天武天皇4年4月17日

天武天皇が日本で初めて肉食・狩猟を禁じる詔を発する。

天武天皇が日本初の肉食・狩猟禁止の詔を発布し、仏教的価値観を社会に示しました。 当時の食文化や狩猟慣行に大きな影響を与えました。
675年4月17日、天武天皇は生きとし生けるものの尊重を訴え、肉食と狩猟を禁じる詔を発しました。 この詔は仏教の不殺生戒の影響を色濃く受け、日本の食文化や狩猟慣行に大きな変革をもたらしました。 詔の発布により、貴族や庶民の間で肉食が制限され、代替として魚食が奨励されました。 さらに、この施策は後の律令制度にも反映され、朝廷の宗教政策の一環となりました。 禁令の実施には地方行政の協力が不可欠であり、地方豪族への通達や監視体制が整備されました。 こうした動きは日本史上初の食文化政策として知られ、後世の文化史研究でも注目されています。
675年 天武天皇 4月17日 肉食 狩猟
1204年

フランドル伯ボードゥアン9世が、ボードゥアン1世としてラテン帝国の初代皇帝に即位。

第4回十字軍後、フランドル伯ボードゥアン9世がラテン帝国の初代皇帝に即位しました。 ビザンツ帝国に代わる西欧勢力の新政権が樹立されます。
1204年5月16日、ボードゥアン9世はボードゥアン1世としてラテン帝国皇帝に戴冠しました。 この帝国は第4回十字軍がビザンツ帝国を制圧した後に成立した西欧諸侯の政権です。 新帝国はコンスタンティノープルを首都とし、東ローマ世界におけるカトリック勢力の拠点となりました。 ボードゥアン1世はフランドル地方出身の伯爵であり、その軍事的指導力が評価されての即位です。 しかし、内外の反発や資金不足に悩まされ、帝国の存続は短期間で幕を閉じました。 ラテン帝国の設立は中世西欧と東方正教圏の対立を一層深める契機となりました。
1204年 ボードゥアン9世 ラテン帝国
1532年

イングランドのカトリック教徒の政治家トマス・モアが大法官を辞職。離婚問題を巡りヘンリー8世の不興を買い、1535年7月6日に斬首刑に処せられる。(1935年に列聖された。)

トマス・モアがヘンリー8世との離婚問題を巡り大法官を辞職し、信仰を貫いた決断の瞬間です。
1532年5月16日、トマス・モアはイングランド王ヘンリー8世の大法官職を辞任しました。 離婚問題を巡り王と対立したモアは、カトリックの信仰を守るため敢えて政権から距離をとります。 その後、国王は教会をイングランド国教会として分離し、モアは反逆罪で告発されました。 1535年7月6日に斬首刑に処された彼は、後にカトリック教会により列聖されました。 法学者としても知られるモアの辞職は、信仰と法の関係を問い続ける象徴的事件です。
1532年 イングランド カトリック教徒 トマス・モア 斬首刑 列聖
1568年

スコットランドの元女王メアリーがイングランドに亡命。

スコットランド女王メアリーが王位を追われ、従妹エリザベス1世のもとへ亡命した歴史的転換点です。
1568年5月16日、メアリー・ステュアートは国内の貴族反乱に敗れ、スコットランド王位を追われました。 彼女は従妹にあたるイングランド女王エリザベス1世の元へ亡命します。 しかし、カトリックの正統性を唱えるメアリーはイングランドで政治的脅威とみなされました。 最終的に彼女は長期の軟禁生活を余儀なくされ、1587年に反逆罪で処刑される運命をたどります。 亡命は王権と宗教対立が複雑に絡む16世紀ヨーロッパ情勢を象徴する出来事です。
1568年 スコットランド メアリー
元禄2年3月27日

松尾芭蕉が弟子の河合曾良とともに『おくのほそ道』の旅に出発。

松尾芭蕉が弟子の曾良と共に俳諧紀行『おくのほそ道』の旅に出発し、文学史に新たなページを刻みました。
1689年5月16日、俳人松尾芭蕉は弟子の河合曾良とともに江戸を発ち、西日本・東北地方を巡る旅に出発しました。 この紀行は『おくのほそ道』として記録され、日本文学史に残る代表作となります。 風景の描写や旅先での人々との交流を織り交ぜ、俳句と随筆を融合させた独自の作風が特徴です。 旅は約5ヶ月にわたり、奥の細道と呼ばれる北国の険しい道を踏破しました。 その後の俳諧や紀行文学に大きな影響を与え、現代まで読み継がれています。
1689年 元禄 3月27日 松尾芭蕉 河合曾良 おくのほそ道
1770年

