慶長10年4月12日

豊臣秀頼が右大臣に任ぜられる。

豊臣秀頼が右大臣に任ぜられ、豊臣家の政権内で地位を高めました。
慶長10年(1605年)4月12日、豊臣秀頼が朝廷から右大臣に任命されました。 この任命は秀吉没後、政権を継承した秀頼の権威を示す狙いがありました。 右大臣は律令制下の高位官職で、当時としては名誉職としての性格を強く持っていました。 しかし実際の政務執行は大老や老臣らが担い、秀頼は形式的な地位を得たにとどまります。 この動きは関ヶ原の戦い後の豊臣政権の不安定さを象徴するエピソードともいえます。
1605年 慶長 4月12日 豊臣秀頼 右大臣
1660年

フランスに亡命していたチャールズ2世がロンドンに入城してイングランド王となり、王政復古がなる。

チャールズ2世が亡命先からロンドンに帰還し、イングランド王として王政復古を実現しました。
1660年5月29日、イングランド内戦後にフランスへ亡命していたチャールズ2世が王政復古のためロンドンに入城。 議会は彼の帰還を承認し、共和制を廃止して王政を復活させました。 この「王政復古(Restoration)」によりイギリスは再び君主制国家となります。 観劇や出版の自由が回復され、文化面でも復興が進みました。 一方でカトリックを巡る宗教対立や王権と議会の力関係の新たな均衡が課題となりました。
1660年 チャールズ2世 王政復古
1790年

ロードアイランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国13番目の州となる。

ロードアイランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、13番目の州として正式に加盟しました。
1790年5月29日、ロードアイランド州はアメリカ合衆国憲法を批准。 州の間では強い中央政府への警戒心があり最後まで批准が遅れていました。 批准により全13植民地が一つにまとまり、連邦制度が完成。 ロードアイランドは小規模経済と奴隷貿易への依存が背景にありました。 その後、州は新政府のもとで独自の政治・経済発展を遂げました。
1790年 ロードアイランド州 アメリカ合衆国憲法 アメリカ合衆国
1848年

ウィスコンシン準州が州に昇格し、アメリカ合衆国30番目の州・ウィスコンシン州となる。

アメリカ合衆国の30番目の州ウィスコンシン州が正式に承認された日です。
1836年に準州として設置されたウィスコンシン準州は、人口増加と経済発展を背景に州昇格を求められていました。 1848年5月29日、アメリカ議会はウィスコンシン州としての州昇格法案を可決し、合衆国憲法に基づく州として正式に承認しました。 これによりウィスコンシンは連邦上院に2名の上院議員と下院議員を送り出す代表権を得ました。 農業と製材業を中心に成長を続けた同州は、後に乳製品や工業生産で全米有数の州へと発展していきます。 この出来事は合衆国の西部開拓と連邦拡大の歴史における重要なマイルストーンです。
1848年 ウィスコンシン準州 ウィスコンシン州
1864年

メキシコ皇帝マクシミリアンが初めてメキシコの地を踏む。

フランス支援によるメキシコ帝国の皇帝マクシミリアンが初めてメキシコに到着した日です。
1864年5月29日、オーストリア大公出身のマクシミリアンがフランス軍の支援を受けてメキシコに到着しました。 当時メキシコはフランスが推す保守派と共和派の内戦状態にあり、フランス皇帝ナポレオン3世はマクシミリアンを擁立して傀儡政権を築こうとしていました。 マクシミリアンは到着後、メキシコ皇帝として戴冠し、改革政策を掲げつつも激しい内戦に巻き込まれていきます。 この出来事はメキシコの政治と独立運動に深い影響を及ぼし、後に共和派との決定的な対立へと発展します。 収束には数年を要し、最終的にマクシミリアンは処刑されることになります。
1864年 メキシコ マクシミリアン
1867年

「アウスグライヒ」として知られるオーストリアとハンガリーの間の合意がなされる。これによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生する。

オーストリアとハンガリーが二重君主制の妥協案(アウスグライヒ)で連合し、オーストリア=ハンガリー帝国が誕生した日です。
1867年5月29日、ハプスブルク帝国とハンガリー王国の間で『アウスグライヒ』(妥協)が締結されました。 これによりオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー国王としても君臨し、二重君主制のオーストリア=ハンガリー帝国が形成されました。 両国は外交と軍事を共有しつつ、それぞれ内政と財政の自治を認め合う体制を構築しました。 この新体制は帝国内の多数民族間の緊張緩和を目的としたものの、民族主義の高まりにより長期的な安定は得られませんでした。 歴史的には第一次世界大戦勃発まで続いた二重君主制の始まりとされています。
1867年 アウスグライヒ オーストリア ハンガリー オーストリア=ハンガリー帝国
1891年

