1805年

ムハンマド・アリーがエジプト総督(ワーリー)に就任。

1805年、野心的な軍司令官ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任しました。彼は後にエジプト近代化の基礎を築きます。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国によって派遣されたアルバニア出身の軍人です。総督就任後、マムルーク勢力を排除して中央集権化を推進しました。産業や軍隊の近代化を図り、農業改革や工場建設を奨励しました。これによりエジプトの経済的自立が進みました。1811年には有力な抵抗勢力を排除し、事実上の独立国家を築き上げました。
1805年 ムハンマド・アリー エジプト ワーリー
1814年

ノルウェー憲法が採択され、デンマークからの独立を宣言。デンマーク王家のクリスチャン・フレデリクがノルウェー王に就任。

1814年、ノルウェー憲法が採択されデンマークからの独立を宣言しました。クリスチャン・フレデリクがノルウェー王に即位します。
ナポレオン戦争後の1814年、デンマークはノルウェーをスウェーデンに割譲することになりました。これに反発したノルウェーの代表者たちがアイスヴォルの議会で憲法を制定し、独立を宣言しました。新憲法は当時非常に進歩的とされ、権力分立や国民主権を取り入れていました。デンマーク王家のクリスチャン・フレデリクは国王に選出されましたが、同年中にスウェーデンとの個人連合下に入ります。それでも憲法はノルウェーの国家意識形成に大きく寄与しました。
1814年 ノルウェー憲法 デンマーク クリスチャン・フレデリク
1833年

アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナがメキシコ大統領に就任。

1833年、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナがメキシコ大統領に就任しました。
サンタ・アナはメキシコ独立戦争後に頭角を現した軍人政治家です。初就任時には財政再建や行政改革を試みましたが、度重なる政変に翻弄されました。彼の統治は不安定さが特徴で、テキサス併合問題などでアメリカとの対立を深める要因にもなりました。生涯にわたり複数回大統領となり、メキシコ政治に強い影響を与え続けました。
1833年 アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ メキシコ
1889年

府県制・郡制公布。

1889年、府県制・郡制が公布され、地域行政の枠組みが整備されました。
明治政府は地方行政の効率化と中央集権体制の両立を図るため、府県制と郡制を導入しました。これにより全国の行政区画が統一され、知事と郡長が設置されました。同時に市制・町村制も制定され、住民参画による地方議会が生まれました。これらの改革は国家運営の近代化を支え、現在の地方自治制度の基礎となりました。この制度は後の地方自治法に影響を与え、現在の市町村制にも連なる仕組みとなりました。
1889年 府県制 郡制
1947年

参議院の無所属議員58人が院内会派・緑風会を結成。

参議院の無所属議員58人が緑風会として院内会派を結成した。
1947年5月17日、戦後の新体制下で参議院に所属する無所属議員58人が『緑風会』を結成し、院内会派として活動を開始しました。これは勢力的な党派政治の中で無所属議員の意見をまとめる試みであり、参院運営に一石を投じました。緑風会は福祉や経済再建を中心政策に掲げ、委員会での発言力を強化。国会運営の多様性を示す存在となりました。その後の政局や院内力学に一定の影響を与えました。
1947年 参議院 院内会派 緑風会
1954年

アメリカ合衆国最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判で、「人種分離した教育機関は不平等」との判決を出す。

米最高裁が人種隔離教育を違憲とするブラウン判決を下した。
1954年5月17日、アメリカ合衆国最高裁判所は『ブラウン対教育委員会裁判』で、人種分離された公立学校の制度を『不平等』と断じる歴史的判決を言い渡しました。これにより南部州で根強く続いていたジム・クロウ法に基づく学校分離は事実上終了し、公民権運動に大きな弾みをつけました。判事ウィリアム・O・ダグラスらの意見書は平等保護条項の適用範囲を明確化し、各州に統合を義務づけました。判決は人種差別撤廃の象徴的な一歩として世界的に注目されました。
1954年 アメリカ合衆国最高裁判所 ブラウン対教育委員会裁判
1973年

