1217年

第一次バロン戦争: 第二次リンカーンの戦い。

第一次バロン戦争における重要な戦いのひとつ、第二次リンカーンの戦いが行われました。
第一次バロン戦争は、イングランド王ジョンに対抗したバロンたちの反乱です。 1217年5月20日、リンカーン城を奪還しようとする王権側とバロン側が『第二次リンカーンの戦い』で激突しました。 戦闘は王権軍の勝利に終わり、王権側の影響力を強める結果となりました。 この勝利は内乱の収束に向けた重要な転機となり、マグナ・カルタの遵守をめぐる交渉にも影響を与えました。 当時の戦術や城郭戦の様相は、中世史研究の貴重な事例となっています。
1217年 第一次バロン戦争 第二次リンカーンの戦い
1293年

カスティーリャ王サンチョ4世が現在のマドリード・コンプルテンセ大学を創立。

カスティーリャ王サンチョ4世がマドリード・コンプルテンセ大学の前身を創立しました。
1293年5月20日、カスティーリャ王サンチョ4世は学術振興の一環として、トレド近郊のコンプルテンセ(現在のアルカラ・デ・エナーレス)に大学を設立しました。 これが後にマドリード・コンプルテンセ大学へと発展し、スペイン最古級の高等教育機関となります。 当初は神学や法学、哲学などを教える学問所としてスタートしました。 大学は中世ヨーロッパにおける学問の中心として、多くの著名な学者を輩出しました。 その後、1836年にマドリードへ移転し、今日の形態へと引き継がれています。 現在も世界的に高い評価を受ける大学として知られています。
1293年 カスティーリャ サンチョ4世 マドリード・コンプルテンセ大学
1498年

ヴァスコ・ダ・ガマが第一次航海でインド西岸のカリカット(コーリコード)に到達。

ヴァスコ・ダ・ガマがインド西岸のカリカットに到達し、欧州からアジアへの新たな海上交易路を開拓しました。
1498年5月20日、ポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマは第一次航海でアフリカ大陸南端を回りインド西岸のカリカットに到達しました。 この航海はヨーロッパからインドへの直接航路を開くもので、イスラム商人を介さない香辛料貿易の始まりを意味します。 ダ・ガマは約一年間にわたる過酷な航海を経て、香辛料や宝石を満載した帰路に成功しました。 この成果はポルトガル王マヌエル1世に称賛され、以後インド洋での本格的な植民地政策が推進されます。 海上交易路の開拓は大航海時代の象徴的な出来事として、世界経済の構造を大きく変革しました。
1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ インド コーリコード
1570年

アブラハム・オルテリウスが世界初の近代的地図「Theatrum Orbis Terrarum」を発刊。

アブラハム・オルテリウスが世界初の近代的地図帳『Theatrum Orbis Terrarum』を刊行しました。
1570年5月20日、フランドルの地理学者アブラハム・オルテリウスはアントウェルペンで『Theatrum Orbis Terrarum』を発刊しました。 この書籍は統一された縮尺と装飾的な地図枠を持つ初の近代的地図帳とされます。 全20葉の地図に加え、各地域の解説文を掲載し、一般向けの地理知識普及に寄与しました。 オルテリウスの仕事は後世の地図製作者に大きな影響を与え、地図帳の商業的成功をもたらしました。 同書は以後数十年間にわたり改訂と増補を重ね、世界各地の発見情報を反映し続けました。
1570年 アブラハム・オルテリウス 地図
1609年

ウィリアム・シェイクスピアの『ソネット集』がトマス・ソープによって発刊される。

ウィリアム・シェイクスピアの『ソネット集』がトマス・ソープによって初めて刊行されました。
1609年5月20日、イングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの『ソネット集(Sonnets)』がロンドンで刊行されました。 出版者はトマス・ソープで、全154編のソネットが集められた初版が世に出ました。 献辞には“Mr. W.H.”への言及があり、長年にわたり謎とされてきたミステリーを生んでいます。 シェイクスピアのソネットは愛や時間、芸術への賛歌などをテーマに深い共感を呼び、詩文学の金字塔となりました。 初版には誤植や順序の異同があり、テキスト校訂の対象としても重要視されています。
1609年 ウィリアム・シェイクスピア ソネット集 トマス・ソープ 英語版
1631年

三十年戦争: マクデブルクの戦いが終結。

三十年戦争の『マクデブルクの戦い』が終結し、その激戦が歴史に刻まれました。
1631年5月20日、三十年戦争の主要戦いの一つであるマクデブルク攻城戦が終結しました。 マクデブルク市は抗戦勢力の拠点となっており、ハプスブルク帝国軍の包囲を受けました。 市が陥落した際には大規模な虐殺と破壊が発生し、“マクデブルクの悲劇”として語り継がれています。 この事件はプロテスタント側の士気を大きく揺るがし、国際的な反響を呼びました。 歴史学では都市攻囲の非人道的側面と中世から近世への戦争様式の変化を考察する重要事例です。
1631年 三十年戦争 マクデブルクの戦い
享保7年4月6日

