長徳2年4月24日
藤原道長と関白の座を争った藤原伊周が、大宰権帥に左遷される。
藤原道長と対立した藤原伊周が、大宰権帥に左遷された出来事です。平安時代の宮廷政治の一端がうかがえます。
平安時代中期、藤原氏の権力闘争の一幕として発生した政治事件です。
藤原道長と関白の座を争った伊周は、政争に敗れ大宰権帥に左遷されました。
この処分により、伊周は地方政務へと追いやられ、中央での影響力を喪失しました。
朝廷内での権力バランスが変化し、道長の絶対的な権勢が一層強まったとされています。
この左遷劇は、後世の摂関政治研究においても重要な事例とされています。
996年
長徳
4月24日
藤原道長
藤原伊周
1607年
英国王ジェームス1世によって認可されたバージニア社の英国人入植者が、北米に英国初の入植地を設立し、バージニア州ジェームズタウンと命名した。
イギリス初の恒久的北米植民地、ジェームズタウンが設立された歴史的瞬間です。
1607年、ジェームズ1世の特許を受けたバージニア会社の入植者約100名が北米に到着しました。
彼らはチェサピーク湾沿岸の湿地帯に定住し、拠点を「ジェームズタウン」と名付けました。
過酷な環境や食料不足に直面し、多くの犠牲者が出る苦難の連続でした。
やがてタバコの栽培が成功し、経済基盤が確立されると、植民地は安定期を迎えます。
この地は後のアメリカ合衆国建国の端緒となり、欧州勢力の新天地開拓を象徴しました。
1607年
ジェームス1世
ジェームズタウン
1610年
フランス国王アンリ4世がカトリックの狂信者ラヴァイヤックに暗殺される。
カトリック教徒ラヴァイヤックによる暗殺で、フランス王アンリ4世が非業の死を遂げた事件です。
1610年、パリ市街を馬で移動中のアンリ4世は、狂信的信者ラヴァイヤックに襲われました。
暗殺者は王の乗る馬の前に飛び出し、ナイフで致命傷を与えました。
アンリ4世はユグノー戦争終結後の宗教和解を進めた国王で、民衆の支持が厚かった。
その死は国内に大きな衝撃を与え、後継のルイ13世の治世にも影響を及ぼしました。
この事件は宗教対立の激しさと王権への脅威を象徴するものとして語り継がれます。
1610年
アンリ4世
1643年
ルイ14世が4歳でフランス王に即位。
わずか4歳でフランス王に即位したルイ14世が、太陽王としての時代を予感させる瞬間です。
1643年、父ルイ13世の死去に伴い、4歳のルイ14世がフランス王に就きました。
摂政には母アンヌ・ドートリッシュとマザラン枢機卿が当たり、幼少期の政務を担いました。
この即位は三十年戦争終結後のフランス再建や貴族統制の契機となります。
長い治世を通じてルイ14世は絶対王政を確立し、ベルサイユ宮殿の建設などで知られます。
彼の即位は近代ヨーロッパの政治史における大きな転換点と位置づけられます。
1643年
ルイ14世
1811年
パラグアイがスペインから独立。
1811年5月14日、パラグアイがスペインから独立を宣言しました。南米における独立運動の重要な節目です。
南米では19世紀初頭からスペイン植民地の独立運動が活発化していました。
パラグアイでも1811年5月14日に独立派が首都アスンシオンでスペイン総督に独立を宣言。
これによりパラグアイ共和国が誕生し、南米諸国の独立の流れの一翼を担いました。
独立は平和的に進められ、大規模な戦闘はほとんど発生しませんでした。
その後パラグアイは隣国との複雑な外交関係や内戦をへて国家体制を確立しました。
独立記念日は現在も国民に祝われています。
1811年
パラグアイ
スペイン
1878年
紀尾井坂の変: 内務卿大久保利通が暗殺される。
1878年5月14日、明治政府の重鎮・大久保利通が暗殺されました(紀尾井坂の変)。
1878年5月14日、東京の紀尾井坂付近で大久保利通が明治政府の内務卿在任中に襲撃され暗殺。
犯人は旧士族らで、西南戦争後の不満が背景とされています。
大久保は西洋式近代国家の建設に寄与し、内務省設立など行政基盤を整備しました。
彼の死は政府内に動揺を呼び、以後の政治運営に大きな影響を与えました。
紀尾井坂には墓所や記念碑があり、歴史的事件として語り継がれています。
この事件は明治初期の混乱を象徴する出来事です。
1878年
紀尾井坂の変
大久保利通
1935年
同年2月8日に憲法会議で採択され、3月23日米国大統領によって承認されたフィリピン憲法が、国民投票によって批准された。
フィリピン憲法が国民投票によって正式に批准され、自主政府の基盤が固まった日。
