大同4年4月13日
第52代天皇・嵯峨天皇が即位。
809年4月13日、第52代天皇・嵯峨天皇が即位しました。平安時代初期の政治と文化の基盤を築いた天皇です。
809年4月13日、嵯峨天皇が即位し第52代天皇となりました。
在位中は平安京の行政制度の整備を進め、中央集権体制の強化を図りました。
弘仁格式などの法制編纂を命じ、律令制度の運用基準を明確にしました。
また、仏教保護政策を行い、東大寺大仏の修復を支援しました。
学問や文化面にも力を入れ、弘仁貞観文化の発展に寄与しました。
後世にも影響を与えた政治手腕で知られ、平安時代初期を代表する天皇です。
809年
大同
4月13日
嵯峨天皇
弘仁10年5月3日
空海が高野山で金剛峰寺の開創に着手。
819年、高野山に金剛峰寺の創建に着手し、日本密教の総本山となる礎を築きました。
819年、高野山に密教の根本道場となる金剛峰寺の創建に着手しました。
空海(弘法大師)は日本密教の開祖として山上の厳しい環境に修行道場を開きました。
多くの僧侶や修行者を受け入れ、学問と修行の中心地として発展しました。
やがて金剛峰寺は真言宗の総本山となり、建築美術や美術工芸の発展にも寄与しました。
現存する伽藍はユネスコ世界遺産に登録され、現在も巡礼者が絶えない霊場です。
819年
弘仁
5月3日
空海
高野山
金剛峰寺
元弘3年/正慶2年4月16日
足利尊氏が、後醍醐天皇による倒幕挙兵の討伐のために入京。
1333年、足利尊氏が後醍醐天皇の倒幕挙兵討伐のため京に進入。室町幕府成立への序章となる動きです。
1333年、足利尊氏が後醍醐天皇による倒幕挙兵鎮圧のため京へ入京しました。
この動きは鎌倉幕府と朝廷の対立をさらに激化させました。
尊氏は当初幕府側の将軍として討伐に従事し、その後南北朝時代の始まりを促しました。
建武の新政と武家政権の対立構造が鮮明になった瞬間と言われています。
この一連の流れが室町幕府成立への重要な契機となりました。
中世日本の政権交代劇を象徴する歴史的出来事です。
1333年
元弘
正慶
4月16日
足利尊氏
後醍醐天皇
1431年
ジャンヌ・ダルクが、3ヶ月ほど続いた異端審問の末、フランスのルーアンで火刑に処される。
1431年、百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクがルーアンで異端審問の末火刑に処されました。殉教は後世に大きな影響を与えました。
1431年、百年戦争中の英雄ジャンヌ・ダルクがルーアンで異端審問を受けました。
3ヶ月にわたる裁判の結果、異端の罪で火刑判決が下されました。
彼女の殉教はフランス国民の士気を高め、後の王権強化に寄与しました。
カトリック教会は後に彼女を聖女として列聖し、信仰の象徴とされました。
文学や美術、演劇の題材としても多く取り上げられ、象徴的人物となっています。
1431年
ジャンヌ・ダルク
ルーアン
1434年
フス戦争: リパニの戦い。
1434年、フス戦争におけるリパニの戦いで連合軍が審派を破り、戦局に大きな転機をもたらしました。
1434年、チェコ地域を舞台にフス戦争のリパニの戦いが起こりました。
審派(フス派)に対抗する連合軍が決定的な勝利を収めました。
戦闘では火砲などの技術的優位が勝敗を左右したと伝えられています。
この結果、フス派の勢力は大きく衰退し、宗教改革運動に影響を与えました。
チェコにおける宗教的安定への一歩となった戦いです。
1434年
フス戦争
リパニの戦い
1536年
イングランド王ヘンリー8世が3番目の王妃ジェーン・シーモアと結婚。
1536年、ヘンリー8世が3番目の王妃ジェーン・シーモアと結婚。宗教改革と王位継承問題に深く関わります。
1536年、イングランド王ヘンリー8世がジェーン・シーモアと結婚しました。
ジェーンは後に息子エドワード6世を出産し、王位継承に影響を与えました。
この結婚は離婚問題を巡るカトリック教会との対立を背景にしています。
ヘンリー8世は宗教改革を推進し、イングランド国教会を成立させました。
ジェーンは短い在位期間で亡くなったものの、国民に深い印象を残しました。
1536年
イングランド
ヘンリー8世
ジェーン・シーモア
1631年
フランス初の新聞『ラ・ガゼット』が創刊。
1631年、フランス初の定期新聞『ラ・ガゼット』が創刊。近代ジャーナリズムの先駆けとなりました。
1631年、ジャン・マリー・ル・ペルティエがフランス初の定期刊行新聞『ラ・ガゼット』を創刊しました。
当時は王室の許可制の下で政治・文化情報を広く伝えるメディアとして注目されました。