江戸幕府が流地禁止令を発布。田畑を質流れの形で売買することを禁止。

江戸幕府が田畑を質流れの形で売買することを禁止する『流地禁止令』を発布しました。
1722年(享保7年)4月6日、江戸幕府は農家の土地流出を防ぐために『流地禁止令』を出しました。 この法令により、田畑を担保に貸金を受け、そのまま売却する行為が固く禁じられました。 幕府は農耕地の安定的な耕作を維持し、百姓の没落を抑制する狙いがありました。 禁止令の施行により、多くの農村で土地所有の流動性が制限され、地主と農民の関係が変化しました。 この政策は享保の改革の一環とされ、幕府の財政再建策と併せて進められました。
1722年 享保 4月6日 流地禁止令
1862年

エイブラハム・リンカーン米大統領がホームステッド法に署名、同法が発効。

リンカーン米大統領がホームステッド法に署名し、西部開拓を促進する制度が発効しました。
1862年5月20日、アメリカ合衆国のエイブラハム・リンカーン大統領がホームステッド法に署名しました。 この法律は公共地160エーカーを申請者に無償で提供し、5年間の居住と開墾を義務付けました。 政府は西部の開拓を奨励することで国家統一と経済発展を図ろうとしました。 しかし先住民からの土地奪取や環境破壊といった問題も引き起こし、論争を生みました。 本法により数十万の入植者が新天地を目指し、アメリカ西部の地図が大きく塗り替えられました。
1862年 エイブラハム・リンカーン ホームステッド法
1873年

リーヴァイ・ストラウスとジェイコブ・デイヴィスがリベットでポケットを補強したズボンの特許を取得、ジーンズの発祥とされる。

リーヴァイ・ストラウスとジェイコブ・デイヴィスがジーンズの特許を取得し、歴史的ファッションアイテムが誕生しました。
1873年5月20日、リーヴァイ・ストラウスと仕立て職人ジェイコブ・デイヴィスはズボンのポケットをリベットで補強する特許を取得しました。 この技術は鉱山労働者向けの耐久性に優れた作業ズボンとして開発されました。 リーヴァイ社はこの特許を基に生産を拡大し、“ジーンズ”として世界的に普及させました。 当初は労働着だったジーンズが次第に大衆文化やファッションアイコンへと進化しました。 現在ではデニム文化の象徴として、多種多様なデザインが展開されています。
1873年 リーヴァイ・ストラウス リベット ポケット ズボン 特許 ジーンズ
1875年

パリでメートル条約が締結。

パリでメートル条約(国際計量単位系)が締結され、計量の国際標準化が始まりました。
1875年5月20日、フランス・パリで米欧を中心とする17か国がメートル条約に署名しました。 この条約は計量単位の統一と国際的な標準化を目的として、国際度量衡局(BIPM)の設立を定めました。 参加国はそれぞれ標準メートル原器とキログラム原器を相互に交換・保管する取り組みを開始しました。 これにより工業製品の品質管理や科学研究の信頼性が飛躍的に向上しました。 メートル条約は現在まで改訂を重ねながら、世界共通の計量基盤として機能し続けています。
1875年 パリ メートル条約
1882年

ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国が三国同盟を締結。

ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国が三国同盟を結成。ヨーロッパの勢力図を変えた歴史的条約です。
1882年5月20日、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国の3国が軍事同盟条約を締結し、三国同盟が発足しました。協約の目的は、各国が他国から攻撃を受けた際に相互援助を行うことにありました。特にフランスに対する牽制を意図し、ドイツのビスマルク体制下で行われた外交の一環とされます。また、イタリアは自国の地位向上を図るために加入しました。この同盟は1907年の三国協商への対抗軸となり、第一次世界大戦の遠因ともなったと言われています。条約は第一次世界大戦開戦まで存続し、ヨーロッパの同盟体制を象徴する出来事でした。
1882年 ドイツ帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 イタリア王国 三国同盟
1891年

トーマス・エジソンが発明した映画を観る装置キネトスコープが初めて公開される。

1891年、エジソンが開発したキネトスコープが初公開され、動く映像技術の幕開けとなりました。
1891年5月20日、発明家トーマス・エジソンとその助手ウィリアム・ケネディ・ローリー・ディクソンが開発したキネトスコープがニューヨークで初めて公開されました。キネトスコープはフィルムを回転させる内部照明を備えた単眼式の映像観覧装置で、一度に一人のみが覗き込んで映画を鑑賞できる仕組みでした。この装置は約45秒間の短い映像を映し出し、映写機とは異なる方式ながら動く映像の可能性を示しました。キネトスコープの公開は商業映画の夜明けとされ、その後の映写機開発や映画館の誕生に大きな影響を与えました。エジソン社はアメリカ各地に観覧ブースを設置し、一般消費者に新たな娯楽体験を提供しました。
1891年 トーマス・エジソン 映画 キネトスコープ