黄龍元年4月12日

呉の孫権が皇帝に即位。三国鼎立が成立。

Sun Quan declares himself Emperor of Wu in 229 AD, establishing the Three Kingdoms period in China.
On May 22, 229 AD, Sun Quan proclaimed himself emperor of Eastern Wu, one of the three rival states after the Han Dynasty's fall. This formalized the power division known as the Three Kingdoms: Wei, Shu, and Wu. Sun Quan's reign solidified Wu's political structures and military defenses along the Yangtze River. His leadership fostered economic and cultural developments in southern China. The Three Kingdoms period became one of the most storied eras in Chinese history.
229年 黄龍 4月12日 孫権 三国鼎立
天正8年4月9日

本願寺11世宗主顕如、織田信長と和議を結び石山合戦が終結。顕如は紀伊鷺森に退去したが、和議に反対する長男教如は父とは行動をともにせず、石山本願寺に立てこもる。

In 1580, Church head Konyo made peace with Oda Nobunaga, ending the Ishiyama Hongan-ji War in Japan.
After a protracted siege, Konyo, the eleventh leader of the Hongan-ji, negotiated peace with Oda Nobunaga on May 22, 1580. The Ishiyama Hongan-ji fortress in Osaka surrendered, ending years of fierce conflict. Konyo retired to Sagi-no-mori in Kii Province under the agreement. His son Kyonyo, opposing the treaty, refused to comply and held the temple grounds. The peace shifted the balance of power, bolstering Nobunaga's unification efforts.
1580年 天正 4月9日 顕如 織田信長 石山合戦 教如
慶應4年閏4月1日

駐日英公使パークスが明治天皇にヴィクトリア女王の信任状を提出。明治政府が初めて外国から承認される。

British envoy Sir Harry Parkes presented his credentials to Emperor Meiji in 1868, marking foreign recognition of Japan's Meiji government.
On May 22, 1868, Sir Harry Parkes, the British minister to Japan, formally presented Queen Victoria's credentials to Emperor Meiji. This act signified Britain's diplomatic recognition of the newly formed Meiji government. It was the first time a foreign power officially acknowledged Japan's post-restoration regime. The recognition bolstered the Meiji government's legitimacy and encouraged other nations to follow suit. This milestone paved the way for Japan's rapid modernization and international engagement.
1868年 慶應 閏4月1日 駐日英公使 パークス 明治天皇 ヴィクトリア女王 明治政府 承認
明治4年4月4日

日本で戸籍法公布。

Japan enacted the Family Register Law in 1871, establishing a modern civil registry system.
On May 22, 1871, the Meiji government promulgated the Family Register Law to standardize household records. This legal framework replaced the feudal system's village registers with a national registry. It became a cornerstone of Japan's modern administrative and legal infrastructure. The law recorded births, deaths, marriages, and migrations for all citizens. The family register system continues to play a vital role in Japanese society.
1871年 明治 4月4日 戸籍法
1939年

ドイツとイタリアが鋼鉄協約(独伊軍事同盟)に調印。

1939年5月22日、ドイツとイタリアが鋼鉄協約(独伊軍事同盟)に調印しました。
鋼鉄協約は第二次世界大戦の勃発を控えた1940年に向けて両国の軍事協力を強化するものでした。ヒトラー率いるドイツとムッソリーニ率いるイタリアが相互援助を誓い、枢軸国としての結束を一段と深めました。この同盟は後の大戦遂行に向けた重要な外交的布石となり、両国間の戦略的連携を促進しました。調印により、欧州全域に緊張が高まり、イギリスやフランスなど連合国側との対立が明確化しました。
1939年 ドイツ イタリア 鋼鉄協約
1946年

吉田茂が45代内閣総理大臣に就任し、第一次吉田茂内閣が発足。

1946年5月22日、吉田茂が第45代内閣総理大臣に就任し、第一次吉田茂内閣が発足しました。
終戦直後の混乱期において、吉田茂は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の後押しを受けて政権を担いました。彼は経済再建と国際社会への復帰を最重要課題とし、占領政策との調整や国内安定に尽力しました。右翼的側面とリベラル的側面を併せ持つ政治手腕で、新憲法の施行準備や日米関係の基盤構築にも大きく関与しました。第一次吉田内閣は日本の戦後復興期を象徴する政権となりました。
1946年 吉田茂 第一次吉田茂内閣
1947年

アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンがトルーマン・ドクトリンを実施するための法律に署名。

