1152年
2か月前にフランス王ルイ7世と離婚したばかりのアリエノール・ダキテーヌがアンジュー伯アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と結婚。
フランス王ルイ7世と離婚したアリエノール・ダキテーヌが後のイングランド王ヘンリー2世と結婚しました。
ヨーロッパ中世の権力図を塗り替えた大きな転機です。
1152年5月18日に、フランス王ルイ7世と離婚したアリエノール・ダキテーヌがアンジュー伯アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と結婚しました。
アリエノールは当時最も裕福な女性領主の一人で、彼女の支配領域はフランス南西部から大西洋沿岸まで広がっていました。
この婚姻によりアンジュー家はフランス王室と緊密な同盟関係を築き、やがてプランタジネット朝の基礎が固められます。
2か月前の離婚劇はヨーロッパ中世史に大きな関心を呼び、権力構造の変化を象徴する出来事となりました。
特にアキテーヌ地方の帰属を巡る紛争は、後の百年戦争の遠因ともいわれています。
アリエノールの政治的手腕は後のイングランド王室史にも大きな足跡を残しました。
1152年
ルイ7世
アリエノール・ダキテーヌ
ヘンリー2世
1268年
アンティオキア公国がマムルーク朝スルタン・バイバルスにより滅亡。
十字軍国家の一つであったアンティオキア公国がマムルーク朝に征服され、滅亡しました。
1268年5月18日、アンティオキア公国はマムルーク朝スルタン・バイバルスの攻勢を受けて滅亡しました。
アンティオキア公国は第1回十字軍以降、約200年間にわたり中東における重要な十字軍国家の一つとして存続していました。
バイバルスはダマスカスを拠点にエジプトから派遣された強力なマムルーク軍を指揮し、着実にキリスト教勢力を後退させました。
最後の防衛拠点であった都市アンティオキアは包囲され、落城の後、多くの守備兵と市民が捕虜となりました。
この滅亡により、十字軍国家の領土は地中海沿岸部に限定され、中東における十字軍の勢力は大きく衰退します。
バイバルスはその後もイスラム世界での権威を強固にし、マムルーク朝の全盛期を築きました。
1268年
アンティオキア公国
マムルーク朝
バイバルス
天正12年4月9日
長久手の戦い。
織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍が衝突した戦国時代の戦いです。
火器戦術の進化を示す場面も見られました。
1584年5月18日、長久手(現在の愛知県長久手市)で織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍が激突しました。
前年に起こった小牧・長久手の戦いの延長線上で行われ、両軍は城攻めと迎撃を繰り返しました。
両軍ともに鉄砲隊を効果的に運用し、戦国時代における火器戦術の進化を示す場面となりました。
結果は両軍の消耗戦となり、明確な勝敗はつかないまま撤退が行われました。
この戦いを経て、秀吉は最終的に織田家の家督を掌握し、天下統一への道を強固にしました。
戦跡は市史跡として保存され、毎年資料館などで当時の様子が紹介されています。
1584年
天正
4月9日
長久手の戦い
享保14年4月21日
将軍徳川吉宗の子と偽り勘定奉行・稲生正武に見破られた天一坊改行が処刑される。(天一坊事件)
将軍徳川吉宗の子を名乗った僧侶が偽りを見破られ、処刑されました。
1729年5月18日(享保14年4月21日)、天一坊改行と称した僧侶が処刑されました。
彼は将軍徳川吉宗の隠し子を自称し、大赦公事を装って民衆を集める詐欺行為を行いました。
勘定奉行の稲生正武は詳細な調査によりその嘘を暴き、厳罰を下すよう幕府に進言します。
幕府は治安維持と権威回復を図るため、即日処刑を決定しました。
この事件は享保の改革期における幕府の統制力を示す象徴的な出来事として知られています。
後に『天一坊事件』として史書に記録され、江戸時代の社会風潮を考察する上で貴重な資料となっています。
1729年
享保
4月21日
徳川吉宗
稲生正武
天一坊改行
天一坊事件
1756年
イングランドがフランスに宣戦布告し、七年戦争が始まる。
イギリスがフランスに宣戦布告し、世界規模の七年戦争が始まりました。
1756年5月18日、イギリスがフランスに宣戦布告し、七年戦争が正式に勃発しました。
七年戦争はヨーロッパ、北米、インド、カリブ海など世界各地に戦線が広がった最初の世界規模の大規模戦争です。
イギリスとフランスは植民地支配を巡って激しく対立し、多くの海戦や陸戦が行われました。
ヨーロッパではプロイセン王フリードリヒ2世がオーストリア・ロシア連合と戦い、バランス・オブ・パワーが試されました。
戦争は各国の財政を圧迫し、後のアメリカ独立戦争やフランス革命の遠因ともいわれます。
最終的に1763年のパリ条約で休戦となり、イギリスは北米とインドで大きな領土拡大を実現しました。
1756年
イングランド
フランス
七年戦争
1775年
大陸海軍が初代「エンタープライズ」を「ジョージ」という艦名で取得する。
大陸海軍が初代艦「エンタープライズ」を「ジョージ」の艦名で取得しました。
1775年5月18日、アメリカ独立戦争勃発直後に設立された大陸海軍が艦艇を取得しました。
