章武元年4月6日

劉備が皇帝に即位し蜀(蜀漢)が成立。

三国時代の英雄劉備が皇帝に即位し、蜀漢を建国した出来事です。
章武元年(221年)4月6日、劉備は成都において皇帝として即位し、蜀(蜀漢)の建国を成し遂げました。彼は漢王朝の正統性を継承すると主張し、魏・呉と並ぶ三国時代の一角を形成しました。建国にあたり、軍事・行政両面の体制整備を急ぎ、領内の安定と発展を図りました。劉備は義兄弟である関羽・張飛らと協力し、民心を掌握することで勢力を拡大しました。蜀漢の成立は後世に多大な影響を与え、中国史上で語り継がれる大事件となりました。
221年 章武 4月6日 劉備
推古天皇元年4月10日

聖徳太子が推古天皇の皇太子・摂政に就任(『日本書紀』による)。

推古天皇元年(593年)、聖徳太子が皇太子兼摂政に就任し、仏教保護や政治制度の改革を主導した歴史的な出来事です。
推古天皇元年(593年)4月10日、『日本書紀』によると聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子兼摂政に任ぜられました。彼は蘇我氏と協力しつつ政治改革を進め、仏教を庇護するとともに冠位十二階や十七条憲法を制定して官僚制度の基礎を築きました。これにより豪族勢力の統制が強化され、中央集権国家へと近づく重要な一歩となりました。太子の改革は日本の律令制や仏教文化の発展に大きな影響を与え、その後の歴史に深く刻まれることになりました。
593年 推古天皇 4月10日 聖徳太子 推古天皇 皇太子 摂政 日本書紀
1567年

スコットランド女王メアリーがボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚。

スコットランド女王メアリーがボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚し、政治的スキャンダルを巻き起こしました。
1567年5月15日、スコットランド女王メアリー・ステュアートは愛人であるボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚しました。この結婚は宗教的・貴族間の反発を招き、政治的安定を揺るがしました。ヘップバーンはカトリック信者であった女王の側近として影響力を強め、貴族たちの反感を買いました。結果的にメアリーは王位を追われ、ヘップバーン自身も国外逃亡を余儀なくされました。マリー女王の波乱に満ちた生涯とこの結婚は、後世の文学や映画などでも繰り返し描かれるドラマチックな事件です。
1567年 スコットランド メアリー ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン
崇徳元年4月11日

後金が国号を清に改称。

1636年、後金が国号を『清』に改称し、満洲の統治体制を刷新しました。
崇徳元年(1636年)4月11日、中国東北部の後金政権は国号を『清』に改めました。ホンタイジ(皇太極)によるこの改称は、政権の正統性を高め、明朝への対抗を明確化する狙いがありました。清朝成立に伴い、満洲貴族と漢人官僚の連携が進められ、行政機構の整備が加速しました。改称後の清は数十年で中国全土を支配し、以後約三世紀にわたって中国史上最長の統一王朝として君臨します。この出来事は近世中国の歴史における大きな転換点となりました。
1636年 崇徳 4月11日 後金
1908年

第10回衆議院議員総選挙。

1908年、日本で第10回衆議院議員総選挙が実施されました。
1908年5月15日、第10回衆議院議員総選挙が行われ、明治憲法下で行われた選挙の一つとして政治体制の転換点となりました。立憲政友会と立憲国民党をはじめ、複数の政党が議席を競い合いました。選挙権は25歳以上の男子に限られていましたが、有権者数は増加傾向にありました。結果、当時の与党であった立憲政友会が一定の議席を維持し、内閣の支持基盤を確保しました。この選挙は政党政治の定着と議会の役割拡大に寄与した歴史的出来事と評価されています。
1908年 第10回衆議院議員総選挙
1912年

第11回衆議院議員総選挙。

第11回衆議院議員総選挙が行われ、立憲政友会が第1党を維持した。
1912年5月15日に実施された第11回衆議院議員総選挙では475議席をめぐり各政党が激しく争った。当時の選挙権は制限された納税者に限定され、有権者数は約45万人にとどまっていた。自由党系の憲政本党(憲政党)や立憲政友会が主導権を争い、政友会が第1党の地位を維持した。この選挙は立憲政治の成熟と政党間のパワーバランスが問われた重要な節目とされる。結果は細川内閣への影響を及ぼし、以後の政治情勢を大きく左右した。
1912年 第11回衆議院議員総選挙
1932年

