承久3年4月20日
第85代天皇・仲恭天皇が即位。
鎌倉時代の承久3年4月20日に第85代天皇・仲恭天皇が即位しました。
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は後堀河天皇の子として生まれ、わずか数歳で第85代天皇に即位しました。即位当時は北条氏による幕府の実権掌握が続いており、天皇の権威は政治的影響力から切り離されていました。在位期間は同年内に退位するまで非常に短く、その後の歴史記録も限られています。幼い天皇の即位は幕府の支配体制を象徴すると同時に、朝廷と幕府の関係を示す一幕でもありました。即位の儀礼は伝統的な儀式に則って行われ、朝廷の権威維持を図る重要な機会でもありました。
1221年
承久
4月20日
仲恭天皇
1497年
ローマ教皇アレクサンデル6世がジロラモ・サヴォナローラを破門。
フィレンツェの修道士サヴォナローラが教皇アレクサンデル6世により破門されました。
ジロラモ・サヴォナローラはイタリア・フィレンツェで活動したドミニコ会修道士で、教会の腐敗や贅沢の排除を強く訴えた人物です。1497年5月13日、ローマ教皇アレクサンデル6世(ボルジア家)が彼の異端性を理由に破門を宣言しました。これによりサヴォナローラは一時的に政教への影響力を失い、その後のフィレンツェ政府との対立が深まりました。彼の思想は理想主義と過激主義の狭間で賛否両論を呼び、フィレンツェの市民社会に大きな議論を巻き起こしました。彼は翌1498年に市民の手で処刑され、その生涯と思想は宗教改革以前の改革運動としても注目されています。
1497年
アレクサンデル6世
ジロラモ・サヴォナローラ
破門
1779年
オーストリアとプロイセン王国がテッシェン条約を締結。バイエルン継承戦争が終結。
バイエルン継承戦争の講和としてテッシェン条約が締結され、戦争が終結しました。
1778年から続いたバイエルン継承戦争は、バイエルン選帝侯領の相続を巡りオーストリアとプロイセンが対立した紛争です。1779年5月13日、両国はテッシェン(現ポーランド領チェシン)で講和条約を結び、オーストリアはイナー地方をプロイセンに割譲しました。この条約により大規模な戦闘は回避され、両国間の勢力均衡が維持されました。外交交渉によってほぼ無血で終結した点から「ジャガイモ戦争」とも呼ばれています。
1779年
オーストリア
プロイセン王国
テッシェン条約
バイエルン継承戦争
天明4年3月24日
田沼意次の子で若年寄の田沼意知が旗本・佐野政言に殿中で斬られる。4月2日に死亡。
江戸幕府の若年寄・田沼意知が江戸城内で旗本に襲撃され、負傷の後に死亡しました。
天明4年(1784年)3月24日、若年寄の田沼意次の子である田沼意知が江戸城殿中にて旗本佐野政言に斬りつけられました。襲撃は田沼家の政治改革や腐敗を批判する勢力によるものとされ、意知は重傷を負い同年4月2日に息を引き取りました。この事件は「佐野政言事件」として知られ、田沼氏の失脚と幕政への影響を招いた重要な政治事件とされています。この暗殺事件は幕府内の保守派と改革派との対立を象徴する事件ともなり、江戸幕政の緊張を浮き彫りにしました。
1784年
天明
3月24日
田沼意知
佐野政言
4月2日
1787年
オーストラリア・ニューサウスウェールズに設けられたイギリスの流刑植民地に向けた最初の船が、総督アーサー・フィリップに率いられてイギリスを出航。
イギリスの流刑植民地建設を目指す最初の船団(ファースト・フリート)が出航しました。
1787年5月13日、総督アーサー・フィリップの指揮下で英国本土から囚人や兵員を乗せたファースト・フリートが出航しました。約11隻の船団はニューサウスウェールズに流刑植民地を設立する目的で航海を開始し、1788年1月にシドニー湾へ到着しました。この艦隊の出航はオーストラリアにおける欧州人の本格的植民を象徴し、その後の先住民族との関係にも大きな影響を与えました。
1787年
オーストラリア
ニューサウスウェールズ
アーサー・フィリップ
1830年
エクアドルが大コロンビアからの分離独立を宣言。
エクアドルが大コロンビア連邦から分離し、独立を宣言しました。
1830年5月13日、南米のエクアドルは大コロンビアからの分離独立を公式に宣言しました。これはシモン・ボリバルが構想した大コロンビア連邦の解体過程の一環であり、フアン・ホセ・フローレスら指導者が新共和国樹立を推進しました。エクアドルはこの宣言を機に独立国家としての道を歩み、後に他のラテンアメリカ諸国の独立運動にも影響を与えました。
1830年
エクアドル
大コロンビア
1846年