1947年5月22日、トルーマン米大統領がトルーマン・ドクトリン実施法に署名しました。
トルーマン・ドクトリンはソ連の共産主義拡大を防ぐため、ギリシャとトルコへの軍事・経済援助を規定した政策です。法案への署名により、アメリカは封じ込め政策を正式な国家戦略とし、冷戦時代の基盤を築きました。このドクトリンはマーシャル・プランにつながる一連の援助政策の先駆けとされ、戦後ヨーロッパ復興と米ソ対立の深刻化に大きな影響を与えました。
1947年 アメリカ合衆国大統領 ハリー・S・トルーマン トルーマン・ドクトリン
1958年

第28回衆議院議員総選挙。

1958年5月22日に第28回衆議院議員総選挙が実施されました。
岸信介内閣下で行われたこの総選挙では、自民党が大勝し、戦後政治での優位を確立しました。野党は分裂状態にあり、与党は議席を大幅に伸ばしました。投票率の高さが示す国民の関心の中、選挙結果は日本の高度経済成長期への道筋に影響を与えました。この選挙は戦後日本の政局を象徴する重要な節目とされています。
1958年 第28回衆議院議員総選挙
1963年

ギリシャの民主左翼同盟党首グリゴリス・ランブラキスがテッサロニキで行なわれた反戦集会での帰り道、サイドカーに乗った男に棍棒で頭部を殴打され負傷、5日後の5月27日に脳挫傷で死亡。

1963年5月22日、ギリシャの政治家ランブラキスが反戦集会後の帰路で襲撃を受け、後に死亡しました。
グリゴリス・ランブラキスは民主左翼同盟党の党首であり、平和運動家として知られていました。 テッサロニキでの反戦集会を終えた帰路、サイドカーに乗った何者かに頭部を棍棒で殴打され重傷を負いました。 彼は療養の末、5月27日に脳挫傷により死去しました。 この事件は右翼勢力による政治的暗殺とされ、国内外で大きな波紋を呼びました。 ギリシャ社会では「ランブラキス事件」として記憶され、政権への抗議運動や言論統制への批判が高まりました。
1963年 ギリシャ グリゴリス・ランブラキス テッサロニキ サイドカー 5月27日 脳挫傷
1972年

セイロンで新憲法が採択。共和制に移行し、国名をスリランカ共和国に改称。

1972年5月22日、セイロンは新憲法を採択し、立憲君主制から共和制へ移行し国名をスリランカ共和国に改称しました。
1948年にイギリスから独立したセイロンは連邦制と立憲君主制を採用していました。 新憲法制定によりイギリス国王を元首とする体制を廃止し、議会選出の大統領を元首とする共和制に移行しました。 この改正に伴い国家名も「スリランカ共和国」に変更されました。 新憲法は文化的多様性を尊重し、政府の行政権や司法権の独立性を強化する内容を含んでいます。 国際舞台では正式に共和制国家としての地位を確立しました。
1972年 共和制 スリランカ共和国
1989年

リクルート事件で藤波孝生元内閣官房長官と公明党の池田克也衆議院議員を在宅起訴。

リクルート事件で、元内閣官房長官や公明党議員が在宅起訴された日です。
1989年5月22日、証券会社リクルートを巡る汚職事件で藤波孝生元内閣官房長官と池田克也公明党衆議院議員が在宅起訴されました。 この事件はリクルート社の未公開株を政治家や官僚らに安価で提供し、利益供与を図ったとして大きな波紋を呼びました。 政治資金規正法違反や贈収賄の疑いが追及され、多くの政治家が関与を認めて辞任に追い込まれました。 当時の竹下内閣は窮地に立たされ、政治不信が高まるきっかけとなりました。 結果として政治・行政の透明性向上や政治改革の機運が強まり、その後の政治地図を大きく変える要因となりました。
1989年 リクルート事件 藤波孝生 内閣官房長官 公明党 池田克也 衆議院議員
1990年

南イエメン・北イエメンが統合されイエメン共和国が成立。

南イエメンと北イエメンが統合し、イエメン共和国が誕生した日です。
1990年5月22日、北イエメン(イエメン・アラブ共和国)と南イエメン(ヤーメン社会主義人民民主共和国)が統合してイエメン共和国が成立しました。 両国は冷戦下で異なる政治体制をとっていましたが、経済的・社会的な困難を背景に統合交渉を進めていました。 統合後の首都はサナアに置かれ、アリー・アブドッラー・サーレハ大統領が初代大統領に就任。 統一は地域の安定化を目指す一方で、部族勢力や宗教的対立が影響し、後の政治的混乱の火種ともなりました。 イエメン統一はアラブ世界における最後の大規模国家統合として国際的にも注目されました。
1990年 南イエメン 北イエメン イエメン共和国