貞観11年4月13日
藤原氏宗らが貞観格を奏進。
平安時代の貞観11年、藤原氏宗らが律令制の運用細則である貞観格の見直しを朝廷に上奏しました。
貞観格は貞観年間に制定された律令の運用細則で、朝廷の政治組織や官制を規定していました。藤原氏宗らは朝廷の意思決定を支えるため、この規範の見直しを求める上奏を行いました。この奏進を通じて、律令の運用実態に即した制度改革を目指したとされています。貞観格の整備は、その後の平安時代中期の中央集権化に寄与した重要な出来事です。
869年
貞観
4月13日
藤原氏宗
貞観格
893年
シメオン1世がブルガリア帝国皇帝に即位。
893年、シメオン1世がブルガリア帝国の皇帝に即位し、文化・軍事で帝国の黄金時代を切り拓きました。
893年、東ローマ帝国と度重なる戦争を経たブルガリア帝国で、シメオン1世が皇帝として即位しました。彼は文化と軍事の両面で帝国を発展させ、特に詩や教育を奨励したことから「ブルガリア文化の黄金時代」の基礎を築きました。シメオン1世は東ローマとの領土紛争でも成果を上げ、国力を大幅に強化しました。彼の治世は927年まで続き、ブルガリア帝国の最盛期を象徴する時代となりました。
893年
シメオン1世
ブルガリア帝国
安元3年/治承元年4月28日
安元の大火。(足軽焼亡)
平安京で大規模な火災が発生し、多数の建物が焼失した「安元の大火」が起こりました。
1177年、京都(当時の平安京)で発生した大規模な火災で、都市部の多くの木造家屋が焼失しました。この火災は「安元の大火」と呼ばれ、民衆や貴族の居住区を中心に甚大な被害をもたらしました。記録によると、延焼は数日間にわたって続き、多数の死傷者が出たと伝えられています。復興には膨大な労力と資金が必要とされ、当時の社会構造にも影響を与えました。
1177年
安元
治承
4月28日
安元の大火
ユリウス暦5月16日
ペトロパヴロフスク要塞の建設が起工、サンクトペテルブルク建都の日とされる。
ロシア帝国のペトロパヴロフスク要塞建設が起工され、その日がサンクトペテルブルク建都の起点とされました。
1703年、ロシア帝国のピョートル大帝がサンクトペテルブルクの建都を目指し、ネヴァ川河口のズナメニー島にペトロパヴロフスク要塞の起工を命じました。この要塞の建設開始日は後にサンクトペテルブルク建都記念日とされ、都市の誕生を象徴しています。要塞はピョートル大帝の西欧化政策の一環として、バルト海への強力な玄関口を確保する目的がありました。その後、都市は急速に発展し、ロシア帝国の新都として政治・文化の中心地となりました。
1703年
5月16日
ペトロパヴロフスク要塞
サンクトペテルブルク
1807年
ナポレオン戦争: ダンツィヒのプロイセン守備隊が降伏。
ナポレオン戦争中、ダンツィヒのプロイセン守備隊がフランス軍に包囲され降伏しました。
1807年、ナポレオン戦争中のダンツィヒ包囲戦で、フランス軍に追い詰められたプロイセン守備隊が降伏しました。この降伏により、ナポレオンは東プロイセン方面での支配権を強化し、中央ヨーロッパにおける影響力を一層拡大しました。プロイセン側の敗北はティルジット条約締結への道を開き、ヨーロッパ政治地図に大きな変動をもたらしました。
1807年
ナポレオン戦争
ダンツィヒ
1860年
イタリア統一運動: ジュゼッペ・ガリバルディがパレルモへの進撃を開始。
ガリバルディ率いる千人隊がシチリア島パレルモへの進撃を開始し、イタリア統一運動の重要な一歩となりました。
1860年、イタリア統一運動(リソルジメント)の一環として、英雄ガリバルディがシチリア島パレルモへの進撃を開始しました。彼の「千人隊」は名も知れぬ義勇軍で構成され、その果敢な行動が諸国民の注目を集めました。この作戦は「千人隊の航海」として知られ、イタリア統一への気運を高める転機となりました。ガリバルディの進撃は短期間で成功し、南イタリア併合への道を開きました。
1860年
イタリア統一運動
ジュゼッペ・ガリバルディ
パレルモ
慶応3年4月24日
江戸幕府が外国総奉行を設置。
幕府が開国後の外交強化を図り、外国総奉行を新設して条約交渉などを一元的に管理しました。
