363年

クテシフォンの戦い: ローマ皇帝ユリアヌスがサーサーン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、クテシフォンの街は落とせず撤退。

ローマ皇帝ユリアヌスがサーサーン朝の首都クテシフォンを包囲したものの攻略に失敗し、撤退した戦いです。
363年の春、ローマ皇帝ユリアヌスは対ペルシア遠征の一環としてサーサーン朝の首都クテシフォンを目指しました。 数日にわたって城壁に迫るも、強固な防御と補給線の問題から攻略を断念。 ローマ軍は撤退を余儀なくされ、その後ユリアヌス自身も戦没することとなりました。 この遠征はローマ帝国の東方拡大の限界を示した重要な出来事です。 歴史的に見ても迫力ある攻城戦の一例として知られています。
363年 クテシフォンの戦い 英語版 ローマ皇帝 ユリアヌス サーサーン朝 クテシフォン
1176年

レニャーノの戦い: ロンバルディア同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍を破る。

ロンバルディア同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍を破った、中世イタリアの戦いです。
1176年、北イタリアでロンバルディア諸都市が結束して同盟を結成。 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)はイタリア遠征を通じて皇権強化を図りました。 レニャーノ付近で両軍が衝突し、市民兵主体の同盟軍が一丸となって皇帝軍を撃退。 この敗北により皇帝はイタリアにおける影響力を大きく失いました。 戦いは都市国家同盟と皇帝権力の対立構造を浮き彫りにしました。
1176年 レニャーノの戦い ロンバルディア同盟 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世
正応6年4月22日

平禅門の乱。

鎌倉時代に発生した反乱の一つで、詳細は限られた史料しか残っていない事件です。
平禅門の乱は正応6年(1293年)4月22日に発生した反乱とされています。 具体的な背景や指導者については史料が乏しく、詳細は不明な点が多いです。 一部資料によると、幕府への不満を背景に小規模な蜂起が起きた可能性が指摘されています。 鎌倉幕府は迅速に部隊を派遣し、乱は短期間で鎮圧されたと伝えられています。 発生規模や被害状況は明確に記録されておらず、研究対象として解明が待たれています。
1293年 正応 4月22日 平禅門の乱
1453年

コンスタンティノポリスが陥落し、東ローマ帝国滅亡。

オスマン帝国がコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国が滅亡した歴史的事件です。
1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世率いる軍がコンスタンティノポリスを包囲。 大砲を用いた攻城戦術により、強固な城壁を次々に破砕しました。 ついに聖ソフィア大聖堂近くの城門が突破され、都市は陥落。 これにより千年以上続いた東ローマ帝国は終焉を迎え、中世からルネサンスへの転換点となりました。 学者や技術者が西ヨーロッパへ逃れたことで知識の移転が進み、大航海時代の幕開けにも影響を与えました。
1453年 コンスタンティノポリスが陥落
天正10年5月8日

備中高松城の戦い: 豊臣秀吉が、水攻めのため備中高松城を包囲する堤防の建設を開始。12日間で完成。

豊臣秀吉が備中高松城を水攻めで包囲するため、堤防の建設を開始し12日で完成させた戦いです。
天正10年(1582年)5月8日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は備中高松城を攻略するため水攻めを決行。 近隣の川の水を引き込むために堤防を築き、わずか12日間で完成させました。 この戦術により城内は水に沈み、防衛側は撤退を余儀なくされました。 水攻めは当時の日本の城攻め戦術として画期的で、その後の戦術研究にも大きな影響。 秀吉の工兵能力と迅速な兵站構築の巧みさを示す一例として知られています。
1582年 天正 5月8日 備中高松城の戦い 豊臣秀吉 備中高松城
1780年

アメリカ独立戦争: ワックスホーの虐殺。

アメリカ独立戦争中に発生したワックスホーの虐殺で、捕虜となる民兵が殺害されました。
1780年5月29日、サウスカロライナ州ワックスホー付近で発生した事件。 イギリス軍のロイヤリスト部隊が降伏したアメリカ民兵隊に容赦なく発砲したと伝えられ、正確な犠牲者数は不明ですが多数の民兵隊兵士が処刑されたとされています。 指揮官バンノンストレ・タールトンの激しい戦術は「タールトンの四分の一も助けない」として有名。 事件はパトリオットの抗英感情を一層強めるきっかけとなり、民心の結束を促しました。 戦争史上の論争点としても記憶される惨事です。
1780年 アメリカ独立戦争 ワックスホーの虐殺
1943年

第二次世界大戦・アリューシャン方面の戦い: アッツ島の日本軍守備隊が米上陸軍の攻撃で全滅し、アッツ島の戦いが終結。

アリューシャン方面の戦いでアッツ島の日本守備隊が全滅し、戦いが終結した日です。
1943年5月29日、米軍がアッツ島に上陸して以来続いていた戦闘で、日本守備隊が全滅し戦闘が終結しました。 アリューシャン列島の一角で行われたこの戦いは、米本土に最も近い日本占領地奪回作戦の一環でした。 日本兵は最後まで降伏せず、山岳や雪原を利用した頑強な抵抗を見せましたが、兵站の絶たれた状態で敗北しました。 アッツ島の奪回はアメリカ軍にとって戦略的に大きな成果となり、北太平洋の制海権確保に寄与しました。 この戦いは本土近郊で行われた数少ない地上戦として歴史に記録されています。
1943年 第二次世界大戦 アリューシャン方面の戦い アッツ島 アッツ島の戦い
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 横浜大空襲。

1945年5月29日、米軍による横浜大空襲が実施され、市街地に甚大な被害が及びました。
第一段階でB-29爆撃機が襲来し、火災が広範囲に拡大しました。 市街地中心部が焼け野原となり、多くの民間人が犠牲になりました。 爆撃は数時間続き、建物の8割以上が被災したと報告されています。 戦争末期の空襲としては最大規模の一つで、復興にも大きな影響を及ぼしました。 戦後、被害調査や復旧作業が進められ、地域の再建が図られました。
1945年 日本本土空襲 横浜大空襲
1993年

元山で北朝鮮によるミサイル発射実験。

1993年、北朝鮮が元山付近で弾道ミサイル発射実験を行いました。
1993年5月29日、北朝鮮は元山付近の東海岸施設から弾道ミサイルの発射実験を実施しました。公式には地対艦ミサイルとされ、周辺海域に向けて数発が射出されました。この実験は国際社会に衝撃を与え、アメリカや日本をはじめとする周辺諸国が安全保障上の懸念を表明しました。北朝鮮はこれを自国防衛の権利として正当化し、以後の核・ミサイル開発路線の一環と位置づけました。この発射実験は朝鮮半島情勢の緊張を一層高める催しとなり、後の核問題交渉へ影響を及ぼしました。
1993年 元山 北朝鮮によるミサイル発射実験