寛仁3年4月7日

刀伊の入寇。

10世紀の日本に異民族「刀伊」が襲来し、沿岸防衛の甘さが露呈した出来事です。
1019年、朝鮮半島沿岸を拠点とする刀伊(タウト)が九州北部を襲撃しました。 刀伊は沿岸の村や港を略奪し、多くの人々が混乱に巻き込まれました。 当時の朝廷は迅速な対応を求められ、軍事力強化や防衛施設の整備が検討されました。 この事件は平将門の乱後の国内情勢に影響を与え、防衛体制の見直しを促しました。 以後、九州地域では城柵の強化や警備の厳重化が図られることとなりました。
1019年 寛仁 4月7日 刀伊の入寇
1264年

第2次バロン戦争: ルースの戦い。イングランド王ヘンリー3世がシモン・ド・モンフォールに捕らえられる。

第2次バロン戦争中のルースの戦いで、イングランド王ヘンリー3世が捕らえられた劇的な出来事です。
1264年、シモン・ド・モンフォール率いる反乱貴族と王党派がルースの戦いで激突しました。 モンフォール軍は戦略的に優位に立ち、王軍を包囲して勝利を収めました。 この戦いでヘンリー3世自身と長男エドワード王子が捕縛され、交渉の主導権を握られました。 捕虜となった王はモンフォールとの間で条約を結ばざるを得ず、貴族勢力の要求が通りました。 この事件はのちの議会制発展にも影響を与え、イングランドの民主的制度の萌芽とされます。
1264年 第2次バロン戦争 ルースの戦い 英語版 ヘンリー3世 シモン・ド・モンフォール
1747年

オーストリア継承戦争: 第一次フィニステレ岬の海戦。

オーストリア継承戦争中の海戦で、英仏両艦隊がフィニステレ岬沖で激突しました。
1747年、オーストリア継承戦争の一環として英仏艦隊がフィニステレ岬沖で衝突しました。 イギリス海軍はフランス艦隊を優勢に戦い、補給船団の護衛に成功しました。 この勝利によりイギリスの海上補給路が維持され、戦局に影響を与えました。 フランス海軍は戦力を再編成する必要に迫られ、地中海への進出を一時断念しました。 この海戦は18世紀の海軍戦術や艦隊運用の研究において重要な事例とされています。
1747年 オーストリア継承戦争 第一次フィニステレ岬の海戦
1801年

オスマン帝国・トリポリのパシャが在トリポリアメリカ合衆国領事館の星条旗を切り落とす事件が発生。第一次バーバリ戦争の引き金となる。

トリポリのパシャが星条旗を切り落とし、米第一次バーバリ戦争勃発の引き金となった事件です。
1801年、オスマン帝国支配下のトリポリでポシャと称される支配者が米領事館を襲撃しました。 彼は米国の旗を侮辱するため、星条旗を切り落として踏みにじりました。 これに激怒したアメリカは、艦隊を派遣し第一次バーバリ戦争を開始しました。 戦争は海賊行為の根絶と米国船舶の保護を目的とし、北アフリカ情勢に影響を与えました。 最終的に条約が締結され、米国の地中海進出と海軍力強化の礎となりました。
1801年 オスマン帝国 トリポリ パシャ アメリカ合衆国 領事館 星条旗 第一次バーバリ戦争
慶応4年4月19日

戊辰戦争: 宇都宮城の戦い。

戊辰戦争の一戦である宇都宮城の戦いが行われ、旧幕府軍と新政府軍が激突しました。
戊辰戦争(1868-1869)は明治維新を巡る内戦で、新政府軍と旧幕府軍が衝突しました。 5月14日、栃木県宇都宮城を巡り両軍が激突。 新政府軍は戦略的要地である城を攻略し、西南方面への進軍ルートを確保。 旧幕府軍は一時的に防戦するも、兵力差と内部分裂から退却を余儀なくされました。 この勝利により新政府は北上作戦を加速させ、戊辰戦争の流れを優勢に導きました。 現場には当時の戦跡や史跡が残り、歴史ファンの巡礼地となっています。
1868年 慶応 4月19日 戊辰戦争 宇都宮城の戦い
1940年