五・一五事件。内閣総理大臣犬養毅が襲撃、殺害される。

五・一五事件で海軍青年将校が犬養毅首相を襲撃し、日本の立憲政治が大きな打撃を受けた。
1932年5月15日、海軍の青年将校らが東京の首相官邸に侵入し、犬養毅首相を射殺した。この事件は五・一五事件と呼ばれ、政党政治への反発を背景としたクーデター未遂である。犬養首相は庶民にも人気の高い政治家であり、その暗殺は国内外に衝撃を与えた。事件後、軍部の影響力が増大し、立憲政治は大きく後退した。この出来事は昭和初期の政軍関係の転換点となり、軍国主義台頭の一因とされる。
1932年 五・一五事件 内閣総理大臣 犬養毅
1943年

ヨシフ・スターリンがコミンテルン(第3インターナショナル)の解散を指示。

ヨシフ・スターリンがコミンテルンの解散を命じた日。
1943年5月15日、ヨシフ・スターリンはコミンテルン(第3インターナショナル)の解散を命じました。コミンテルンは1919年にレーニンの主導で設立され、各国共産党の国際連携を図っていましたが、第二次世界大戦中の連合国諸国との協力を円滑にするために廃止が決定されました。スターリンはこの措置を通じて、ソ連への西側諸国の警戒感を和らげ、枢軸国に対する連携を強化しようとしました。解散後も各国共産党は独自に活動を継続しましたが、コミンテルンの公式な枠組みは歴史の幕を下ろしました。こうした動きは戦後の国際共産運動にも大きな影響を与えました。
1943年 ヨシフ・スターリン コミンテルン
1948年

エジプト、ヨルダン、レバノン、シリア、イラク、サウジアラビアがイスラエルに侵攻し、第1次中東戦争始まる。

アラブ諸国がイスラエルに侵攻し、第1次中東戦争が勃発した日。
1948年5月15日、イスラエルの独立宣言翌日にエジプト、ヨルダン、レバノン、シリア、イラク、サウジアラビアなどアラブ諸国が一斉に侵攻し、第1次中東戦争が始まりました。国連のパレスチナ分割決議に反発したアラブ連盟は新国家の存在を認めず軍事行動に踏み切りました。戦闘は都市部と村落で散発的に発生し、パレスチナ難民問題を深刻化させました。イスラエル側は国防組織の結束と支援を受けて抵抗し、戦況は膠着状態に陥りました。1949年には休戦協定が締結され、現在のグリーンラインが形成されました。戦争の結果、領土や難民を巡る対立が現在まで尾を引いています。
エジプト ヨルダン レバノン シリア イラク サウジアラビア イスラエル 第1次中東戦争
1955年

オーストリアと占領4カ国(米英仏ソ)がオーストリア国家条約に調印。

オーストリアと占領4カ国がオーストリア国家条約に調印し、主権回復を果たした日。
1955年5月15日、オーストリアとアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国がウィーンでオーストリア国家条約に調印しました。第二次世界大戦後12年にわたる占領状態が終結し、オーストリアは完全な主権を回復しました。本条約では永続的中立が条件とされ、冷戦下の東西対立における中立国としての地位が保証されました。協定は同年10月26日に発効し、その日をオーストリアの「国民的休日」として祝日としています。この条約締結は冷戦期のヨーロッパにおける重要な政治的転換点の一つとされています。
1955年 オーストリア オーストリア国家条約
1972年

沖縄県がアメリカ合衆国から日本に返還される。

琉球政府統治下の沖縄県がアメリカから日本へ返還され、日本の主権が復帰した。
1972年5月15日、沖縄県はアメリカ合衆国から日本へ正式に返還され、1945年の第二次世界大戦終結以来続いていた米軍施政権が終了した。 この日をもって沖縄は日本の47番目の都道府県となり、日本国憲法の適用が全面的に復活した。 返還協定は1971年に日米両政府間で締結され、返還に先立ち法整備や地位協定の見直しが行われた。 返還記念式典では日本国旗の掲揚や万歳三唱が行われ、地元住民を含む多くの関係者が参加した。 この出来事は日本の主権回復と沖縄の戦後体制転換にとって重要な節目となった。
1972年 沖縄県 アメリカ合衆国 日本 返還
1973年

東ドイツと日本が国交樹立。

東ドイツ(GDR)と日本が国交を樹立し、正式な外交関係を開始した。
1973年5月15日、日本政府と東ドイツ民主共和国(GDR)は大使級外交関係樹立で合意し、国交を正式に開始した。 この締結により両国は相互に大使館を開設し、経済・文化・学術交流が本格化した。 冷戦期における東西の緊張緩和を背景に、日本の対東欧外交が拡大した象徴的な出来事とされる。 石炭や機械製品などの貿易が活発化し、文化交流協定の締結など多彩な協力分野が広がった。 1990年のドイツ再統一まで、東ドイツは日本のヨーロッパ政策において重要な位置を占め続けた。
1973年 東ドイツ