1867年、幕末の江戸幕府が開国後の対外対応を強化するため、外国総奉行を新設しました。これは幕府が従来の外交事務を幕閣の専門部署に一元化し、外国との条約交渉や治外法権問題に対応する狙いがありました。設置により幕府内の権限分配が変化し、開国派と佐幕派の対立にも影響を与えました。この動きは明治維新へ向けた政治体制の過渡期を象徴しています。
1867年
慶応
4月24日
外国総奉行
1875年
ドイツで、全ドイツ労働者協会とドイツ社会民主労働党が合併して、世界初の労働者単一政党・ドイツ社会主義労働者党(現・ドイツ社会民主党)を結成。
ドイツでADAVとSDAPが合併し、世界初の労働者単一政党SPDが結成されました。
1875年、ドイツで全ドイツ労働者協会(ADAV)とドイツ社会民主労働党(SDAP)が合併し、ドイツ社会主義労働者党(後の社会民主党:SPD)を結成しました。これは世界で初めて労働者の単一政党が結成された歴史的瞬間で、労働運動の政治的実践を新たな段階へと引き上げました。統一大会では「ゴータ綱領」が採択され、社会主義政策の方向性が示されました。SPDはその後もドイツ政治において主要政党の一つとして存在感を示し続けています。
1875年
ドイツ社会主義労働者党
ドイツ社会民主党
1883年
ロシア皇帝アレクサンドル3世が戴冠。
ロシア皇帝アレクサンドル3世の戴冠式がクレムリンで行われ、保守的統治の幕開けとなりました。
1883年、ロシア皇帝アレクサンドル3世がモスクワのクレムリンで正式に戴冠しました。彼は父アレクサンドル2世の暗殺後に即位し、強権的な統治を行うことで知られています。戴冠式では華麗な儀式が執り行われ、帝国の伝統と権威が内外に示されました。アレクサンドル3世は「ヨーロッパの憲兵」とも称され、反動的な政策でロシアの保守化を推進しました。
1883年
アレクサンドル3世
1891年
大津事件の被告・津田三蔵に対し、政府の大逆罪適用の要求を退けて無期懲役判決。
大津事件の津田三蔵に対し死刑を回避し、無期懲役判決が下されました。
1891年、大津事件の裁判において、津田三蔵の大逆罪適用を政府が見送ったうえで、無期懲役の判決が下されました。この事件は来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が津田に斬りつけられた事件で、国際的な外交問題に発展しました。政府は死刑を回避し、ロシアとの関係悪化を避ける判断を示しました。裁判の結果は国内外で賛否を呼び、明治政府の司法判断が注目されました。
1891年
大津事件
大逆罪
無期懲役
1901年
山陽鉄道(現在の山陽本線)神戸 馬関(現・下関)が全通し、東京から下関までが鉄道でつながる。
山陽鉄道(現在の山陽本線)が神戸から下関まで全通し、東京と下関が鉄道で結ばれた。
山陽鉄道は明治時代に建設が進められた鉄道で、1901年5月27日に神戸から馬関(現在の下関)間が全通しました。 この開通により東京から下関まで鉄道で結ばれ、日本海側へのアクセスが飛躍的に向上しました。 旅客や貨物の輸送効率が大きく改善され、四国・九州方面への連絡も円滑化されました。 沿線地域の産業や観光の発展に寄与し、後の山陽本線として国内有数の幹線鉄道となりました。 現在も地域の重要な鉄道路線として利用されています。
1901年
山陽鉄道
山陽本線
神戸
下関
1905年
日露戦争: 東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊との日本海海戦(28日にかけて)。
日露戦争中の日本海海戦で、東郷平八郎率いる聯合艦隊がバルチック艦隊を撃破した歴史的勝利。
日本海海戦は1905年5月27日から28日にかけて行われ、東郷平八郎中将が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊が対峙しました。 日本艦隊は「逆T字戦法」を用いて旧式化したバルチック艦隊を包囲し、大きな打撃を与えました。 結果としてロシアは多数の艦艇を失い、戦力の大部分が壊滅しました。 この勝利は非西洋の国による欧州艦隊撃破として世界に衝撃を与えました。 戦後、ポーツマス条約の締結につながり、帝国主義時代の国際勢力図に影響を与えました。 戦術的な成功は日本海軍の威信を高め、後の海軍戦略にも大きな影響を残しました。
1905年
日露戦争
東郷平八郎
日本海軍
聯合艦隊
ロシア海軍
バルチック艦隊
日本海海戦