米墨戦争 アメリカ合衆国議会がメキシコに対する宣戦布告を決議。
米国議会がメキシコとの武力衝突を正式に宣言し、米墨戦争が本格化した。
米墨戦争はアメリカ合衆国とメキシコの領土を巡る戦争です。1846年5月13日、アメリカ合衆国議会はメキシコに対する宣戦布告を決議し、正式に開戦しました。背景にはテキサス併合後の国境問題や拡張主義思想がありました。議会決議は賛成多数で可決され、戦争は米国側の優位で進行しました。最終的に1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約でメキシコ側が大幅に領土を割譲しました。戦争は米国の版図を大きく拡大し、アメリカ西部開拓の進展に寄与しました。
1846年
米墨戦争
アメリカ合衆国
メキシコ
1861年
イギリスが、アメリカの南北戦争に対する中立を宣言。
英国が南北戦争での中立を宣言し、国際的な立場を明確にした。
アメリカ南北戦争は1861年に北部と南部の深刻な対立から勃発した内戦です。イギリスは戦局に直接介入しない立場を維持し、1861年5月13日に中立を宣言しました。綿花供給の維持や貿易利益を考慮しながらも、北部と南部の双方と良好な関係を保とうとした行動です。中立宣言は国際法上の立場を明確にし、両陣営との外交交渉に影響を及ぼしました。これにより欧州列強での他国の参戦を防ぐ一因ともなりました。英国はその後も公式にどちらにも支援を行わず、戦争終結を見守りました。
1861年
南北戦争
中立
1940年
ロンドンでオランダ王国亡命政府が樹立。
第二次世界大戦下、オランダ王国の亡命政府がロンドンに設立され、対独抵抗の拠点となった。
1940年5月13日、第二次世界大戦中にオランダ王国の亡命政府がロンドンで樹立されました。ドイツの侵攻を受けたオランダ政府と王室は本国を離れ、イギリスに拠点を移しました。ウィルヘルミナ女王と指導部はここで対独抵抗と連合国支援の調整を行いました。亡命政府はラジオ放送を通じてオランダ国民にメッセージを発信しました。イギリス政府はこの政府を正式に承認し、支援を提供しました。終戦後の1945年に本国に帰還し、統治権を回復しました。
1940年
ロンドン
オランダ王国
亡命政府
1950年
初のラージヤ・サバー(インドの上院)が開会。
1950年5月13日、インド憲法施行後初の上院ラージヤ・サバーが開催されました。
インド独立後に制定された憲法に基づき、下院に相当するローク・サバーとともに上院ラージヤ・サバーが設置されました。
議員は州議会から選出された元老院議員や大統領任命によって構成され、定数はおよそ250名でした。
上院は立法審議の見直しや憲法改正の助言など重要な役割を担うことが期待されました。
初会合では議長の選出や委員会設置が行われ、インド連邦としての統合的な議会制度の一歩を記しました。
この開催は地域代表制と連邦制のバランスを図る政治制度の礎となりました。
1950年
ラージヤ・サバー
1969年
三島由紀夫と全共闘が東大駒場キャンパス900番教室(講堂)で公開討論。
1969年に行われた三島由紀夫と全学共闘の公開討論。学生運動と保守思想の対立が白熱した一幕です。
1969年5月13日、作家・思想家としても知られる三島由紀夫が、大学闘争の中心的存在だった全学共闘会議(全共闘)と東京大学駒場キャンパスの講堂で公開討論を行いました。
この討論では、戦後民主主義や学生運動の方向性など、当時の若者の政治意識が白熱した形で語られました。
三島は自らの保守的立場を主張し、全共闘側は革新的な社会変革を訴え、激しい意見対立が展開されました。
この議論は学生運動の高まりを象徴する出来事として後世に語り継がれています。
討論後も両者の関係は複雑なまま続き、日本の政治文化にも影響を与えました。
三島由紀夫
全共闘
東大
駒場キャンパス
1976年
ポル・ポトがカンボジアの首相に就任。
クメール・ルージュ指導者ポル・ポトがカンボジアの首相に就任。
1976年5月13日、ポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権下のカンボジアで、ポル・ポトが正式に首相に就任しました。
この政権は都市住民を農村へ強制移住させるなどの共産主義的政策を実施し、過酷な統治を行いました。
就任後の数年間で大量処刑や飢饉により、推定100万以上の国民が犠牲となったとされています。
カンボジア国内外で人道的危機が深刻化し、後の国連介入や政権崩壊につながる要因となりました。
ポル・ポト自身の指導は1979年のベトナム軍による政権転覆まで続きました。
1976年
ポル・ポト
カンボジア