後の新聞に見られる社説や広告の掲載も行われ、現代新聞の原型を築きました。
欧州各国にも影響を与え、ジャーナリズム発展の契機となったと評価されます。
現在ではフランス報道文化のルーツとして位置付けられています。
1631年
フランス
新聞
ラ・ガゼット
フランス語版
1635年
三十年戦争: 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世とハイルブロン同盟の指揮官ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルが和平条約「プラハ条約」を締結。
1635年、三十年戦争中にプラハ条約が締結され、一部地域で和平が実現しました。戦争の転機となった条約です。
1635年、三十年戦争下のプラハ条約が締結されました。
神聖ローマ皇帝フェルディナント2世とハイルブロン同盟側のベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルが和平に合意しました。
この条約によりボヘミア=プファルツ地域での戦闘は一時的に終息しました。
複雑な同盟構造の中で重要な転換点となり、戦局に影響を与えました。
ただしプロテスタント勢力の完全な包摂には至らず、戦争はその後も継続しました。
1635年
三十年戦争
神聖ローマ皇帝
フェルディナント2世
ハイルブロン同盟
ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル
プラハ条約
1814年
ナポレオン戦争: パリ条約締結。フランス帝国と第六次対仏大同盟諸国との戦争が終結。
1814年、ナポレオン戦争を終結させるパリ条約が締結。ヨーロッパ再編への第一歩となりました。
1814年、ナポレオン戦争を収束させるパリ条約が締結されました。
フランス帝国と第六次対仏大同盟諸国との間で正式に講和が成立しました。
これによりナポレオンはエルバ島へ追放され、欧州の再編が本格化します。
ウィーン会議への道が開かれ、国際秩序構築への議論が始まりました。
近代ヨーロッパ史における平和構築の先駆けとして位置付けられています。
1814年
ナポレオン戦争
パリ条約
フランス帝国
第六次対仏大同盟
1854年
アメリカ合衆国でカンザス・ネブラスカ法が成立し、カンザス準州とネブラスカ準州が発足。
1854年、米国でカンザス・ネブラスカ法が成立し、両準州が発足。奴隷制問題が激化する要因となりました。
1854年、アメリカ合衆国議会でカンザス・ネブラスカ法が可決・成立しました。
この法によりミズーリ協定の奴隷制禁止ラインが撤廃され、各州の住民投票で奴隷制の可否を決定できるようになりました。
同法の施行によりカンザス準州とネブラスカ準州が新たに発足しました。
奴隷制を巡る北部・南部の政治的対立が一層激しくなり、南北戦争への道筋が形成されました。
アメリカ政治の分断と内戦への序章となった重要な転換点です。
1854年
カンザス・ネブラスカ法
カンザス準州
ネブラスカ準州
1885年
福岡県令より福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)の設置が告示される。(創立記念日)
1885年、福岡県令の告示により修猷館の設置が公示された日。現福岡県立修猷館高等学校の創立記念日です。
1885年5月30日、福岡県令の告示により修猷館が設置されました。修猷館は藩校時代の伝統を受け継ぎ、学問と志を養う場として創立されました。現在の福岡県立修猷館高等学校の前身にあたり、創立記念日にあたります。学校は「修学力行」を校訓に掲げ、文武両道を重視する伝統校として知られます。明治期の教育改革の一環として地方教育の近代化を象徴する設立例の一つです。
1885年
福岡県立修猷館高等学校
1876年
オスマン帝国で青年トルコ党によるクーデター。皇帝アブデュルアズィズが廃位され、甥のムラト5世が即位。93日で退位。
1876年、オスマン帝国で青年トルコ党のクーデターが成功しスルタンが廃位された日。ムラト5世が即位したものの93日で退位しています。
1876年5月30日、青年トルコ党がイスタンブルでクーデターを完遂しました。当時のスルタン、アブデュルアズィズは廃位され、甥のムラト5世が即位しました。ムラト5世は即位からわずか93日で退位を余儀なくされ、権力はアブデュルハミト2世に移りました。この騒乱はオスマン帝国の改革運動と近代化への転換点とされています。クーデターによって締結された王位継承の経緯は後の政治動向に大きな影響を与えました。
1876年
オスマン帝国
アブデュルアズィズ
ムラト5世