後にフランス国王ルイ16世となるルイ・オーギュストがマリー・アントワネットと結婚。

フランス王太子ルイ・オーギュストがオーストリア大公女マリー・アントワネットと政略結婚し、同盟を強化しました。
1770年5月16日、ルイ15世の孫ルイ・オーギュストとオーストリア大公女マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮で結婚式を挙げました。 この政略結婚はフランスとオーストリアの強固な同盟を目的として計画されました。 若きアントワネットは宮廷に華やかな文化をもたらし、社交界で注目を集めます。 しかし、国王財政を巡る浪費や政治的圧力がのちのフランス革命への不満を高めました。 この結婚式は絶対王政時代の宮廷儀礼の頂点を象徴する大行事でした。
1770年 ルイ16世 マリー・アントワネット
1771年

世直しの戦争: アラマンスの戦い。

1771年、世直しの戦争の一環としてアラマンスの戦いが行われました。
1771年 世直しの戦争 アラマンスの戦い 英語版
1811年

スペイン独立戦争: アルブエラの戦い。

スペイン独立戦争中、英・西・葡連合軍とナポレオン軍がアルブエラで激突した歴史的会戦です。
1811年5月16日、スペイン独立戦争の一戦、アルブエラの戦いが行われました。 イギリス軍のウェッジウッド将軍率いる連合軍(イギリス、スペイン、ポルトガル)がフランス軍と衝突します。 激戦の末、フランス軍は戦術的撤退を余儀なくされ、連合軍の勝利と見なされました。 犠牲者数は双方合わせて1万を超え、特にイギリス軍の損害が深刻でした。 この勝利はペニンシュラ戦争における連合軍の士気を大いに高め、フランス軍の西方戦線への圧力を緩和させました。
1811年 スペイン独立戦争 アルブエラの戦い
1842年

オレゴン・トレイルを通る最初の幌馬車隊がミズーリ州エルム・グラブを出発。

オレゴン・トレイルを通る最初の幌馬車隊がミズーリから西部へ向けて出発し、開拓の扉を開きました。
1842年5月16日、最初の移民団がミズーリ州エルム・グラブを起点にオレゴン・トレイルを西へと進出しました。 このルートはコロラド州やワイオミング州、アイダホ州を経由し、最終的に太平洋岸へ至ります。 厳しい自然環境や先住民との交渉など、多くの困難が移民を待ち受けていました。 移民たちは食糧や物資を幌馬車に積み込み、数ヶ月にわたる旅程を耐え抜く必要がありました。 この遠征はアメリカ西部開拓の先駆けとなり、後のゴールドラッシュや鉄道敷設へとつながります。
1842年 オレゴン・トレイル ミズーリ州
1843年

イギリスのパディントン スラウ間で世界初の電報業務を開始。

イギリスでパディントンとスラウ間の世界初の商用電信サービスが開始され、通信革命が動き出しました。
1843年5月16日、ロンドンのパディントン駅とスラウ間でクック=ホイットストン式電信による初の商用電報業務が始まりました。 この技術は電磁気を利用して情報を即時伝達し、従来の郵便に比べて劇的に速度が向上しました。 鉄道会社との連携で駅間通信として導入され、運行の安全性向上や旅客案内に寄与しました。 やがて電報網はイギリス国内外に拡大し、世界規模の通信インフラへと発展しました。 この業務開始は産業革命を支える重要技術革新として歴史に刻まれています。
1843年 パディントン スラウ 電報
1866年

チャールズ・エルマー・ハイアーがルートビアを商品化。

チャールズ・エルマー・ハイアーがルートビアを初めて商品化した日。 アメリカで親しまれる甘味炭酸飲料の原点がここにあります。
フィラデルフィアの薬剤師であるチャールズ・エルマー・ハイアーは、木の根を原料とした飲み物を開発し、ルートビアと名付けました。 1866年、彼はこの飲料の製品化に成功し、初めて市場に出荷しました。 当初は薬効を謳った健康飲料として販売されましたが、やがて甘味と炭酸で人気を博しました。 その後、アメリカ全土に広がり、今日まで続く代表的なソフトドリンクとなりました。 ルートビアは現在でもクラシックな味わいとして根強いファンを持っています。
1866年 チャールズ・エルマー・ハイアー 英語版 ルートビア
1889年

東京・上野の宮内省博物館を帝国博物館に改称。京都・奈良にも帝国博物館を設置。

東京・上野の宮内省博物館が『帝国博物館』と改称された日。 京都・奈良にも新たな帝国博物館が設置されました。
明治22年(1889年)5月16日、東京・上野にあった宮内省博物館が『帝国博物館』と改称されました。 これに伴い、京都と奈良にも同様の帝国博物館が同時に設立されました。 帝国博物館の設置は、日本の近代化における文化振興策の一環でした。 収蔵品には考古資料や美術工芸品が含まれ、広く一般公開が行われました。 後の東京国立博物館や京都国立博物館、奈良文化財研究所などの前身となります。 これらの博物館は日本文化の保存と研究に大きな役割を果たしました。
1889年 宮内省博物館 帝国博物館 京都 奈良