青木周蔵外相が大津事件の無期懲役判決の責任をとって辞任。

大津事件での責任を取り、外務大臣・青木周蔵が辞任した日です。
1891年5月29日、大津事件の裁判で加害者に対して無期懲役判決が下された責任を取り、外務大臣の青木周蔵が辞任しました。 大津事件は同年5月11日に来日中の皇太子(後の大正天皇)が滋賀県大津で警備兵に襲われた事件で、国内外で大きな波紋を呼びました。 日本政府はロシア皇太子の安全確保を最優先とし、賠償や判決内容について欧米諸国の反発を避けるために細心の注意を払っていました。 判決後、青木は政治的責任を明確にするために辞任を決意し、その後の政府刷新につながりました。 この事件は日本の近代外交や憲政史における重要な転換点とされています。
1891年 青木周蔵 大津事件
1932年

赤松克麿が日本国家社会党を結成。

政治運動家・赤松克麿が日本国家社会党を結成した日です。
1932年5月29日、右派政治家の赤松克麿がヨーロッパの国家社会主義思想に影響を受けて日本国家社会党を創設しました。 党綱領には国家統制や農工商一体化を掲げ、当時の政治的不安定期における急進的な改革を訴えました。 しかし、組織基盤の脆弱さと軍部の台頭により支持を拡大できず、短期間で活動を停止しました。 その後、極右思想の一例として戦前日本の政治動向を研究する際の事例となっています。 日本の政党史における異色の試みとして知られています。
1932年 赤松克麿 日本国家社会党
1948年

国際連合休戦監視機構を創設。

1948年5月29日、国連による世界初の休戦監視機構が設立されました。
第一次中東戦争の休戦合意を監視するために創設されました。 国連初の平和維持活動として、中立的立場で停戦ラインの視察や調停を行います。 監視要員は加盟国から派遣され、紛争地域で停戦遵守を確認しました。 その後も中東地域を中心に活動を続け、国連PKOの先駆けとなりました。 現在までに多数の任務を経験し、平和維持のモデルケースとされています。
1948年 国際連合休戦監視機構
1954年

第1回ビルダーバーグ会議が開会。

1954年5月29日、第1回ビルダーバーグ会議がオランダで開幕しました。
ヨーロッパと北米の政治・経済界のリーダーが非公式に集まり、冷戦下の協調体制を議論しました。 名称は開催地ベルギー・ビルダーバーグホテルに由来しています。 参加者は国家元首や企業経営者、学者など多岐にわたり、自由闊達な意見交換が特徴です。 初回は70名程度が参加し、以降毎年持ち回りで開催されています。 会議は非公開で行われ、報道陣の立ち入りは制限されるため秘密主義が注目されます。
1954年 ビルダーバーグ会議
1973年

日本の増原惠吉防衛庁長官が内奏時の昭和天皇の発言を漏らしたことが政治問題化し、辞任。(増原内奏問題)

1973年5月29日、防衛庁長官・増原惠吉が昭和天皇の発言を漏らし、辞任に追い込まれました。
増原長官は内奏時に昭和天皇の私的発言内容を報道陣に伝え、天皇の政治的中立性を損ねました。 この『増原内奏問題』は政府への信頼低下を招き、与野党から厳しい批判が集中しました。 増原氏は責任を取り、同日に防衛庁長官を辞任しました。 事件は政治と天皇制の関係を巡る重要な議論を呼び起こしました。 その後、内奏制度の運用見直しや報道ガイドラインの整備が進められました。
1973年 増原惠吉 防衛庁長官 内奏 昭和天皇 増原内奏問題
1982年

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ローマ教皇としては初めてイギリス国教会のカンタベリー大聖堂を訪問。

1982年、教皇ヨハネ・パウロ2世がイギリス国教会の総本山カンタベリー大聖堂を初訪問しました。
1982年5月29日、教皇ヨハネ・パウロ2世はローマ教皇として初めてイギリス国教会のカンタベリー大聖堂を訪れました。この訪問は16世紀の宗教改革以来初となるローマ教皇の英国内訪問で、カトリックと英国国教会との和解と対話を象徴しています。教皇は大聖堂内で祈りを捧げ、両教会の歴史的対立を超えた連携を呼びかけました。訪問中、カンタベリー大司教らと会談し、共同宣言を採択。国際的にも注目を集め、エキュメニズム運動の大きな転機となりました。
1982年 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 イギリス国教会 カンタベリー大聖堂