1792年

ニューヨークの仲買人がすずかけ協定を結びウォール街での証券取引が始まる。これが後にニューヨーク証券取引所に発展する。

1792年、ニューヨークの仲買人がすずかけ協定を締結し、ウォール街で初めての証券取引が始まりました。後にこれがニューヨーク証券取引所へと発展します。
このすずかけ協定は24人の仲買人が木の下で取り交わした合意に由来します。当時は非公式だった取引に初めてルールが整備され、証券市場の土台が築かれました。その後、正式な取引所が設立され、アメリカ経済の発展に大きく寄与しました。現在のニューヨーク証券取引所は世界最大級の金融市場として知られています。この市場は現在も世界中の投資家が注目する金融センターです。
1792年 ニューヨーク すずかけ協定 ウォール街 ニューヨーク証券取引所
1805年

ムハンマド・アリーがエジプト総督(ワーリー)に就任。

1805年、野心的な軍司令官ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任しました。彼は後にエジプト近代化の基礎を築きます。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国によって派遣されたアルバニア出身の軍人です。総督就任後、マムルーク勢力を排除して中央集権化を推進しました。産業や軍隊の近代化を図り、農業改革や工場建設を奨励しました。これによりエジプトの経済的自立が進みました。1811年には有力な抵抗勢力を排除し、事実上の独立国家を築き上げました。
1805年 ムハンマド・アリー エジプト ワーリー
1814年

ノルウェー憲法が採択され、デンマークからの独立を宣言。デンマーク王家のクリスチャン・フレデリクがノルウェー王に就任。

1814年、ノルウェー憲法が採択されデンマークからの独立を宣言しました。クリスチャン・フレデリクがノルウェー王に即位します。
ナポレオン戦争後の1814年、デンマークはノルウェーをスウェーデンに割譲することになりました。これに反発したノルウェーの代表者たちがアイスヴォルの議会で憲法を制定し、独立を宣言しました。新憲法は当時非常に進歩的とされ、権力分立や国民主権を取り入れていました。デンマーク王家のクリスチャン・フレデリクは国王に選出されましたが、同年中にスウェーデンとの個人連合下に入ります。それでも憲法はノルウェーの国家意識形成に大きく寄与しました。
1814年 ノルウェー憲法 デンマーク クリスチャン・フレデリク
1833年

アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナがメキシコ大統領に就任。

1833年、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナがメキシコ大統領に就任しました。
サンタ・アナはメキシコ独立戦争後に頭角を現した軍人政治家です。初就任時には財政再建や行政改革を試みましたが、度重なる政変に翻弄されました。彼の統治は不安定さが特徴で、テキサス併合問題などでアメリカとの対立を深める要因にもなりました。生涯にわたり複数回大統領となり、メキシコ政治に強い影響を与え続けました。
1833年 アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ メキシコ
1860年

ドイツのサッカークラブ、TSV1860ミュンヘンが設立される。

1860年、ミュンヘンでサッカークラブTSV1860ミュンヘンが創設されました。
TSV1860ミュンヘンは体育協会を母体とする総合スポーツクラブとして設立されました。サッカーチームは地域リーグでの活躍を経て1900年代初頭には注目を集める存在となります。1960年代にはドイツブンデスリーガに昇格し、トップリーグで戦うまで成長しました。クラブカラーの青白は現在もファンに親しまれています。多くの選手を輩出し、ドイツサッカー史に名を刻んでいます。
1860年 ドイツ サッカー TSV1860ミュンヘン
1865年

万国電信連合(現 国際電気通信連合)が発足する。

1865年、万国電信連合(現 国際電気通信連合)が発足しました。
ジュネーヴで開催された国際電信会議において各国は電信規格の統一と運用の協力を合意しました。これにより国際間の通信が効率化され、料金や技術基準が標準化されました。組織は万国電信連合として設立され、欧州諸国を中心に加盟が進みました。後に電気通信の発展に合わせて名称や業務を拡充し、現在のITUへと発展しました。ITUは無線通信や衛星通信の分野でも国際協力を推進する専門機関です。
1865年 国際電気通信連合
明治元年4月25日