初代『エンタープライズ』と呼ばれるこの船は、当初『ジョージ』の名前で調達されました。
小型で機動性に優れたこの艦は沿岸警備や輸送任務に活用され、海上戦力の基礎となります。
後に名称が『エンタープライズ』に改められ、アメリカ海軍歴史上最長寿の艦名として知られるようになります。
この取得は大陸会議による海軍創設の象徴的な出来事で、後の海軍発展を支えました。
独立戦争期の海戦では私掠船との混成戦術が用いられ、大陸海軍の戦略に大きな影響を与えました。
1775年
大陸海軍
1803年
ナポレオン戦争: イギリスがアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦。
イギリスがアミアンの和約を破棄し、ナポレオン戦争が再開されました。
1803年5月18日、イギリスは1802年に結ばれたアミアンの和約を一方的に破棄してフランスに宣戦布告しました。
これによりナポレオン戦争が再開し、ヨーロッパ各地で激しい戦闘が繰り広げられます。
フランスの各都市では兵站強化と国民動員法の制定が進み、戦時体制が整えられました。
イギリスは強力な海軍力を背景に本拠地防衛と対仏海上封鎖を強化しました。
両国の対立は大陸封鎖令の発令や海戦、植民地戦争へと波及し、世界規模の戦闘に発展します。
この再開はナポレオンの台頭を象徴し、19世紀初頭の欧州情勢を決定づけました。
1803年
ナポレオン戦争
イギリス
アミアンの和約
フランス
1804年
フランス上院がナポレオン・ボナパルトを皇帝に推挙。
フランス上院がナポレオン・ボナパルトを皇帝に推挙しました。
1804年5月18日、フランス上院(元老院)がナポレオン・ボナパルトをフランス皇帝に選出し、第一帝政の成立を宣言しました。
これに先立ち、クーデター後の統領政府が安定政権を求めて国内外の支持を得る必要がありました。
ナポレオンはその政治手腕と軍事的成功を背景に国民の高い支持を受けていました。
皇帝即位の式典は翌年の12月にノートルダム大聖堂で行われ、盛大なコロネーションとなりました。
この出来事はフランス革命の共和制期から帝政期への劇的な転換点として重要視されます。
第一帝政成立後、ナポレオンは広範な行政改革と法典編纂を推進しました。
1804年
フランス上院
ナポレオン・ボナパルト
皇帝
1811年
ウルグアイ独立戦争: ラス・ピエドラスの戦い。
ウルグアイ独立戦争でラス・ピエドラスの戦いが行われ、独立運動が勢いを増しました。
1811年5月18日、ウルグアイ独立戦争においてラス・ピエドラスの戦いが発生しました。
指導者ホセ・ヘルバシオ・アルティガス率いる反乱軍がスペイン王党派の守備隊を攻撃しました。
戦闘はモンテビデオ近郊で行われ、終始アルティガス軍が優位に立ちました。
この勝利によりアルティガスは国民的英雄としての地位を確立し、独立運動に弾みがつきます。
ラス・ピエドラスの成功はその後の統一的な軍事行動と政治的統合を促進しました。
最終的に1828年のブラジリア条約によりウルグアイの独立が承認されます。
1811年
ウルグアイ
ラス・ピエドラスの戦い
1848年
フランクフルト国民議会が開会する。
フランクフルト国民議会が開会し、ドイツ統一と憲法制定の議論が始まりました。
1848年5月18日、自由主義的改革運動の高まりを受けてフランクフルト国民議会が開会しました。
選挙によって選ばれた議員たちは、全ドイツの憲法起草と統一問題を議題に掲げました。
議会はドイツ連邦各邦の利害調整を試みながら、立憲君主制や市民権の在り方を議論しました。
会期中にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世への皇帝提案など様々な案が浮上しました。
しかし保守勢力の反発や各邦の対立により、最終的な統一と憲法制定には至りませんでした。
議会は1849年に閉会し、ドイツ統一運動は王侯による主導に移行していきました。
1848年
フランクフルト国民議会
1863年
南北戦争: ビックスバーグの包囲戦が始まる。
南北戦争中、北軍が南部連合の要衝ビックスバーグを包囲しました。
ミシシッピ川制圧への重要な一歩となった戦いです。
南北戦争において、北軍は南部連合の要衝ビックスバーグ攻略を図りました。
包囲戦では砲撃と断水を軸とし、物資補給を絶つことで南軍を追い込みました。
ミシシッピ川を制圧して南北を分断する戦略の要として位置づけられました。
長期にわたる包囲は兵士や市民の苦境を生み、多数の犠牲者を出しました。
最終的に北軍の勝利は南北戦争の大きな転換点となりました。
1863年
南北戦争
ビックスバーグの包囲戦
1875年
コロンビアのククタでマグニチュード7.5の地震。コロンビアとベネズエラで壊滅的被害。(ククタ地震)
1875年、コロンビア北部ククタを震源とするマグニチュード7.5の地震が発生し、コロンビアとベネズエラで壊滅的被害をもたらしました。
1875年5月18日、ククタを震源とするマグニチュード7.5の地震が発生しました。
地震は国境を越えて両国で強い揺れを引き起こし、多くの建物が倒壊しました。
住民は瓦礫の下敷きとなり、正確な死者数は不明ですが数千人規模に上ると推定されます。
震災後、復興活動が進められ、被災地では耐震化の必要性が改めて認識されました。
この地震は周辺地域の防災対策に大きな影響を与えました。
1875年
コロンビア
ククタ
マグニチュード
ベネズエラ
ククタ地震