363年

クテシフォンの戦い: ローマ皇帝ユリアヌスがサーサーン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、クテシフォンの街は落とせず撤退。

ローマ皇帝ユリアヌスがサーサーン朝の首都クテシフォンを包囲したものの攻略に失敗し、撤退した戦いです。
363年の春、ローマ皇帝ユリアヌスは対ペルシア遠征の一環としてサーサーン朝の首都クテシフォンを目指しました。 数日にわたって城壁に迫るも、強固な防御と補給線の問題から攻略を断念。 ローマ軍は撤退を余儀なくされ、その後ユリアヌス自身も戦没することとなりました。 この遠征はローマ帝国の東方拡大の限界を示した重要な出来事です。 歴史的に見ても迫力ある攻城戦の一例として知られています。
363年 クテシフォンの戦い 英語版 ローマ皇帝 ユリアヌス サーサーン朝 クテシフォン
526年

東ローマ帝国のアンティオキアで大地震が発生。推定死者数は約25万から30万人。(参考:地震の年表)

526年、アンティオキアで発生した大地震で、推定25万から30万人が犠牲になりました。
東ローマ帝国領アンティオキアを襲った大規模な地震で、都市の大半が倒壊しました。 史料によれば推定死者数は約25万から30万人に上り、当時の最大級の被害を記録。 地震は都市のインフラを壊滅させ、混乱の中で疫病や飢饉を引き起こしたと考えられています。 皇帝は復興計画を立案したものの、完全な再建は果たせませんでした。 地震の記録は後世の地震学史研究においても重要な資料とされています。
526年 東ローマ帝国 アンティオキア 地震の年表
1176年

レニャーノの戦い: ロンバルディア同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍を破る。

ロンバルディア同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍を破った、中世イタリアの戦いです。
1176年、北イタリアでロンバルディア諸都市が結束して同盟を結成。 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)はイタリア遠征を通じて皇権強化を図りました。 レニャーノ付近で両軍が衝突し、市民兵主体の同盟軍が一丸となって皇帝軍を撃退。 この敗北により皇帝はイタリアにおける影響力を大きく失いました。 戦いは都市国家同盟と皇帝権力の対立構造を浮き彫りにしました。
1176年 レニャーノの戦い ロンバルディア同盟 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世
正応6年4月22日

平禅門の乱。

鎌倉時代に発生した反乱の一つで、詳細は限られた史料しか残っていない事件です。
平禅門の乱は正応6年(1293年)4月22日に発生した反乱とされています。 具体的な背景や指導者については史料が乏しく、詳細は不明な点が多いです。 一部資料によると、幕府への不満を背景に小規模な蜂起が起きた可能性が指摘されています。 鎌倉幕府は迅速に部隊を派遣し、乱は短期間で鎮圧されたと伝えられています。 発生規模や被害状況は明確に記録されておらず、研究対象として解明が待たれています。
1293年 正応 4月22日 平禅門の乱
1453年

コンスタンティノポリスが陥落し、東ローマ帝国滅亡。

オスマン帝国がコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国が滅亡した歴史的事件です。
1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世率いる軍がコンスタンティノポリスを包囲。 大砲を用いた攻城戦術により、強固な城壁を次々に破砕しました。 ついに聖ソフィア大聖堂近くの城門が突破され、都市は陥落。 これにより千年以上続いた東ローマ帝国は終焉を迎え、中世からルネサンスへの転換点となりました。 学者や技術者が西ヨーロッパへ逃れたことで知識の移転が進み、大航海時代の幕開けにも影響を与えました。
1453年 コンスタンティノポリスが陥落
天正10年5月8日

備中高松城の戦い: 豊臣秀吉が、水攻めのため備中高松城を包囲する堤防の建設を開始。12日間で完成。

豊臣秀吉が備中高松城を水攻めで包囲するため、堤防の建設を開始し12日で完成させた戦いです。
天正10年(1582年)5月8日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は備中高松城を攻略するため水攻めを決行。 近隣の川の水を引き込むために堤防を築き、わずか12日間で完成させました。 この戦術により城内は水に沈み、防衛側は撤退を余儀なくされました。 水攻めは当時の日本の城攻め戦術として画期的で、その後の戦術研究にも大きな影響。 秀吉の工兵能力と迅速な兵站構築の巧みさを示す一例として知られています。
1582年 天正 5月8日 備中高松城の戦い 豊臣秀吉 備中高松城
慶長10年4月12日