日本からハワイへの密航移民約150人が横浜を出港。

1868年(明治元年4月25日)、日本からハワイへの密航移民約150人が横浜を出港しました。
明治維新直後の混乱期、国内の生活苦から多くの人々が海外移住を模索しました。1868年の密航移民は主にサトウキビ農園労働を望む人々で構成されていました。当時は正式な移民制度が整っていなかったため非公式に出航を決断しました。移民たちは困難な航海を経てハワイに到着し、労働や開拓に従事しました。この出来事は後の日本人移民社会形成の礎となり、日系人コミュニティの出発点となりました。
1868年 明治 4月25日 ハワイ 移民
1875年

第1回ケンタッキーダービーが開催され、アリスティデスが勝利。

1875年、第1回ケンタッキーダービーが開催され、アリスティデスが優勝しました。
ケンタッキーダービーはアメリカ・ルイビルのチャーチルダウンズ競馬場で行われる3歳馬限定の競走です。初開催には15頭が出走し、アリスティデス号が勝利を収めました。以降このレースは三冠競走の一角を担う「アメリカ最古のクラシック競走」となります。毎年5月の第1土曜日に開催され、全米から多くの競馬ファンが集う伝統の一戦です。レース当日は華やかなファッションや社交の場としても知られています。
1875年 ケンタッキーダービー アリスティデス
1875年

最初の屯田兵が北海道に入植。

1875年、最初の屯田兵が北海道に入植しました。
明治政府は北海道の防衛と開拓を目的に屯田兵制度を導入しました。最初の部隊は士族や一般農民から構成され、入植後は農地開墾を行いながら警備任務を務めました。厳寒の気候下での集落形成や農業技術の確立に貢献しました。この取り組みは北海道への移民促進と地域社会整備の契機となりました。屯田兵の活動は後の北海道発展の礎となりました。
屯田兵 北海道
1889年

府県制・郡制公布。

1889年、府県制・郡制が公布され、地域行政の枠組みが整備されました。
明治政府は地方行政の効率化と中央集権体制の両立を図るため、府県制と郡制を導入しました。これにより全国の行政区画が統一され、知事と郡長が設置されました。同時に市制・町村制も制定され、住民参画による地方議会が生まれました。これらの改革は国家運営の近代化を支え、現在の地方自治制度の基礎となりました。この制度は後の地方自治法に影響を与え、現在の市町村制にも連なる仕組みとなりました。
1889年 府県制 郡制
1925年

宇都宮仙太郎が北海道に有限責任北海道製酪販売組合(後の雪印乳業 → 日本ミルクコミュニティを経て現在の雪印メグミルク)を設立し、純国産バターの製造を開始する。

宇都宮仙太郎が北海道で有限責任北海道製酪販売組合を設立し、純国産バターの製造を開始した。
北海道の宇都宮仙太郎が1925年5月17日に有限責任北海道製酪販売組合を設立しました。これは後の雪印乳業の前身で、純国産バターの本格的な製造を日本で初めて開始した事業です。品質管理や流通体制の確立を進め、国内生乳の需要と地域農家の経済発展に大きく寄与しました。企業はその後、日本ミルクコミュニティを経て現在の雪印メグミルクとなり、日本の乳製品市場を牽引し続けています。国産バターの歴史に残る一大事業でした。
1925年 宇都宮仙太郎 北海道 雪印乳業 日本ミルクコミュニティ 雪印メグミルク バター
1928年

第9回夏季オリンピック・アムステルダム大会開幕。8月12日まで。

1928年のアムステルダムオリンピックが開幕した。
第9回夏季オリンピックは1928年5月17日にオランダのアムステルダムで開幕し、8月12日まで開催されました。陸上競技や水泳、体操など14の競技分野で選手がしのぎを削り、初めて聖火リレーが実施されるなど近代オリンピックの新たなイベントが導入されました。女子トラック競技が初めて行われ、女性アスリートの活躍も注目を集めました。総計2888名を超える選手が参加し、史上最多規模となった大会はスポーツの国際交流を大いに促進しました。
1928年 第9回夏季オリンピック・アムステルダム大会 8月12日