承久3年4月20日

第85代天皇・仲恭天皇が即位。

鎌倉時代の承久3年4月20日に第85代天皇・仲恭天皇が即位しました。
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は後堀河天皇の子として生まれ、わずか数歳で第85代天皇に即位しました。即位当時は北条氏による幕府の実権掌握が続いており、天皇の権威は政治的影響力から切り離されていました。在位期間は同年内に退位するまで非常に短く、その後の歴史記録も限られています。幼い天皇の即位は幕府の支配体制を象徴すると同時に、朝廷と幕府の関係を示す一幕でもありました。即位の儀礼は伝統的な儀式に則って行われ、朝廷の権威維持を図る重要な機会でもありました。
1221年 承久 4月20日 仲恭天皇
1373年

ノリッジのジュリアンが、後に『神の愛の十六の啓示』としてまとめられる幻視を見る。

イングランドの女修道士ノリッジのジュリアンが神からの啓示とされる幻視を体験しました。
ノリッジのジュリアンは14世紀のイングランドで活動したキリスト教の修道女で、1373年5月13日に神の愛に関する16の幻視を受けたと伝えられています。これらの幻視は後に『神の愛の十六の啓示(Revelations of Divine Love)』としてまとめられ、英語で書かれた最古の神秘主義文学とされています。書物の原本は現存せず、断片的な写本が中世以降に伝えられました。彼女の著作は女性による中世英文学の先駆けとしても重要視され、その神学的洞察と慈愛のメッセージは後世の宗教思想に影響を与えました。近代になって再評価され、多くの翻訳版が発行されています。
1373年 ノリッジのジュリアン 幻視 英語版
応永4年4月16日

金閣寺の上棟式。

室町幕府第3代将軍・足利義満が建設した北山山荘(後の金閣寺)で上棟式が行われました。
1397年に北山山荘の上棟式が執り行われ、後に金閣寺として知られる建物の骨組みが完成しました。足利義満の退官後の居所として計画されたこの建築は、豪華絢爛な金箔張りの外観と周囲の庭園との調和が特徴です。建築様式は禅宗様、書院造、寝殿造の3層構造で、それぞれ異なるデザインが施されています。この上棟式は室町文化の象徴的な出来事として、後世に金閣寺が世界的に著名な文化財となる基盤を築きました。
1397年 応永 4月16日 金閣寺
1497年

ローマ教皇アレクサンデル6世がジロラモ・サヴォナローラを破門。

フィレンツェの修道士サヴォナローラが教皇アレクサンデル6世により破門されました。
ジロラモ・サヴォナローラはイタリア・フィレンツェで活動したドミニコ会修道士で、教会の腐敗や贅沢の排除を強く訴えた人物です。1497年5月13日、ローマ教皇アレクサンデル6世(ボルジア家)が彼の異端性を理由に破門を宣言しました。これによりサヴォナローラは一時的に政教への影響力を失い、その後のフィレンツェ政府との対立が深まりました。彼の思想は理想主義と過激主義の狭間で賛否両論を呼び、フィレンツェの市民社会に大きな議論を巻き起こしました。彼は翌1498年に市民の手で処刑され、その生涯と思想は宗教改革以前の改革運動としても注目されています。
1497年 アレクサンデル6世 ジロラモ・サヴォナローラ 破門
慶長17年4月13日

宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘(『二天記』による)。

剣豪・宮本武蔵が巌流島(元・船島)で佐々木小次郎と伝説の決闘を行いました。
慶長17年(1612年)4月13日、剣豪の宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で一騎討ちを行ったと伝えられています。武蔵は木刀(木製の太刀)を用い、相手の流星の太刀を防いで決定的な一太刀を浴びせたとされます。小次郎は名高い技『燕返し』で知られていましたが、最終的には敗れて命を落としました。史実としての詳細は諸説あり、『二天記』以外の資料からは異なる日付や場所が示されることもあります。この逸話は後世の文芸・映画・演劇でもたびたび題材とされ、剣豪文化の象徴的エピソードとなっています。
1612年 慶長 4月13日 宮本武蔵 佐々木小次郎 巌流島 二天記
1648年

デリーの赤い城が完成。

ムガル帝国のシャー・ジャハーンが建設を進めたデリーのレッド・フォートが完成しました。
レッド・フォート(赤い城、ラール・キラー)はムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが1638年に建設を開始し、1648年に完成した要塞兼宮殿です。赤砂岩を用いた重厚な城壁や繊細な装飾が特徴で、当時のムガル建築の最高傑作とされています。内廷には豪華な宮殿群や広大な庭園が配され、帝国の権力を象徴しました。インド独立運動時にはレッド・フォートの壁から独立宣言が発せられるなど、近代史でも重要な舞台となりました。現在はユネスコの世界遺産にも登録され、インドの歴史的観光名所となっています。
1648年 デリー 赤い城
1779年