ウォーターゲート事件: 上院ウォーターゲート特別委員会の公聴会を開始。

上院ウォーターゲート特別委員会の公聴会が始まり、政治スキャンダルの核心が明らかになり始めた。
1973年5月17日、ウォーターゲート事件の真相究明を目的としたアメリカ上院のウォーターゲート特別委員会が初の公聴会を実施。ニクソン政権による不正資金操作や盗聴工作の関与が証言で次々と暴露され、国民の政治不信が一気に高まった。連日テレビ中継された公聴会は米国社会に衝撃を与え、その後の大統領辞任へとつながる重大な転換点となった。
1973年 ウォーターゲート事件 上院ウォーターゲート特別委員会 公聴会
1983年

レバノン・イスラエル・アメリカが、レバノンからのイスラエル軍の撤兵協定に調印。

レバノン、イスラエル、アメリカがイスラエル軍撤兵協定に調印し、地域緊張緩和を試みた。
1983年5月17日、イスラエル軍のレバノン南部駐留を巡り、レバノン政府、イスラエル、アメリカの三者が撤兵協定に調印。米軍の役割や撤退日程が定められ、一時的な緊張緩和が期待された。しかし内戦終結には至らず、協定履行後も断続的な衝突が続くなど、複雑な中東情勢の難しさが改めて浮き彫りになった。
1983年 レバノン イスラエル
1991年

暗黒の5月事件。タイ王国でスチンダー・クラープラユーン将軍の首相就任に反発した国民が抗議デモ。軍部が武力で鎮圧し、300名以上の死者が出る。

タイの民主化運動に対し軍が武力鎮圧し、多数の犠牲者を出した『暗黒の5月事件』が発生した。
1991年5月17日、スチンダー・クラープラユーン将軍が首相に就任したことに反発し、バンコク市内で大規模な抗議デモが起こりました。 デモ隊は民主化と公正な政権移行を求めて平和的に集結しましたが、軍部はこれを一斉射撃で制圧。 公式発表では300名以上の死者が確認され、負傷者も多数に上りました。 事件は国際的な非難を浴び、タイの民主化運動に大きな影響を与えました。 その後の政治改革や人権に関する議論を活性化させた重要な転換点です。
1991年 暗黒の5月事件 タイ王国 スチンダー・クラープラユーン
1994年

マラウイで建国以来初の複数政党制による総選挙を実施。

マラウイで史上初となる複数政党制総選挙が実施された。
1994年5月17日、マラウイで建国以来初の複数政党制による総選挙が行われました。 これまで一党支配を続けてきたマサ・ムタリカ政権に対し、複数政党が初めて選挙競争に参加。 国民は政治改革への期待を胸に投票に臨み、歴史的な選挙は平和的に実施されました。 選挙結果は政権交代には至らなかったものの、民主化への第一歩として高く評価されました。 この選挙はアフリカ諸国における民主化のモデルケースともなりました。
1994年 マラウイ 複数政党制 総選挙
1995年

ジャック・シラクがフランスの大統領に就任。

ジャック・シラクがフランス第5共和制の第5代大統領に就任。
1995年5月17日、フランス大統領選の決選投票でジャック・シラクが勝利し、第5共和制の大統領に就任しました。 シラクは与党社会党候補を破り、中道右派政権を樹立。 彼の就任により、国内外政策に新たな方向性がもたらされました。 特に欧州統合や社会保障制度改革に注力し、任期中にはEU拡大やユーロ導入も経験。 シラク政権はフランスの国際的地位を再強化するとともに、国内の経済改革を推進しました。
1995年 ジャック・シラク フランスの大統領
1995年

チベットで当時6歳の パンチェン・ラマ11世が中国政府によって拉致される。

中国政府が6歳のパンチェン・ラマ11世を拉致し、チベット仏教に介入した重大事件。
1995年5月17日、チベット仏教の最高位の一つであるパンチェン・ラマ11世(当時6歳)が中国当局によって連れ去られました。 パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ地位を持つ宗教指導者であり、その選定はチベットの自治や文化に直結。 中国政府は自身に都合の良い後継者を擁立するための措置とされ、国際的批判を招きました。 以降、11世の消息は不明のまま、チベットの人権問題、宗教弾圧の象徴となっています。 事件は中国とチベットの緊張関係を深刻化させる要因の一つとされています。
チベット パンチェン・ラマ11世