豊臣秀頼が右大臣に任ぜられる。

豊臣秀頼が右大臣に任ぜられ、豊臣家の政権内で地位を高めました。
慶長10年(1605年)4月12日、豊臣秀頼が朝廷から右大臣に任命されました。 この任命は秀吉没後、政権を継承した秀頼の権威を示す狙いがありました。 右大臣は律令制下の高位官職で、当時としては名誉職としての性格を強く持っていました。 しかし実際の政務執行は大老や老臣らが担い、秀頼は形式的な地位を得たにとどまります。 この動きは関ヶ原の戦い後の豊臣政権の不安定さを象徴するエピソードともいえます。
1605年 慶長 4月12日 豊臣秀頼 右大臣
1660年

フランスに亡命していたチャールズ2世がロンドンに入城してイングランド王となり、王政復古がなる。

チャールズ2世が亡命先からロンドンに帰還し、イングランド王として王政復古を実現しました。
1660年5月29日、イングランド内戦後にフランスへ亡命していたチャールズ2世が王政復古のためロンドンに入城。 議会は彼の帰還を承認し、共和制を廃止して王政を復活させました。 この「王政復古(Restoration)」によりイギリスは再び君主制国家となります。 観劇や出版の自由が回復され、文化面でも復興が進みました。 一方でカトリックを巡る宗教対立や王権と議会の力関係の新たな均衡が課題となりました。
1660年 チャールズ2世 王政復古
1780年

アメリカ独立戦争: ワックスホーの虐殺。

アメリカ独立戦争中に発生したワックスホーの虐殺で、捕虜となる民兵が殺害されました。
1780年5月29日、サウスカロライナ州ワックスホー付近で発生した事件。 イギリス軍のロイヤリスト部隊が降伏したアメリカ民兵隊に容赦なく発砲したと伝えられ、正確な犠牲者数は不明ですが多数の民兵隊兵士が処刑されたとされています。 指揮官バンノンストレ・タールトンの激しい戦術は「タールトンの四分の一も助けない」として有名。 事件はパトリオットの抗英感情を一層強めるきっかけとなり、民心の結束を促しました。 戦争史上の論争点としても記憶される惨事です。
1780年 アメリカ独立戦争 ワックスホーの虐殺
1790年

ロードアイランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国13番目の州となる。

ロードアイランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、13番目の州として正式に加盟しました。
1790年5月29日、ロードアイランド州はアメリカ合衆国憲法を批准。 州の間では強い中央政府への警戒心があり最後まで批准が遅れていました。 批准により全13植民地が一つにまとまり、連邦制度が完成。 ロードアイランドは小規模経済と奴隷貿易への依存が背景にありました。 その後、州は新政府のもとで独自の政治・経済発展を遂げました。
1790年 ロードアイランド州 アメリカ合衆国憲法 アメリカ合衆国
1848年

ウィスコンシン準州が州に昇格し、アメリカ合衆国30番目の州・ウィスコンシン州となる。

アメリカ合衆国の30番目の州ウィスコンシン州が正式に承認された日です。
1836年に準州として設置されたウィスコンシン準州は、人口増加と経済発展を背景に州昇格を求められていました。 1848年5月29日、アメリカ議会はウィスコンシン州としての州昇格法案を可決し、合衆国憲法に基づく州として正式に承認しました。 これによりウィスコンシンは連邦上院に2名の上院議員と下院議員を送り出す代表権を得ました。 農業と製材業を中心に成長を続けた同州は、後に乳製品や工業生産で全米有数の州へと発展していきます。 この出来事は合衆国の西部開拓と連邦拡大の歴史における重要なマイルストーンです。
1848年 ウィスコンシン準州 ウィスコンシン州
1864年

メキシコ皇帝マクシミリアンが初めてメキシコの地を踏む。

フランス支援によるメキシコ帝国の皇帝マクシミリアンが初めてメキシコに到着した日です。
1864年5月29日、オーストリア大公出身のマクシミリアンがフランス軍の支援を受けてメキシコに到着しました。 当時メキシコはフランスが推す保守派と共和派の内戦状態にあり、フランス皇帝ナポレオン3世はマクシミリアンを擁立して傀儡政権を築こうとしていました。 マクシミリアンは到着後、メキシコ皇帝として戴冠し、改革政策を掲げつつも激しい内戦に巻き込まれていきます。 この出来事はメキシコの政治と独立運動に深い影響を及ぼし、後に共和派との決定的な対立へと発展します。 収束には数年を要し、最終的にマクシミリアンは処刑されることになります。
1864年 メキシコ マクシミリアン