オーストリアとプロイセン王国がテッシェン条約を締結。バイエルン継承戦争が終結。

バイエルン継承戦争の講和としてテッシェン条約が締結され、戦争が終結しました。
1778年から続いたバイエルン継承戦争は、バイエルン選帝侯領の相続を巡りオーストリアとプロイセンが対立した紛争です。1779年5月13日、両国はテッシェン(現ポーランド領チェシン)で講和条約を結び、オーストリアはイナー地方をプロイセンに割譲しました。この条約により大規模な戦闘は回避され、両国間の勢力均衡が維持されました。外交交渉によってほぼ無血で終結した点から「ジャガイモ戦争」とも呼ばれています。
1779年 オーストリア プロイセン王国 テッシェン条約 バイエルン継承戦争
天明4年3月24日

田沼意次の子で若年寄の田沼意知が旗本・佐野政言に殿中で斬られる。4月2日に死亡。

江戸幕府の若年寄・田沼意知が江戸城内で旗本に襲撃され、負傷の後に死亡しました。
天明4年(1784年)3月24日、若年寄の田沼意次の子である田沼意知が江戸城殿中にて旗本佐野政言に斬りつけられました。襲撃は田沼家の政治改革や腐敗を批判する勢力によるものとされ、意知は重傷を負い同年4月2日に息を引き取りました。この事件は「佐野政言事件」として知られ、田沼氏の失脚と幕政への影響を招いた重要な政治事件とされています。この暗殺事件は幕府内の保守派と改革派との対立を象徴する事件ともなり、江戸幕政の緊張を浮き彫りにしました。
1784年 天明 3月24日 田沼意知 佐野政言 4月2日
1787年

オーストラリア・ニューサウスウェールズに設けられたイギリスの流刑植民地に向けた最初の船が、総督アーサー・フィリップに率いられてイギリスを出航。

イギリスの流刑植民地建設を目指す最初の船団(ファースト・フリート)が出航しました。
1787年5月13日、総督アーサー・フィリップの指揮下で英国本土から囚人や兵員を乗せたファースト・フリートが出航しました。約11隻の船団はニューサウスウェールズに流刑植民地を設立する目的で航海を開始し、1788年1月にシドニー湾へ到着しました。この艦隊の出航はオーストラリアにおける欧州人の本格的植民を象徴し、その後の先住民族との関係にも大きな影響を与えました。
1787年 オーストラリア ニューサウスウェールズ アーサー・フィリップ
1830年

エクアドルが大コロンビアからの分離独立を宣言。

エクアドルが大コロンビア連邦から分離し、独立を宣言しました。
1830年5月13日、南米のエクアドルは大コロンビアからの分離独立を公式に宣言しました。これはシモン・ボリバルが構想した大コロンビア連邦の解体過程の一環であり、フアン・ホセ・フローレスら指導者が新共和国樹立を推進しました。エクアドルはこの宣言を機に独立国家としての道を歩み、後に他のラテンアメリカ諸国の独立運動にも影響を与えました。
1830年 エクアドル 大コロンビア
1833年

メンデルスゾーンの交響曲第4番がロンドンで作曲者自身の指揮により初演される。

ドイツの作曲家メンデルスゾーンが交響曲第4番「イタリア」を自ら指揮してロンドンで初演した出来事です。
フェリックス・メンデルスゾーンはドイツのロマン派を代表する作曲家です。1833年5月13日、彼の交響曲第4番『イタリア』がロンドンで初演されました。メンデルスゾーン自身が指揮台に立ち、明るく躍動感あふれる曲想を現地の聴衆に披露しました。『イタリア』は地中海での旅の印象を音楽で表現した作品で、軽快なリズムと華やかなオーケストレーションが特徴です。初演は大きな成功を収め、同曲はすぐに彼を代表する人気作となりました。以降も欧米各地で高い評価を受け続けています。
1833年 メンデルスゾーンの交響曲第4番 ロンドン
1846年

米墨戦争 アメリカ合衆国議会がメキシコに対する宣戦布告を決議。

米国議会がメキシコとの武力衝突を正式に宣言し、米墨戦争が本格化した。
米墨戦争はアメリカ合衆国とメキシコの領土を巡る戦争です。1846年5月13日、アメリカ合衆国議会はメキシコに対する宣戦布告を決議し、正式に開戦しました。背景にはテキサス併合後の国境問題や拡張主義思想がありました。議会決議は賛成多数で可決され、戦争は米国側の優位で進行しました。最終的に1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約でメキシコ側が大幅に領土を割譲しました。戦争は米国の版図を大きく拡大し、アメリカ西部開拓の進展に寄与しました。
1846年 米墨戦争 アメリカ合衆国 メキシコ