1935年5月14日、フィリピン憲法が国民投票によって承認され、同憲法に基づく政府樹立への道が開かれた。
憲法は同年2月8日に憲法制定会議で採択され、3月23日にアメリカ合衆国大統領ハーバート・フーヴァーによって認可されていた。
新憲法は大統領制を導入し、議会制とのバランスを図った三権分立を規定した。
有権者は30歳以上の男女に拡大され、近代的な選挙制度が整備された。
同年11月15日、初代大統領にマニュエル・ケソンが就任し、コモンウェルス政府が発足した。
この憲法はフィリピン独立への準備期として重要視され、1946年の独立達成に大きく貢献した。
1935年
2月8日
3月23日
フィリピン憲法
1948年
イスラエルが建国を宣言。同日、アラブ連盟5カ国がイスラエルへの戦争を宣言し、第一次中東戦争が始まる。
1948年5月14日、イスラエルが建国を宣言し、アラブ諸国との武力衝突が始まった。
イギリス委任統治領パレスチナの混乱を受け、ユダヤ人指導者ダビド・ベン=グリオンがテルアビブで独立を宣言した。 この宣言に対し、アラブ連盟加盟国のエジプト、シリア、レバノン、イラク、ヨルダンが同日中に宣戦布告した。 かくして第一次中東戦争(アラブ=イスラエル戦争)が勃発し、新国家は即座に防衛戦に追われることとなった。 戦闘は都市部や砂漠地帯で激化し、多くの民間人も巻き込まれた。 この紛争はパレスチナ難民問題を深刻化させ、現在に至るまで中東情勢に大きな影響を与えている。 国連分割案の是非を巡る対立が根本的な危機を招いた歴史的転換点といえる。
1948年
イスラエル
建国を宣言
アラブ連盟
第一次中東戦争
1955年
ソ連を含む8カ国の共産圏諸国が相互軍事援助を目的としたワルシャワ条約に調印。冷戦の終結により1991年7月1日に解体された。
1955年5月14日、ソ連など8か国がワルシャワ条約に調印し、東側諸国の軍事同盟が成立した。
ワルシャワ条約機構はソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアが相互防衛を目的として結成した。 これは北大西洋条約機構(NATO)への対抗策として機能し、冷戦期の東西対立を軍事的に補完した。 加盟国は集団防衛をうたう一方で、ソ連の影響下で運営され、東側諸国の統制体制強化にも用いられた。 構成国間の政治的・経済的結束を強める役割も果たしたが、内部対立やソ連崩壊に伴い弱体化していった。 最終的に冷戦終結後の1991年7月1日に正式解体され、その歴史に幕を下ろした。
1955年
ソ連
ワルシャワ条約
1991年
7月1日
1960年
日米安全保障条約改定に反対するデモ隊約10万人が国会を取り囲む。
1960年5月14日、改定日米安全保障条約に反対する約10万人の抗議デモが国会を包囲した。
1951年の旧日米安全保障条約を改定した新条約に対し、全国で学生や労働組合を中心とした反対運動が激化した。 1960年5月14日には約10万人のデモ隊が国会議事堂周辺に集結し、国会を取り囲んだ。 警官隊との衝突や混乱は大規模となり、連日メディアを賑わせた。 当時の岸信介内閣は強行採決を断行したが、社会的反発は最高潮に達した。 この一連の抗議活動は「安保闘争」と総称され、日本の戦後政治や市民運動の転換点となった。
1960年
日米安全保障条約
1963年
クウェートが国連に加盟。
1963年5月14日、クウェートが国連に加盟し、国際社会の正式メンバーとなった。
クウェートは1961年にイギリス保護領から独立を達成した後、国連加盟を申請した。 1963年5月14日、国際連合総会の承認を受け、同組織の112番目の加盟国となった。 加盟により外交関係の拡大や国際支援へのアクセスが可能になり、新興産油国としての地位を強化した。 石油富を背景に経済開発を進め、OPECでも重要な役割を果たすようになる。 この加入は中東地域の政治的バランスにも影響を及ぼした。
1963年
クウェート
国連
1972年
火炎瓶処罰法が公布・施行。
1972年5月14日に火炎瓶の所持・使用を厳罰化する火炎瓶処罰法が公布・施行された。
火炎瓶処罰法は正式名称を「凶器準備集合罪等に関する法律等の一部を改正する法律」という。 主に火炎瓶による暴動やテロ行為を抑制する目的で制定され、製造や所持、使用に厳しい罰則を定めた。 当時の学生運動や過激派集団による街頭抗議で火炎瓶が多用されていた社会情勢が背景にある。 違反者には懲役刑や罰金刑が科され、従来の刑法よりも重い罰則が適用される。 この法律公布により一部の抗議活動は抑制されたが、議論も呼んだ。
1972年
火炎瓶処罰法