第二次世界大戦・オランダにおける戦い: ナチス・ドイツ軍がロッテルダムを爆撃し、オランダが降伏。

ナチス・ドイツ軍がロッテルダムを爆撃し、オランダ降伏への決定打となった日。
1940年5月14日、第二次世界大戦におけるオランダ侵攻の一環として、ナチス・ドイツ軍がロッテルダム市街を空爆。 市内中心部は壊滅的被害を受け、民間人を含む800人以上の死傷者が発生した。 空爆の恐怖と混乱の中、オランダ政府は同日中にドイツに無条件降伏を表明した。 正式降伏文書は5月15日に調印され、オランダは占領下に置かれることとなった。 ロッテルダムの空爆は国際社会から非人道的行為として批判を浴び、民間人攻撃の象徴となった。 この事件はヨーロッパ戦線における戦略爆撃の恐ろしさを世界に印象付ける出来事となった。
1940年 第二次世界大戦 オランダにおける戦い ナチス・ドイツ ロッテルダム オランダ
1940年

イギリスで地域防衛義勇隊(後のホーム・ガード)が発足する。

イギリスで地域防衛義勇隊(後のホーム・ガード)が正式に発足した日。
1940年5月14日、ウィンストン・チャーチル首相の指示で「地域防衛義勇隊」が設立された。 市民志願兵を主体とする民兵組織として編成され、本土決戦に備えた地域防衛を担った。 翌1941年7月に「ホーム・ガード」と改称され、通信班や救護隊、機関銃隊など専門部隊を設置。 過去の軍歴者から若年者まで幅広い年齢層が参加し、市民自らが防衛意識を高める草の根運動となった。 定期的に行われた演習や訓練は英国住民の日常にも溶け込み、国民的な士気向上に貢献した。 ノルマンディー上陸作戦後も本土守備隊として活動を継続し、終戦まで存在した。
イギリス ホーム・ガード
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋空襲で名古屋城が焼失。

1945年5月14日夜、米軍の空襲で名古屋城の天守が焼失した。
1945年5月14日夜、B29爆撃機による名古屋空襲が行われ、城下町を含む市街地が大きな被害を受けた。 この攻撃では軍需工場を標的にしていたが、名古屋城天守も炎上し、貴重な歴史的建造物が焼失した。 名古屋城は江戸時代初期に築城され、金箔の鯱を擁する優雅な姿で知られていた。 空襲により城郭の大部分が崩壊し、戦後復元まで長い時間を要することとなった。 この被害は戦時下の都市部への空襲がもたらす文化財損失の象徴的事例となった。 現在の天守は1959年に鉄筋コンクリート造で再建された。
1945年 日本本土空襲 名古屋空襲 名古屋城
1948年

イスラエルが建国を宣言。同日、アラブ連盟5カ国がイスラエルへの戦争を宣言し、第一次中東戦争が始まる。

1948年5月14日、イスラエルが建国を宣言し、アラブ諸国との武力衝突が始まった。
イギリス委任統治領パレスチナの混乱を受け、ユダヤ人指導者ダビド・ベン=グリオンがテルアビブで独立を宣言した。 この宣言に対し、アラブ連盟加盟国のエジプト、シリア、レバノン、イラク、ヨルダンが同日中に宣戦布告した。 かくして第一次中東戦争(アラブ=イスラエル戦争)が勃発し、新国家は即座に防衛戦に追われることとなった。 戦闘は都市部や砂漠地帯で激化し、多くの民間人も巻き込まれた。 この紛争はパレスチナ難民問題を深刻化させ、現在に至るまで中東情勢に大きな影響を与えている。 国連分割案の是非を巡る対立が根本的な危機を招いた歴史的転換点といえる。
1948年 イスラエル 建国を宣言 アラブ連盟 第一次中東戦争
1955年

ソ連を含む8カ国の共産圏諸国が相互軍事援助を目的としたワルシャワ条約に調印。冷戦の終結により1991年7月1日に解体された。

1955年5月14日、ソ連など8か国がワルシャワ条約に調印し、東側諸国の軍事同盟が成立した。
ワルシャワ条約機構はソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアが相互防衛を目的として結成した。 これは北大西洋条約機構(NATO)への対抗策として機能し、冷戦期の東西対立を軍事的に補完した。 加盟国は集団防衛をうたう一方で、ソ連の影響下で運営され、東側諸国の統制体制強化にも用いられた。 構成国間の政治的・経済的結束を強める役割も果たしたが、内部対立やソ連崩壊に伴い弱体化していった。 最終的に冷戦終結後の1991年7月1日に正式解体され、その歴史に幕を下ろした。
1955年 ソ連 ワルシャワ条約 1991年 7月1日