派出所が在日朝鮮人らに襲撃され、警察との銃撃戦となりました。
在日朝鮮人コミュニティ内の対立が表面化した事件で約300人が襲撃に関与しました。警察官12人が拳銃で応戦し、死者3人と重軽傷者10余人が発生しました。襲撃の背景にはコミュニティ間の政治的緊張がありました。事件後、警察改革や地域社会での人権保護策が議論されました。戦後日本の治安問題と少数者対策の難しさを示す出来事です。
板橋
1961年

京都市内で京都府学生自治連合のデモ隊と警官隊が衝突。双方に重軽傷者69人。デモは同年6月3日にも行われて多数の負傷者を出した。

1961年5月30日、京都市で学生自治連合のデモ隊と警官隊が衝突し、多数の重軽傷者が出ました。
京都府学生自治連合によるデモ活動中に警官隊と激しく対峙した事件です。投石や棒術を伴う衝突で双方合わせて69人の重軽傷者が発生しました。学生運動の高揚と警察の強硬対応が相まって地域社会に衝撃を与えました。同年6月3日にも再度大規模デモが行われ、事態は長期化しました。高度経済成長期の日本における学生運動を象徴する重要な出来事です。
1961年 京都市 6月3日
1989年

六四天安門事件: 天安門広場に自由の女神像を模した民主の女神像が設置される。

天安門広場に「民主の女神像」が設置され、運動の象徴となりました。
1989年5月30日、北京の天安門広場に学生らが製作した「民主の女神像」が密かに設置されました。像は自由の女神を模したもので、民主化を求める抗議運動の象徴となりました。国際的にも大きな注目を集め、政府との衝突の前段階として知られています。像は数日後に撤去されましたが、その後も民主化運動の象徴として語り継がれています。
1989年 六四天安門事件 天安門広場 自由の女神像 民主の女神像 中国語版